すると兆越が、庭に面した大きな窓を開けた。
 ひんやりとした冬の風が入ってくる。
 兆越が、置いてあったサンダルをはいて、外へと出た。

 俺もついて出てみる。サンダルは、いつもここに、二つ置いてあるのだ。昔からだ。
 兆越は、庭の一角に立っているオブジェを見ている。
 俺もそちらへ視線を向けた。

 昔から俺が謎だと思っていた代物だ。何のために存在しているのか分からない、黒い石である。細長い。頭頂部にくぼみがある。それだけで、他にはなんのデザインもないのだ。

「森羅は今でも、これを置いてくれていたんだな」
「それ、なんなんだ?」
「俺が作った灰皿」
「灰皿?」
「煙草を吸ってるんだよ、俺。お前が円華の腹にいた時と、お前が小さい頃はやめてたんだけどな。懐かしいな」

 兆越が両頬を持ち上げた。回想に耽るように、黒いオブジェを見据えている。

「俺が昔、煙草を吸い出した頃に、体に悪いって言って森羅が室内を禁煙にしたんだよ。だから俺は、ここに灰皿を設置したんだ。あいつ本当に口うるさいんだよなぁ」

 そうは言いつつ、兆越はどこか嬉しそうだ。懐かしむような顔をしていた。
 師匠は多分、彼の体を気遣って禁煙するように言ったのだろう。俺も、吸ってもいないのに、「体に悪いから煙草は吸わない方が良いよ」と、言われたことがあるのだ。

 だけど師匠は、いつか兆越が帰ってくるかも知れないと思って、灰皿を残していたんじゃないだろうか。あるいは兆越が置いていったものだから、残していたのかもしれない。

 だって慈覚様いわく、師匠は兆越にも優しいのだ。
 煙草を禁止したのも優しさなんだろう。
 反面、それでも外で吸うことを許したり、こうやって灰皿を残しておいたのも、優しさだと感じる。いつ帰ってきても良いように、残しておいたのかもしれない。そして、いつでもその灰皿を見るたびに兆越を思い出せるように、彼が置いたものだから、大切にしていたのだろう。そんな気がした。

 俺は、今ではそれが辛くない。師匠が俺以外にも優しくて、むしろ嬉しい。もしかすると昔は悲しかったのかもしれないけど、今は違う。仲間みんなに優しくしてくれる師匠が好きで、俺は今日ここに集まったみんなを仲間だと思っている。俺は全員が、おさかな洞の仲間だと思っている。まぁ、おさかな洞と呼ぶのは俺だけかもしれないけど。彼らにとっては、太極府の方が馴染みがあるのかもしれない。

 それはそうと、ひとつ気になった。

「円華って、誰?」
「お前の母さん」

 俺は記憶を掘り返し、母の最後の声を再び思い出した。
 だけど。
 あれは、兆越が俺に見せた幻術である可能性が高い。心臓の音が激しくなる。

「生きてるのか?」
「あたりまえだろ。俺を誰だと思ってるんだよ。天帝になんぞ、愛する女はやらねぇよ。愛する子供もやるつもりはなかった――って言えたらもっと格好良かったんだろうけどな。ごめんな。俺には、それはできなかった。俺はお前のことを、諦めてた」

 兆越は、自嘲するような瞳で、溜息をついた。

「俺って情けない父親だよな。我ながら酷い。それでも、和仙界で意識を取り戻した時、最初にお前がどうなったのか聞いたよ。正直、生きていると聞いて、嬉しかった。これもどっちつかずで最悪の判断だ。天帝を葬ることを念頭に置くなら、喜んでいる場合じゃないはずだったんだ。だけど、嬉しくてなぁ。だから、本当に自分が不甲斐ない」
「そんなことない。多分、だけど。もし俺と父さんが逆の立場でも、俺は師匠を守るために、自分の子供を手にかけようとしたかもしれない」
「そう言ってもらえると、気が楽になる。ま、森羅はそうしようとした俺の顔を見た時、再会して最初に、『師匠の命のために、子供に手をかけようとするなんて君は馬鹿だ! そんなことをして俺が喜ぶと思ったのか!』って怒っていたけどな。環は優しいな。慰めてくれて、ありがとうな」
「別に慰めたいわけじゃないんだけど――そういえば、奇染は、父さんが出て行った責任が、自分にあるって言っていたけど、どうして?」

