そのまま三十日は、おさかな洞の自室の大掃除をして過ごした。
 寝台の上ですやすや眠っている天帝犬を見て、ちょっとは手伝ってくれればいいのにと思ったが、犬にはお手伝いは無理だと考え直した。猫ならば、猫の手を借りたいなんていうくらいだから手伝えそうだけど、猫には足しかないななんてぼんやりと考える。

 そうこうしているうちに、無事に大掃除は終わった。

 夕食の時間に階下へ降りた時には、さすがに南極の姿は無かった。

 師匠の飄々としている横顔を眺めながら考える。本当は、俺に色々言いたいことがあるのではないのだろうか。混沌鏡の件とか、さ。師匠は俺が見ていたのを知っていたのに、黙っている……。何を考えているのか聞いてみたくもなったが……やめておいた。

 なにせ師匠は天帝というか俺に対して泣き落しをしたり、合コンでは女の人をコロコロ手玉に取るプロなのだ。きっとごまかされて終わってしまう。もう俺は騙されないんだからな……。

 しかし師匠を見ていると、とてもそんな風には見えないから困るのだ。裏表が無いように見えるし、何より優しいのだし。

「環、どうかした?」
「いや、もう今年も終わりだな後思って。後一日しかない。今年は、なんか濃かった」
「不思議なもので、歳をとればとるほど、一年が早く感じるものだけど、今年に限っては俺も同感だよ。ただ、環と暮らすようになってからは、毎年ぎゅっと何かと詰まっている気がするんだけどね」
「なんで歳をとると、一年が早く感じるんだ?」
「新しい経験が少なくなるから、理解する速度が上がって、いちいち驚いたりしなくなるからだという人もいるね。ただ、時の流れに関しては、俺にも分からない。それも『世界の理』のひとつで、仙人が探究するべき事の一つだしね」

 そういえば大昔に座学で、仙人の命題として、そんなことを時生先生に教わった気がした。それに、俺は専門も決めなければならないといつか言われたんじゃなかったか。
 師匠は、一生かかっても見つからない人がいると言っていたけれど、今ならば、俺はなにか見つけられるような気がする。

 例えば俺は、人の気持ちをもっと知りたい。

 師匠は以前、他者が他者を分かることは無理だと言ったけれど、それでも俺は知りたいんだよな。

「なぁ、師匠。人の気持ちも、世界の理の一つかな?」
「そうかもしれないね」
「じゃあ俺、それを専門的に研究しようかな。歴史学と絡めて、和仙界のみんなの気持ちを研究するってどうだろう」

 人間の感情を知ろうとした混沌氏と、同じことをしてみようかな。
 俺は弟子だし、受け継いで研究してみても良いかもしれない。
 もう師匠の探究活動は、終わっているかもしれないけどな。

「悪くないとは思うよ。歴史に記された出来事の数だけ様々な思想や理念、信念、気持ちがあったはずだからね。この和仙界の歴史書は、信用ができるものが多いし。だけど……」
「だけど?」
「まず、あのラブソングを聞く限り、環自身が未経験の感情が多すぎて、他の人の研究をしている場合じゃない気がするよ」

 師匠が吹き出すように言った。
 応援してくれてはいるんだろうけど、これは、馬鹿にもしている。なんということだ。俺は、いつも師匠は励ましてくれると信じていたのに! 一気に恥ずかしくなってきてしまった。

「環も、もう大人だからね。恋愛の一つや二つしてみたらどうかな」
「相手がいないんだよ!」
「昨日、南極と話していて聞いたんだけどね。慈覚が教主になったら、仙女と女性道士も、明星宮のそばに、私用以外でも来るようになるそうだよ。今後は一緒に働けるように」
「え、本当か? 女の子?」
「まぁ、世界には様々な性的指向の人々がいるけれどね。多くの男性は、女の子がいると意識するようになるみたいだ」
「あれ、そもそも、なんで今まではいなかったんだ?」

 俺は漠然と、仕事とは、男がやるものだと思っていた。
 だから女性はいないのだと、勝手に考えていたのだ。

「和仙事変の影響で、保護のために隔離されていたんだよ。特に兆越が特定の年代の仙女を虐殺する可能性が高いと言われていたからね」
「なんで兆越はそんなことを?」
「……天帝を産む仙女が存在するという予測のもとだったと聞いている。だから女性の仙道は、終南山を境界にしてこちらと反対にある、蓬莱山と呼ばれる地域に避難することになっていたんだ」

 少しだけ師匠の顔がこわばった。しかしすぐに、言葉が続いた。

「そのまま、そちらで天玄教仙女派が根付いたんだよ。最近じゃ、あっちもだいぶ進化してるらしい。だけどその昔はね、男仙も仙女も一緒に学んで、働いていたんだよ」

 師匠が懐かしそうな顔をしている。

「そこで今後は、また再び、男女共同で和仙界を運営する形に戻すんだって」

 俺は頷いておいた。
 だけど心臓がうるさかった。
 そもそも天帝を産む――俺のお母さんが存在すると兆越が考えたから、現在みたいに男女が別れたというのは、結構衝撃的だったのだ。予測したって、未来を見たのだろうか?

