俺の真横で天帝犬が階段を踏み外した。
 完全に天帝犬は動揺している。
 慌てたように師匠が手を伸ばしていた。本当、いちいち優しいな。

 それから師匠は、静かに俺を見た。

「会いたいって言ってるけど、どうする?」
「んー、どうって? 師匠はあんまり会って欲しくないか?」

 家族という言葉を俺は思い出した。
 慈覚様に聞いてみる猶予など無かったらしい。

 だから俺は、師匠に直接聞いてみたのである。師匠が嫌なら会わない。
 俺の父親は、紛れもなく兆越なのだが、俺は師匠のことをなによりも大切な家族だと思っているからだ。師匠に寂しい思いを、させたくない。個人的には、父さんに会いたいけど。だけどそれは、今日じゃなくても良いのだ。

「……俺は、兆越は優しいと思ってるよ」

 すると予想外の言葉が返ってきた。それがどういう意味なのかは、いまいち分からない。だって優しいのは師匠だと思うからだ。

「それとね」
「なんだよ?」

 今度は、俯きながら師匠が言った。

「奇染も来てるんだ」
「……へぇ」
「あんまり会いたくない?」
「別に。どっちでもいい」

 俺の声に、師匠が沈黙した。

 師匠は以前、奇染に怒っていたけれど、彼だって師匠にとっては、大切な弟子なのだろう。確かに色々あったけど、二人が顔を合わせるのを邪魔をする必要が、今の俺にはない。きっと、奇染は、師匠に酷いことなんてしないだろう。だから以前とは異なり、「会いに行かないで欲しい」とお願いする気にはならなかった。

 奇染も、俺にとって兄弟子だし。
 いつか奇染も、確かに俺を大切な弟弟子だと言ってくれたし。

 何より彼は、ある意味ではずっと俺のことを知っていたのだ。
 なのにそれでも、見守っていてくれたのだ。

 それはそうと、俺は一つの予測を立てた。

 天帝犬がいつか、『太極府にも新年会があった』と言っていた。
 そして昨日、南極は師匠に「楽しみにしていれば良い」と、笑っていた。
 そんな中、もうすぐ新年を迎えるこの洞府に、二人も師匠の関係者が集まっているのだ。

 これは、もしかすると。

「なぁ師匠」
「なに?」
「慈覚様と醒宝様も来てるのか?」

 淡々と俺は聞いた。
 すると、師匠が驚いたように足を止めた。
 その表情を見た瞬間、俺は自分の予測が正しかったと理解した。

「何で分かったの?」
「太極府の新年会なんだろ?」
「え、何で知ってるの? 数百年ぶりにやるのに」

 苦笑してしまう。
 本当に、昔はいつも、新年会をしていたのだろう。

「ちょっとな。むしろ俺がいて良いのか?」
「あたりまえじゃないか。環は俺の弟子なんだから」

 師匠が破顔した。俺はその言葉に嬉しくなったから、満面の笑みで頷いた。

 それから俺達は、リビングに向かった。
 信じられないという顔で、率先して天帝犬が入っていく。

 そして天帝犬は、兆越の周りをくるくる回りながら、吠え始めた。
 俺以外の前では、人語を話す気はないらしい。
 それでもいい。賭けは俺の勝ちだ。

 俺は、初めてきちんと目にする自分の父親を見て、やっと顔を思い出した。

 多分、人間界や地界にいたからだろうけど、ちょっと老けている。慈覚様と比較した場合だけどな。磊落様と同じくらい、三十代前半か、もう少し年上に見える。無精ひげが生えていた。なんとなく俺に顔が似ている気がする。だからなのか、すぐに父親だという実感が湧いた。本当に生きていたんだな。

 兆越は、天帝犬をまじまじと見ている。
 俺の方は見ない。
 俺に気づいているとは思うんだけど――なんだか、あえてこちらを見ないようにしている気がした。

 そこからソフ後テーブルを挟んだ位置には、見慣れた上司の顔があった。
 慈覚様がネクタイを緩めていたのだ。彼は俺を見ると、静かに苦笑した。

 その横では、醒宝様は道服姿で笑っていた。
 好々爺は、俺に向かって満足そうな顔で頷いている。
 だから俺も頷き返してみた。何が言いたいのかは、分からない。ちょっと悩んだけど、兆越の帰還を喜んでいるんじゃないのかと推測しておいた。

 ちなみに師匠と俺もいつもどおりの同服姿だ。

 兆越はTシャツ姿である。

 だが、すぐに慈覚様と兆越が、上着をまとった。道服の上だ。
 その結果、全員が、後に太極魚由来の洞府紋を背負っている形になった。
 混沌氏から連なる万象院由来の洞府紋がこれだけそろうのは、圧巻だ。

 いろんな人に見せてやりたい。
 特に、前に紋を数えていた燈焔様とかに。
 きっと彼は、師匠の持つ紋を複数カウントしていたに違いない。

 天帝犬がその後、今度は俺の方に走ってきた。
 そして俺の足に、鼻を押し付けた。
 すると脳裏に声が響いてくる。

『貴様、知っておったな!』

 何の話かな後心の中で返す。
 ――俺の勝ちだ。どっちにしろな。
 心の中で笑った俺に、天帝犬が敗北宣言をした。

『余の負けを認める。兆越をしかたがないから見逃してやる。今は! 隙を見せたら覚悟いたせ!』

 ――今からもこれからもずっと見逃さないと駄目だ。
 俺は心の中で、凄んでおいた。

 それから俺は兆越へと、歩み寄ってみた。
 彼は、俺から離れて室内をぐるぐる回り始めた天帝犬を、目で追っている。
 俺が正面に立った時、父さんもようやくこちらを見た。