 俺はふと疑問に思って尋ねた。

「奇染の出身の『まつり一族』は、天帝の神託を読み取れるんだ。昔さ、神託を受け取って、あいつ、言ったんだよ」
「なんて?」
「『森羅万象院混沌氏は、愛を喪失し、この世界は終焉を迎える』だったか」

 兆越が思い出すように目を細めた。

「それから『そのために、天帝は混沌氏のもとに、人間の器に宿って近づく。そして人間のふりをして、混沌氏に愛された後、人間ごっこを止める。そして自分が天帝だと伝えて、混沌氏が愛した人間などすでに存在しないと嘲笑う。あるいは最初からいなかったと知らしめる。そう教えて絶望させる』というような話を聞いた」

 俺はこれまでの出来事を思い出して、その神託は確かだったのだろうと考えた。

「他にも『絶望した混沌氏は、世界を無で覆う。天帝はその機会を見逃さず、この世界を終わらせる。そして別の世界を新たなに創造する』と、この世界の消滅について聞かされた。とても信じられなかったよ」
「信じられないよな、普通」
「ああ。それでも俺は続けて、人間の器について奇染に問い詰めた。そうしたらな、『天帝の人間の器となる幼子は、和仙界の仙女から生まれる』と言われた。ここまでは、まだ落ち着いて聞いていられた。阻止できると漠然と考えていた」

 兆越が、それから自嘲気味に口角の片側を持ち上げた。

「『父親は誰なんだ?』って、俺は聞いた。もう阻止する計画で頭の中がいっぱいだった。だけどな、その日初めて奇染が言うのを渋ったんだよな。半ば脅すようにして、結局俺は言わせたけど。聞かなきゃ良かったと、今でもたまに思う」
「奇染も言いづらかだろうな……」
「だろうな。俺だって言うのを渋る。で、『父親は兆越だ。兆越の息子として生まれてくる』と聞いた時、俺は耳を疑った。最初は、何を言われたのか、全くわからなかった」
「俺も耳を疑う自信がある。それを聞いたら」
「正直ドキっとしたよ。ゾクッとした。俺は、『まつり一族』の出ではないから神託は受け取れないし、『さきみ一族』の出でもないから、未来予知もできない。けどな、俺の持つ瞳血は、真実を見通せる。お前も同じ力を持ってるんだろ?」
「う、うん。あんまりよく分からないけどな」
「環もだんだん感覚をつかめるはずだ。それでまぁその力で――奇染の受けた神託に、嘘がないことはすぐにわかった。それで俺は、世界の終焉を阻止するべく動いたわけだ。ずっと奇染は、俺に話してしまったことを、気にしていたんだろうな。だから離山したんだ」

 兆越はそう言うと、吹き出した。

「ま、明星宮の激務をこなしたくなかったってのも、本音だろうけどな。ただ一つ言っておくが、あいつのせいで、和仙事変を起こしたわけじゃない。最初は、自分の考えが間違いであってくれることを祈った。けどな――あの時、森羅が……」

 兆越がその時言葉を区切った。首を傾げた俺の前で、兆越が指を鳴らす。すると煙草が現れた。小さな銀色のケースに入っている。

「吸ってもいいか?」
「うん。それで、師匠がどうしたんだ?」
「新日本記紀を見ていたんだよ。泣いていた。あいつは……永久の冬をもたらしたことを後悔してたんだよ。例えば――今日出てきた料理も全部、旧世界の料理だってお前知ってたか?」
「そうなのか? 全然知らなかった」

