師匠が何も言わないでいることに、苦笑した様子で南極が吐息している。

「それはともかく――神格を分離したのは良いとして、能力は? 神仙としての力はどうなってるの?」
「ああ……和仙界に長くいるにつれ、元々最初ほどの力は無くなっていたんだ」
「え? そうだったの? 例えば?」
「例えば、原初の浮島の地形を、最初に変えた時のような、大規模な四行五術を即座に使うのは厳しくなっていたよ。ああいうのは、無感情じゃないとできない。感情を切り離さないと、発動させるためのイメージに影響して、仙気が安定しないんだ」
「『人間』として、愛を覚えた代償だね」
「うん。後悔はないけどね。まぁ――やろうと思えば、今でもできるけどね。やったら、しばらくは寝込むかもしれない。ただし混沌氏としての大きな力が、消えてしまったわけじゃない。今、それらは神格と一緒に猫混沌が持ってる」
「寝込むまで働かなくていいから! それは先に言っておくからね!」
「――それでも俺に対応できないような危機が起きた場合は、猫混沌も力を貸してくれるようだよ。その点は、話をつけてある。貸してもらえれば、元通りの力をいつでも使える。そうじゃなくても、環と暮らし始めてから使っている程度の四行五術なら、俺だけで問題なく、以前と変わらずに使える」

 そうなのか。なるほど、混沌鏡で見たほどの力ではなくても、俺が知っている範囲の力は、いつでも師匠は、使えるのだろう。それに師匠は……猫混沌とタッグを組んだら、今でも大きな力が使えるのか。いつか南極は、その組み合わせを口にしていたな……。

「いつ話したの?」
「昨日、記憶が戻ってすぐに話したよ。その時に、猫混沌に神格を残すことも、俺が抱えていた『底怪の発生源』も、引き取ってもらったんだ。猫混沌が、それらを移動することを許してくれた」
「ちゃんと許可はとったんだ。他には、なにかこれまでとは、変化があるの?」
「他は何も変わっていない。むしろ、愛情の喪失なんていう感情的な理由で自分を保てなくなった時に、世界を簡単に滅ぼしてしまえるような力がなくなって、個人的には安堵してる」
「それに関しては、和仙界中が安堵すると思うよ!」
「そうかもしれないね。君以外にきちんと説明できる自信はないけど」
「確かにみんな、仙道とはいえ、人間だからねぇ。神様のお話は、面倒だからね。でも、まぁ今後は、底怪にだけ、気を配ればいいわけだ!」
「底怪は俺が『旧世界』で抱いていた『負の感情』が発生源だから、猫混沌がそれらの感情を引き受けてくれて、その記憶自体を切り離すことができた今は、後はただ減っていくだけだ。決して俺にとって、気軽に忘れられる存在ではないけど」

 ――『旧世界』で抱いていた『負の感情』が発生源とは、どういう意味なんだろうな。

 それはわからなかったけど、底怪の存在は、師匠にとって、決して無視できず、忘れることができない、非常に気になるものなんじゃないかということは、なんとなく、以前から感じていた。
 師匠は底低の討伐隊に入っているわけじゃないのに、多分これまでも倒しに出かけていたようなのだ。今思い返せば、一年に一度くらい寝坊して起きてきた日の師匠は、いつも一人で討伐に出かけて、帰ってきた後だったような気がするのだ。

「俺達の手で、底怪を完全にこの世界から倒し尽くすことも可能になったんだね!」
「そういうことだよ。それにもう俺は、退治をする時、苦しくならないはずだ。全く自分の感情とは違うものだと、底怪を認識できるようになったから。割り切れるようになってる。だから底怪への四行五術での攻撃力自体は、上がったと言っても良いくらいだ。だから問題は俺じゃない。環だ」

 ――俺?
 なぜ俺の話が出るのだろう。
 突然のことに驚いてしまった。

「環かぁ。あれは確かにまずいよね。危険だねぇ」
「うん。天帝と力が混じってる。環こそ、まだ同一なんだ。天帝の神格を宿した天帝犬がいる内は、まだマシだろうけど……環の体には、もう天帝の能力がしっかりと刻み込まれてしまっているから」
「あちらこそ、二つの心にわかれたっていう表現が適切だよね。心っていうか、性格。一応天帝は、全てに在るとはいえ……どこにもいなかったのになぁ。今は、天帝犬として存在しているけど。天帝犬に宿ってるんだから、もう環の中には降りないかなぁ?」
「環が、きちんとした制御方法を身に付けない限り、いつ天帝の『能力』や『神格』が暴走するか分からない。今後も、天帝犬の神格――人格に、体を乗っ取られる可能性は、非常に高いよ。油断することはできない。そうなれば、環は消えてしまうかもしれない」

