案外天帝犬は、気にしやすいんだな。神経質なのかもしれない。同じ『天帝』とはいうけど、俺とは、その辺が全然違う。俺はかなり大雑把だ。特に仕事以外は。仕事になると、俺もスイッチが入るんだけどな……。

「教えてくれるのか?」
「供物は、雑煮で良い」
「お餅か。おさかな洞では、明日食べることになってるから、今日は無理」
「で、では、明日まで我慢してやる。して、なんなのだ?」

 案外食い意地がはっているというべきか、気になって気になって仕方がないのだろうと判断すべきか、どちらにしろ面白くて、俺は吹き出した。

 それから素直に教えてもらうことにした。

「まず一つ目はさ、永久の冬の前の世界のことが聞きたいんだよ。人間界の大厄災だっけ? その前って、何があったんだよ? 迷宮図書館にあるものとか、ああいうのが関係しているんだろ?」
「ああ、なるほどな。旧世界に関しては、確かに余と混沌、あるいは南極しか知らぬな」

 鼻を鳴らし、天帝犬が頷いた気配がした。

「実に陳腐な話だが、永久の冬と呼ばれる大厄災の期間に降った、雪によく似た無機物で、世界は消し去られてしまったのだ。あの時は、白だったというだけだ。無には、本来色がない。貴様の場合は、混沌が黒く溶けた姿を見たであろう」
「見たけど。消し去られた……うーん、消去というか……覆って隠されたのは、どんな世界だったんだ?」
「この日本列島に広がっていた文明だ。科学文明と呼ぶ者が多かったか」
「科学文明?」
「今も混沌が女々しく手元に置いているいくつかの残り香が存在するであろうが。例えば、カメラ、エレベーター。そういった技術が、いたるところにあった文明だ」
「あれって宝貝じゃないのか?」
「違うものだ。動力源が異なる。電気や歯車を要する機械と、仙気を必要とする宝貝は、ほぼ同じ動作を再現できても、根本的に原理が違う」

 そういえば、確かに俺は、カメラとエレベーターには同じ印象を受けたことがあったな。見た目は全然違うのに。後は、洞府の外の放水機やシャワーも、師匠は宝貝だと口にしていたけど、同じ印象だ。よくよく考えれば、仙気を感じないからかもしれない。

「高度に発達した科学文明は、簡単に言えば、混沌の好みには合わなかった。そして終焉した。そのくせに、じめじめと混沌は、後悔しながら、必死で記憶をたどって古文書を書き記したり、当時の書物を迷宮図書館に集めて、余から隠して守ってきたのだ。馬鹿げている。実に滑稽だ。ただまぁ、この世界で使われている暦も、文字も、単位も、ほぼ全てがそこから借り受けたものだから、必ずしも一概に悪とは言えぬだろうが」
「好みに合わなかったって……後悔してたんなら、本当はそっちだって続行したかったのかもしれないだろ?」
「断言してそれはない。新日本記紀といったか。混沌が記したくだらない古文書にならば、仔細が綴ってあるはずだ。あの頃、人間は道を誤った。仮に混沌が絶望しなかったところで、人間に生存するすべなど無かったであろうな」
「なんで?」
「それを伝えることはできぬな。その失敗を、貴様も繰り返し、この和仙界も終わらせるが良い。人間とは、実に醜きものだ。どうせじきに、同じ失敗を繰り返す」

 失笑しているような天帝犬の言葉に、俺は首を傾げた。

 ――果たして、そうなのだろうか?