 俺はいつか見た、フレンチという料理の本の表紙を漠然と思い出していた。
 深々と煙を吸い込み、それから兆越が煙を吐く。
 俺は朝もやの中に溶けていく紫煙を見守りながら、腕を組んだ。

「師匠は、旧世界を消しちゃったことを、後悔してるってことだよな? だから、それに関係してる古文書を見て、泣いてたってことだろ?」
「ああ、そうだと俺は思ってる。だからもう、泣かなくていいように、二度と世界が滅びないようにしたかった。そして可能であれば、混沌氏――つまり森羅の手で世界を管理させたいと思っていたんだ」
「それが和仙事変か?」
「否定はできない。『混沌氏が、和仙界を治めるべきだ』という歴史を多くの者が習っているだろうからな。その記述は、間違いじゃない」
「どうして混沌氏に治めて欲しかったんだ?」
「森羅を信頼しているからだ。泣くほど後悔してるんだから、あいつなら、もう二度と世界を消去したりしないと、俺は信じてる。だから森羅に管理させたかった。残念ながら、天帝を信用することはできなかったんだよ」
「確かに師匠は、世界を消したりしないと思うけど……」
「だろ? 後はさぁ、天帝は、『世界を創り変える能力』を持っているっていうのが大きい。だからむしろこの世界を消去したがっている。創りやすさを追求しているんだ。そんな相手に、世界を任せておくのは、不安だったんだよ」

 つらつらととりとめもなく語りながら、兆越が煙草を吸う。俺は、少しだけ煙が嫌だなと思った。ただ、なんとなく、男らしい手でフィルターを挟んでいる父さんが格好良く見えた。いつか師匠は俺に、『煙草を吸う姿を格好いいなんて思うのは間違っている』と力説したことがあるんだけど、なんでなんだろうな。師匠は嫌煙家なのかな。俺は、別に気にならない。

「父さんは、師匠に世界を管理させるために、和仙事変を起こしたのか? 俺が生まれてくることを防止するためじゃなくて? 天帝が、出てこないようにしたんじゃないのか?」
「どちらの意図も含んでいた。今思えば、欲張りだったかもな。ただ勿論、一番の目的は、『天帝を産む仙女の排除』だった。お前の母さんが現れないように力を尽くした。優先順位は決まっていたよ。俺は慈覚と違って仕事ができるから、つねに事前に決めてある」
「慈覚様も、優先度をはっきりさせてるけど」
「それは勘違いだな。ま、とりあえず話を戻すと、俺はお前を葬るために――それ以前に、お前が生まれないように、和仙事変を起こしたわけだ。天帝の人間の器を生み出さないように、行動を起こしたんだよ」
「本当に――俺の親になり得る、和仙界の仙女を虐殺したのか?」

 言いつつも、俺は、少なくとも虐殺に関しては信じられないでいた。仮にそれが真実なら、少なくとも慈覚様は、一緒にお酒を飲んだりしないと思うのだ。あの人は、正義感の塊だ。

「してねぇよ」

 だから返ってきた言葉に安堵した。

「俺は、和仙界中に、幻術をかけたんだ。俺が、年頃の女の仙道を大虐殺してるってな。だから、全員が最寄りの高齢の仙人に匿われた。完全に隔離したんだよ。俺が実際に血を流したのは、ただの一度きりだ」
「血、流したのか?」
「慈覚と斬り合った。俺は、これでも慈覚より優秀だって言われたこともあったんだよ。俺はそうは思わないけどな。ただ俺自身、あいつより負けず嫌いだった自信はある。だってあいつも、俺のその幻術に、見事に引っかかったからな。激怒してたよ」
「なんで慈覚様に、幻術だって言わなかったんだ?」

 苦笑しながら兆越が煙を吐いた。

「巻き込みたくなかった」