 そういえば瞳血は、『未来を見通すことができる』とも奇染は言っていたな……。

 でも、結果的に、そういう行動に出た兆越が俺の父親なんだから、世の中とはよく分からない。だけど……本当に兆越は、大虐殺なんて、したのだろうか?

 少なくとも俺は、『兆越は和仙事変を起こした犯罪者だ』と習ってきたのだ。
 そう記されていた教科書の著者は、師匠なのだ。
 その上さきほど、『和仙界の歴史書は、信用できるものが多い』とまで言っていた。

 だけど、色々な情報を総合した限り、必ずしも兆越は、犯罪者ではない気がする。
 勿論俺自身が、犯罪者の家族になりたくないとどこかで思っているのかもしれない。
 それは否定できない。

 それでも、記憶の中の、父の顔が優しかったのは間違いない。
 はっきりとは思い出せないんだけどな。

 それはそうと、一つ気づいたことがある。
 俺は一度たりとも、師匠が俺のお父さんだと感じたことはないのだ。
 父のかわりじゃないのだ。師匠は師匠で、独自のポジションなのだ。

 だけど、師匠にとっての俺は、どんなポジションなのだろう。

 もし俺に本当の家族が現れたら、師匠は一人ぼっちになってしまうんだろうか?
 そう感じるのだろうか?
 師匠は寂しいだろうか?

 血縁関係が無くとも、俺は、師匠のこともまた、大切な家族だと思ってるんだけどな。
 だけどその気持ちを、残念ながら上手く伝えられる気がしない。

 ――こういう時は、兄弟子の意見が欲しくなる。

 師弟関係というのは、考えてみると複雑だ。師匠という存在は、学校の先生と両親の中間に位置している感覚なのだ。血の繋がった両親とも違うけど、学校でしか会わない先生とも全く異なる。やっぱり、『家族』と言うしかない。経験者なら、分かると思う。だから、誰かに聞いてみたい。もっとも、聞けるあては慈覚様だけなんだけどな。とっても聞きづらいな……。沢山

 その後俺達は、夕食をとった。
 今夜はすき焼きだった。

 このお肉も南極の努力で、今俺達は食べられるのだ。
 そう考えると、感慨深い。
 彼は良いこともしていたのだ。そこは評価しよう。

 だけど南極は、ブラック企業と呼ぶしかないほどに、明星宮を多忙にした張本人でもある。彼が沢山の仕事を師匠に預けなければ、きっと、和仙界は、もっとゆったりしていたんじゃないかな。だって元々の太鼎教主様の教えの中には、絶対に残業なんて言葉は出てこないはずだ。

 翌日、三十一日になった。
 本日は、大晦日だ。

 この日から一日までは例年、和仙界では、一族の集まりが大々的に行われる。
 三十日から行われる場合も多いらしいのだけど、三十一日はもっと内輪の、近しい家族で過ごしたり、場合によっては、大きな洞府が新年会を開き、関係者が集まって過ごすらしい。師匠と、弟子と、孫弟子というように、みんなで集まるそうだ。

 そういえば、太極府、ようするにここでも昔はそれをやっていて、南極はそこにも顔を出せなかったと天帝犬から聞いたな。
 これまで、毎年俺は、師匠と二人きりで過ごしてきた。
 だから来ようと思えば、いつだって南極は来られたはずなんだけど……。
 やっぱり仕事が理由で、明星宮に残っているんじゃないのかなぁ。

 そんなことを考えながら、俺は自室で今年行った仕事の整理をしていた。
 自分用の、『仕事のやり方』のメモを分類しているのだ。毎年作っている。

 俺は、まだ一年を長く感じるのだが、理解する速度が遅いのだろうか。毎年違う仕事が沢山あるから、覚えることだらけだからなのだろうか。いいや、あれは、あくまで仮説だ。だけど、メモしておけば、二度目に同じ仕事をする時に、理解が早くなるのは、間違いない。
 ただ……毎年違う仕事がある理由は、数百年単位で繰り返されている仕事が多くあるからだ。数百年後にも、俺は一度目にやった内容を覚えているのだろうか。メモも失くしたりしていないだろうか。不安だな。

 今年、何より重大だった仕事は、やっぱり選挙だな。
 これなんて、今後二度と無い仕事かもしれない。
 思い返せば、この師走は、忙しかった。

 だけど師走も、後数時間で終わるのだ。

 日付が替わって新年がきたら、今年の途中からは慈覚様が教主様になるのか。
 勝利した時は嬉しかったけど、まだいまいち実感がわかない。

「おい、環」

 その時、不意に天帝犬に声をかけられた。あちらから声をかけられるのは珍しい。思わず視線を上げると、天帝犬がベッドから飛び降りているのが見えた。それから天帝犬は、俺の足元までやってきた。

「昨日言っていた、三つとはなんなのだ?」
「え? なにが?」
「余に聞きたいことがあると言っていたではないか。気になって眠れぬ」

 不機嫌そうな天帝犬の声に、すっかり忘れていた俺は、思わず頬を持ち上げた。