今はもう無い導く手(慈覚→森羅)





 嘗て――幼き日の己の手を引いてくれた時、紛れもなく”師匠”の、森羅の掌は大きかった。骨ばっていた手、長い指、それが小さな子供らしい自分の手を握り、この和仙界へと導いてくれた事を、慈覚はよく記憶している。

 目を伏せれば、あの日の事ばかりが今でも蘇る。

 じわりじわりと大切になっていき、いつしか――心の中で、森羅が占める割合が肥大していった。だからこそ……過去、捨てられたように感じて胸が疼いた。それは今も、変わらない。

「俺は君の師匠じゃないよ」

 繰り返されてきた言葉。
 既にその意味を、慈覚はよく理解している。

 ――森羅が選んだのは、何より『天数』という名の運命が彼に相応しいと選んだのは、己ではなかった。自分は選ばれなかった。慈覚は、それを想起する時、いつも心がざわつくのを止める事ができない。

 だが――この日だけは、感情の制御が出来なかった。

 森羅を壁際に追い詰めて、ダンと手を付いた時――無性に苦しくなって、それは愛ゆえの執着によく似たドロドロとした感情を体の内側にもたらし、気づけば『怒り』に駆られていた。

 ――どうして、自分を見てはくれない?

 おそらく本音は、これだった。
 既に、師である森羅の外見は、己よりも若い。

 背もずっと伸びた今、慈覚は両腕の間に閉じ込めている森羅を睨めつけながら、苦悩していた。少しでも危害を加えたならば、森羅の体は脆く砕けてしまうかもしれない。そう思うのに、衝動と感情は、理性を揺さぶる。


 森羅を愛しているのだと理解したのは、自身の洞府を得た頃の事だ。
 大勢の弟子をとってもなお、その人々の中に不在の”師”を思わぬ日は無かった。

 しかし和仙事変で生まれた溝は、そのまま深さを増していく。

「なぜ、伝わらないんだろうな」

 帰り道――環が帰還した後、一人。無名山虚空洞の長い渦巻き状の坂道を下りながら、夕暮れの曇天の下で、慈覚はそう呟いた。

 好きだからこそ、大切だからこそ、森羅を許せないという葛藤が、慈覚をいつも苛む。

 その森羅が弟子を取った事すら、慈覚はこれまで知らなかった。
 最後に聞いた弟子は、奇染だから……もう長い時が経過している。

 人を避けるようにしていた森羅に、一体どういう心境の変化があったのかすら、自分にはわからない。それでも――いつも心の中には、森羅がいた。

 いつだって、会いたかった。
 どうしようもなく、森羅に執着している自分を、慈覚はよく理解している。

 だから忙しい仕事の合間を縫って顔を出そうとするのに、拒否するように円環迷宮と呼ばれる坂道は、己を懐かしき洞府から遠ざける。会いたいと思われていないのは明らかで、自分が嫌われているのだろうと、慈覚は考えていた。

 ――意識的には、慈覚にしても、信用してはならない森羅への苛立ちが止まらない。


 なのに、どうして……森羅の顔は、脳裏から消えないのだろう。
 果たしてそれは、幼い自分自身を導いてくれたからだけなのだろうか?
 歩きながら慈覚は思案する。

「……」

 片手で唇を覆ったのは、澄んだ森羅の瞳と――先程のどこか傷ついたような表情が蘇った時だった。長い付き合いである。無表情の”師”の顔の僅かな変化にも、慈覚は気づけるようになっていた。それだけの期間、見てきたという自負もある。

 しかし――森羅が己を見る事は無いのだ。

 先程顔を合わせた、森羅の新しい”弟子”の姿を思い出した。
 怯えたように、同時に心配そうに、不安気に、自分達を見ていた。
 思わず睨め返してしまったのは――……二つの理由からだ。

「アイツが言っていた、忌み子かもしれない」

 兄弟弟子の言葉を思い出す。和仙事変の引き金となった、生まれる未来を予知された子供が、嘗ていた。生まれたという話は、現在までには耳にしていない。けれど、あの幼子の顔を見た時、直感せずにはいられなかった。何せ――父であるはずの人物が、同じ年頃だった頃の面影が、環という名であるらしい新弟子には確かにあった。

「何を考えているんだ、師匠」

 その子を引き取るだなんて――馬鹿げている。
 忌み子に幻術を教えたならば、あるいはそれは、この和仙界に終焉をもたらす。

「……」

 だが、睨んでしまったのは、それが理由ではないと、慈覚はよく理解していた。
 子供に罪はないのだと、理性も繰り返し唱えている。

 もっと純粋で、もっと単純で、もっと残酷な事に――慈覚は、ひとえに、環に嫉妬していた。嫌でも自覚してしまう。己の手が届かなかった、弟子という位置に、当然の顔をして収まっている少年。彼にしてみれば理不尽だろうが、慈覚の胸を苦しくさせるには十分すぎた。

「どうして、俺には――」

 ――何も出来ないのか。
 過ちが起きぬように、ただ、森羅の安否を思うのに、それを”師匠”は望まない。

 自身の余計な親切心を彼は拒むし、それよりもよほど、そばにいる愛しい今の新弟子に、その存在に、森羅が癒されている事が伝わってくる。

 長きに渡り、森羅は洞府から出なかった。
 慈覚がいくら連れ出そうとしても、それは叶わなかった。

 しかし、環の授業参観にあっさりと顔を出した森羅を見た時――苛立ちがこらえきれなかった。底怪の出現だけが問題ではなかった。だから半ば八つ当たり気味に告げたのだ。

 先程腕の合間にいた、思ったよりも小さく華奢に見えた森羅の事を思い出す。

「俺は――……どうすればいい? どうすれば、お前を守れるんだ?」

 この胸中で渦巻く感情が――愛憎という名前をしている事に、とうの昔から、慈覚は気がついていた。だからこそ、苦しい。何もできない無力感と、何かしたい……そばにいたい気持ち、そして――そこで、自分以外を森羅が見る姿を決して見たくはないという欲望。

「一体俺は、何をやっているんだ」

 ぐるぐる山を抜けようとした時、黒い雨が降ってきた。
 突然の事で、慈覚の黒い髪が雨に濡れていく。

 こめかみに張り付く感触に、辟易しつつも――内心のドロドロを押し流して欲しいと、慈覚は自嘲気味に考えた。翡翠色の瞳を、一度だけ後方に向ける。

「森羅は大切だ。だが、だからこそ――」

 ――共に過ごす、この和仙界を守る。

 そう決意を顕にしてから、慈覚はぐるぐる山から外へと出た。
 そこには初夏の陽気が、夕暮れながら残っていて、雨も無い。