 だが、無言だ。何も言わない。

 何でもない顔をしているところは、俺も同じだから気持ちが分かる。
 だけどきっと父さんも、俺と一緒で、内心はドキドキしているはずだ。
 再会って、緊張するんだな……。

 声をかけるタイミングが分からない。
 おそらくお互いに、そう思っている気がする。
 先に声をかけたほうが負ける感覚になってくる。

 いいや――ここは勇気を出して、俺から折れてあげようではないか!
 負けるが勝ちという言葉もあるからな!

 俺は、ニッと笑ってから、腕を差し出した。手首を掲げてみる。幼い頃修行をつけてもらっていた時と同じ動作だ。

 すると驚いたように、兆越が目を丸くした。

 それから吹き出して、父さんが、昔と同じように、俺の手首を、己の手首でポンと叩いた。その力強い感触とぬくもりに、俺は心が浮き足立ってきた。

「会いたかったぞ、環」
「なんだか色々俺は、父さんに聞かなきゃならない気がする」
「父さん、か。まだ、そう呼んでくれるんだな」
「嫌か?」
「まさか。だけど森羅が師匠で、本気で良かった。環を環って名前で引き取ってくれたんだからな。俺、ずっとお前には、環って名前をつけたかったんだよ」

 兆越がそう言って師匠を見た。すると師匠が嘆息した。

「慈覚と兆越は、子供の名前を考えるたびに、壁に落書きしていたからね。中でも兆越は、環って何度も書きなぐっていたから忘れなかったよ。最初は同名だとしか思わなかったけど。ここを『ぐるぐる山』って名付けたのも、君達だよね。円環が好きなんだっけ」

 すると慈覚様と父さんが大きく咳き込んだ。

 ――ぐるぐる山の名付け親?

 そういえば、リビングの壁の一角に、塗り直したところがあるのだった。いつも明らかに不自然だと思っていたのだ。壁紙がはりかえられていて、その周囲にペンキが塗られている例のあの一角だ。今はオルガンが、その前に置いてあるけど。後で、おかしな壁紙をはがしてみようかな。

「いたずらっ子としか言えぬかったからのう。いつまでたっても騒がしい二人じゃった」

 醒宝様がひげをなでながら、その壁の方を見ている。
 絶対あそこだな。あそこに何か落書きがあるんだな!

「森羅は、いつから環が兆越の実の息子だと知っていたんだ?」

 慈覚様が、あからさまに話を変えた。

「まぁ、はじめから兆越に顔が似てるとは思っていたし、可能性を考えたことは何度かあったよ。瞳血の能力も同一だったから。だけど、天帝に断言されるまでは、まさかな後思っていたね。知らなかったんだ。慈覚は知ってたの?」
「いいや。年々顔立ちが似てきたとは思っていたが、俺も知らなかった。なにより、表情が違うからな、環は。兆越とは違って、素直だ。顔にすぐ出る」

 二人のやり取りを、兆越が曖昧な笑顔で見ている。
 確かに父さんは、師匠並みに面の皮が分厚そうだ……。
 俺も天帝犬に対しては、表情筋の酷使をしたのだが。

「それにしても、新生太極府じゃな。太極府の新体制じゃ。良き日取りじゃ。ゆかりの紋が全て揃っておる。わしはこの日を夢見ておった。兆越のことも信じていたしのう。環を迎えて、この顔ぶれで、この年越しおよび新年会を再開したかったのじゃ」

 その時、醒宝様が、仕切り直すように手を叩いた。
 見た目もあるが、やっぱり彼が、全員の師匠だと聞いた方がしっくりくる。
 森羅様には、場を取り仕切る能力が、あまり無いイメージだ。

「なにせわしのところも、慈覚のところも、弟子達は仙界出の者ばかりじゃからのう。みんな、年末年始は生家に帰ってしまうのじゃ。兆越と奇染がいなくなってからというもの、わしと慈覚は、森羅様が洞府に入れてくれないから、寂しく二人で飲んでおったのじゃ」
「え? 君達は、二人で飲んでいたの?」

 師匠が驚いたように声を上げた。

「そうじゃ」
「誰が後片付けをしたの?」
「もちろん、年明けに帰ってきた弟子達じゃ。一年交代で、わしか慈覚の弟子が、新年早々片付けを担当してくれていたのじゃ。だから今年、外出すると言ったら、泣いて喜ばれてしまってのう」
「君達は鬼だね。俺でさえ、兆越や奇染がいなくなって、後片付けを手伝ってくれる人がいなくなってからは、君達を拒否したのに。お世辞にも、君達の酒癖がいいとは言えない」

 師匠と醒宝様のやりとりに、俺は半眼になった。
 酒癖が悪いから洞府に入れないとは、相当ではないか……。
 だから師匠は、俺がお酒を飲まないように、多大なる配慮をしているのだろうか?