 少しだけ師匠の声が、不機嫌そうになった。
 半分は心配が混じっている気がする。

 確かに俺は、天帝にも、『力がうつった』というようなことを言われているが、今現在、そういう実感はない。時折、体を乗っ取られる程度だ。いや、それではまずいのか。すなわち制御できていないということなのだから。師匠も、今後もあり得ると言っているし。

「だけど環が、その力を、『天帝の能力』を制御し、きちんと使いこなせるようになったら――俺や君にも匹敵するようになるんじゃない? 少なくとも慈覚には勝てるようになると思うなぁ。頑張って制御方法を教えてあげてね、森羅」

 その声に、俺は何度か大きく瞬きをした。
 俺が、慈覚様に勝てる日が来る気はしない。

「俺にそれができればね。天帝犬の出方もあるし」
「大丈夫でしょ。天帝犬は、寂しい時に、猫混沌を追いかけて、人間の世界に来ちゃうくらいなんだからさぁ。案外天帝自身が、環に指導してくれることもあると俺は踏んでる」
「だといいんだけどね」

 結局俺は、中に入ることができず、ひっそりと自室へ引き返した。
 階段をのぼりながら、いきなり知った、沢山の情報を、必死に整理しようと試みる。

 とにかく、ええと、一番は何だろう。
 兆越が生きているらしいことと、師匠には記憶が戻っているということだ。

 師匠の記憶はともかくとして。
 みんなも、師匠が混沌氏だったという記憶や、和仙界にも永久の冬と同じように雪が降り、その現象を天帝が巻き戻したことを、知っているのだろうか? いいや――覚えているのだろうか? 忘れずの鏡には、そういう力があるらしいし。少なくとも、南極は覚えている。

 ――俺が天帝だと知った時、みんなはどう思ったんだろう?

 みんなというのが自分でも漠然としすぎていて、誰なのか特定できない。色々な人の顔がよぎっては消えていく。誰かに意見を聞いてみたいのに、その相手が明確化できないのだ。第一、知っている人と、知らない人だっているだろうけど。

 もちろん、俺が天帝だと知った人々は、俺が師匠の心を傷つける存在だと考えたんじゃないのだろうか。俺こそが愛の喪失を教える者だったのだから。そして俺が師匠に、この世界を無で覆わせて、その後新しい世界を創造することを、みんなは警戒したんじゃないかと思う。例えば、奇染は確実に、俺が天帝だと気づいていたようである。

 俺は、これまでに親しくしてくれた人々の顔を思い出した。
 あの楽しかった日々があったからこそ、俺は天帝が消えてしまうことを望んだのだ。
 勿論、師匠も親しい人々の中に入っている。

 本当にみんなといるのが、嬉しかったのだ。
 多くの人に可愛がってもらった。
 もう紛れもなく、和仙界は、この世界は、俺の居場所なのだから。

 あの日々は、きっとみんなも楽しいと感じてくれていたはずだ。そう願いたい。数々の思い出もこの胸のぬくもりも、俺だけのものなんかじゃない。そしてこれからの毎日も、きっと楽しいことが沢山あるはずだ。時には悲しいこともあるかもしれないけど、それは乗り越えていこうではないか。やっぱり俺は、周りの人々が大好きだ。大好きな人々となら、何があっても、悲しいことにも立ち向かえる気がする。俺はみんなを、信頼している。だからこの世界は、終わらせない。世界に何かあったら、みんなで乗り越えるのだ。

 自室の扉を開けながら、俺は信じることに決めた。

 ――きっと、俺が天帝だとみんなが知っても知らなくても、俺との間の信頼関係は変わらない。

 俺側からだけじゃなく、みんなの側からも、そんな関係が構築してもらえていると信じよう。

「餌はどうしたのだ?」
「悪い、今取り込んでたから無理」
「なんだと? では教えてなどやらぬ。余に聞きたいことが三つもあるというのに、貢ぎ物もないのでは、愚の骨頂としか言えぬわ」

 俺はすっかりそのことを忘れていた。
 まぁ、今は別に聞かなくても良い。
 まずは、色々と整理する時間が欲しい。

 だから大きく深呼吸してから頷いた。

「また後で聞くよ」

 すると呆れたように天帝犬は笑ってから、ベッドの上にのぼっていった。

 天帝犬は……兆越が生きていると知ったら、どんな反応をするんだろうな。

 それだけが、気がかりだった。
 だってこの犬、気位も高いし、騙されていたとか、負けたなんて聞いたら、何するか、分からないからな! そのぐらいは、俺にも分かるようになったのだ。

 そこが案外可愛かったりもするんだけど。

 そういえば、師匠は猫混沌と話をつけたといっていたが、猫混沌は師匠に対しては言葉を喋るのだろうか……。俺に対して、そうしてくれる日は来るのだろうか。

 俺は一応、あのふてぶてしい猫とも話がしたい。
 なにせあれも、師匠の一部らしいからな!