 確かに人間は失敗を繰り返すこともあるだろうけど、学ぶこともできるんじゃないのかな。その結果として、師匠だって、今の世界には愛着を持ってくれたのかもしれないし。

 とりあえず、過去には、現在とは違う異世界が広がっていたのだろう。
 それだけはわかった。

「俺は、頑張って、師匠を絶望させないようにするって誓ってる。お前のことも、絶望させてやらないから、覚悟しとけよ」
「上等であるぞ。余に勝てると思い上がる貴様を、いつか絶望の淵にたたせてやる」
「やめてくれよ。仲良くしよう?」
「お断りだ」
「んー、ああ、じゃあ二つ目聞いてもいいか?」
「なんだ?」
「そもそも神様……神仙って何なんだ? 天帝とか混沌とか神農――南極とか。特に、混沌氏ってなんなんだ? なんで存在してるんだ? それに天帝と混沌は、ついをなす、対等な存在だって言うけど、具体的にはどう言う関係なんだ?」
「全ては森羅万象の出現、宇宙の創造に関わるとしか言えぬな。余らは様々な名前を持つが、それをアニミズムと呼ぶものもいれば、唯一神と信じる者もいた。この世界であれば、元となっているのは華仙界の下にある大陸の神話だ。しかし人間の言葉で読み解いたもっとも近しい概念は、コスモスだといえる。余と混沌はマクロコスモスであり、神農はそれをミクロコスモスで読み解く存在だ。あるいは全ては、余が存在する全ての人間、そして動植物の、心の中に展開している宇宙と換言できる」
「は?」
「どうせ貴様には難しくて分からぬだろう。簡単に言うてやるならば、宇宙と人間の中身は同じということだ」
「全然簡単じゃないから。意味が分からない。お前教えるの下手すぎ!」
「黙れ。自分の無能を余のせいにするな」

 天帝犬に馬鹿にされたことだけはわかった。
 しかし俺は、理解できないのでこれは置いておくことにした。
 こういう概念は、あんまり好きじゃないのだ。

 俺は歴史を研究しようかなとか、人の気持ちを知りたいとは思ったけど、仮にも仙人だから、天玄教以外は信仰する気がないし。天帝が一番の神様だとはいえ、納得はできない。天玄教には、コスモスなんて言葉は出てこないのだ。

 それからもひとしきり天帝犬は、ビックバンだのなんだのと語っていたが、俺は聞いていなかった。そして頃合を見計らって最後の質問をした。

「あのさ、これが一番聞きたかった最後のことなんだけど」
「ふむ。言ってみよ」
「俺の父さん――兆越が死んだ時って、どんな感じだった?」

 天帝犬は、兆越は亡くなったと考えているはずなのだ。
 だけど、師匠と南極の言葉を信じるならば、それは間違いなのだ。

 ならば、考えられるのは、『天帝が幻術に飲まれた』ということである。つまり俺が覚えている、嫌な死臭も蛆虫も、全部幻だったということだ。

「障気にたえ切れずに、体を蝕まれて、悲惨な末路を辿ったな。無様であった」

 楽しそうに天帝犬が言う。

「その前後に、何かあった?」
「兆越という名の愚か者は、何度も余を殺すことに失敗していた。我が子が可愛かったのだろうな。和仙界の多くの人間を、余の親になる可能性があるからといって大虐殺したくせに、我が子のみ殺せぬなど、愚の極み。何度も笑い転げたものだ」

 耳の奥で、俺自身の幼かった頃の声音で、嘲笑が響き渡った気がした。
 確かに当時、天帝だった俺は笑っていたのかもしれない。
 ニヤニヤしていたような、そんな記憶がある。

「結果として、貴様の母親が、余を手にかけようとしたのだ。貴様の体ごと。それを、また実に滑稽なことに兆越は止めおった。馬鹿としか言えぬ。仮にあそこで手を下していれば、まだ救いもあったかもしれぬのにな。余は、まだまだ挽回可能である。貴様という人の器がそこにあるのだから」

 俺はなるべく天帝の余計な感想は無視することに決めた。
 そうじゃないと、俺は様々な嫌な感覚を思い出してしまいそうになる。
 今は幻術にかかっていたのか判断するために、天帝の主観的な記憶が知りたいのだから、そちらを優先すべきだ。俺が過去に浸って憂鬱になっている場合ではない。

「母さんが俺を殺そうとして、兆越がそれを止めたんだな?」
「その通り。結果的に余を殺せなかった二人は、その後、底怪がひしめく地界に降りた。そこに小屋を建てた。心中というやつだな。直接手にかけられなかったから、間接的な方法で余を葬ろうとしたのだ。余は怯えた顔をして見せたものである」
「俺だけじゃなく、父さんも母さんも死んじゃうだろ……地界に行ったら……」
「いかにも。心中とはそういうものなのだろう? しかし余はあの程度の障気で死ぬことなどない。だから内心、余は笑っていた。実に馬鹿げていたからな。愚かで仕方が無かったのだから。勝手に二人で死ぬのだろうと思えば、笑いが止まらなかった。ただ――変わったことを言ってはいたが」
「変わったこと?」
「あれだけは、今でも意味が分からぬ」
「なんて言ってたんだ?」
「『このまま終わらせるかよ』と、な。そう言って、兆越は笑いおった。死に逝く妻を見ながらな。ではどうする気なのかと余は笑って見ていたが、結局どうにもならずに、貴様の母親の後を追うように、父親もあっさりと亡くなりおった」
「……父さんって、母さんよりも後に亡くなったのか?」
「そうだ。結局、意味など無かったのかもしれん。余は深く考えるタイプなのだ。繊細だからな。気にしすぎだったのだろう。兆越は、ただの馬鹿だったのだ。余が買いかぶっていたのだ。仮にも父親だったから、大きく見えてしまったのだろうな」

 ――俺の記憶と違う。

 思わず腕を組んだ。
 俺は確かに、母の最後の言葉を覚えているのだ。
 父さんの方が、先に亡くなった。その隣で母さんが、俺に『生きろ』と言ったのだ。

「なぁ、父さんの変な言葉の前に、もっと何か無かった?」
「例えばなんだ?」
「うーん……」
「しいて言うならば、底怪の襲撃があったな。酷い障気であった。余を殺すことは不可能だったが、あの底怪の群れは、非常に大規模で、余も見ていて気分が悪かった」

 そういえば、南極も、俺を拾ったのは、底怪が現れたからだとは言っていたな。障気に触れれば、普通の人間も仙人も病気になるとも言っていた。全くの嘘ではなかったのだろうか。南極のことが、いまいち分からない。

「そのせいで、余は一時的に貴様の奥深くに退避した。あまりにも濃すぎてな、しばしの間は表に出ることすら叶わなかった。闇にすべてを包まれた。ああ、そうだ、貴様に短剣を突き刺された所と似た場所にいたのだ。余はしばらくの間、そこを彷徨っていた」

 俺は、いつかあの闇の世界にいた時、確かに『見覚えがある』と感じたことを思い出した。すると脳裏に、幼い頃にも同じものを見た記憶がよぎった。そうだ、俺はやっぱり、あの黒で構成された世界を見たことがあったのだ。

「あそこは貴様の中に存在しているところだ。そこで身動きがとれなくなったのだ。それほどまでに底怪は、気分の悪さをもたらしたのだ。それこそ、勝手に『世界が創りかえられる感覚』に、よく似ていた。余は、余を除いたいかなる存在にも、それを許したくない」
「世界を創りかえられる感覚?」
「貴様の感覚でいうなら、『幻術をかけられた感覚』だ。例えば、己の家族が死ぬ光景を幻術で見せられたら、人間とは気分が悪くなるのだろう?」
「最悪な気分になるな……」
「無論、ただの人間にはそんな力はないが。天仙の天数でも持っていたのであれば違ったであろう。余が確認した時点において、生まれたその時、間違いなく兆越は天仙の天数を持ってはいなかった。天仙クラスになれば、人間の器の中にいる神仙にも幻術がかけられる」

 俺の中に退避していた天帝は、俺の中……人間の器の中にいたということになる。
 その上、人間としての俺の意識は、しっかりと幻術にかかり、死を見たのか?
 そう考えることは、難しくない。