「忘れずの鏡を使いたいなんて言われたら、俺だったらすぐに疑うけどなぁ。混沌の神器の二つを模して君が作った宝貝の存在を、知ってったことなんだからね。天帝と直接話したことがある奇染なら、まだ理解できるけど。こう考えると燈焔が、奇染から聞いたとすぐに俺は推測するけどねぇ」
「確かに森羅万象図から有象無象図を俺は作ったし、混沌鏡をもとにして、忘れずの鏡も作ったけど……」
「忘れずの鏡なんて、まさしく『この世界が消去された場合にも、和仙界の情報が忘れ去られないように』という使い方しかないじゃん! 過去を記憶する効果なんだから。仮に全部『無』になってしまった場合に備えた、仙人達の保険でしょ」
「兆越以外の仙人も、きちんと天帝の気まぐれに備えて、準備をしていたんだね」
「森羅だって、泣き落しするために、沢山読書して準備してたじゃん! 俺は、ああいう指南書って全く信用できないから、中身をチラっと見て吹き出したけど」
「わざわざ俺が準備していたんだから、明星宮は対策を練らなくても良かったんだ。不安な気持ちは分かるけど。俺を信用できない部分もあっただろうし。でも俺だって、明星宮の動きを知っていたら、あんなに残業しなかったのにな」
「てっきり森羅の性格だと思ってた。普通は神が、必死に残業したりしないよ! 好きで宝貝の修理に没頭しているんだとばかり思ってた」
「それもそうだね、これからは残業をする必要はないみたいだ。俺はもう、いかなる仕事自体もしたくない。今後は、誰かに何かを頼まれても断ろうかな」
「森羅が働いてくれないと、俺、すごく悲しくなっちゃうんだけど」
「泣いていいよ」
「いやいやいや、悲しませないようにしてよ! 涙を流させないで! 泣かせないで!」

 師匠は何も答えなかった。
 確かにたまには、いつも余裕たっぷりの南極も、焦ったほうがいいかも知れない。
 涙のひとつくらい見せるべきである。

「でも、君の記憶、本当にすぐ戻って、俺はびっくりだよ。どうやったの?」

 その時、話を変えるようなに南極が言った。
 なにげなく耳にした後、ハッとして、俺は目を丸くした。

 ――言われてみれば、そうだ。

 先程から師匠は、忘れたはずの天帝のことを口にしている。

「昨日から本物の混沌鏡を、環と天帝が楽しそうに見てるようなんだ。さすがに自分の神器の気配を忘れるほど俺は愚かじゃない。天帝は頭がお世辞にも良くないから、俺には気づかれていないと思っているようだけどね。濃密な神器の気配がした瞬間、全部思い出したよ」
「天帝の頭の良さに関しては、俺は黙秘する。だけど、混沌鏡って気配だけで、そんな効果があるの?」
「一応そういう神器なんだからね。出現させただけで、過去の記憶が全部俺の中に、一瞬で再生されるんだ。気配に触れるだけで、全部頭に入るんだよ。持ち主である混沌の頭の中に、ね」

 思わず俺は息を詰めた。それから静かに唾液を嚥下する。天帝犬……バレないって言ってたのに、完全にバレてるだろうこれ!

「へぇ。でも、失くしたんじゃなかったっけ? なんで天帝が持ってるの?」

 ひやひやしている俺のことなど全く知らない様子で、南極が面白そうに笑った。

「失くしたんじゃなくて、捨てたんだよ。もう過去を振り返るのは、やめようと思って」
「どんな過去を振り返ってたの?」
「この洞府の思い出を再生してることが多かった。俺は結局さ、この洞府に、慈覚や兆越、奇染、それにもっと前なら醒宝がいた日々が懐かしくて、どうしようもなかったんだ」
「環が来るまで、森羅はこの洞府に、ひきこもっていたからね。一人だったしねぇ」
「本当に一人だった。どこで失敗して誰もいなくなっちゃったのかな、なんて、感傷的になりながら、よく鏡を見ていたよ」
「なら、もっと早く弟子を取ったら良かったのに」
「なんていうか、考え込んでたんだよ。俺は、弟子の育成には向いていないというか……」
「向いてない? どうして?」
「――きっと俺が愛を知らないから、俺は、弟子を愛してあげることができない。子供は愛がなければ育たない。だから俺は、弟子の育成に失敗したんだと……確信していたんだ。だからみんないなくなってしまったし、俺にはもう弟子を育てるのは無理だと感じた」
「森羅は無駄な知識を沢山持ってるからねぇ。子供と愛情の関係にまつわる心理学的な見解とか。俺には、さっぱり興味がないけど」
「役立つ時も、あるんだよ。まぁ、それから――踏ん切りがついたのは、環が来てからようやくだ。その時に、混沌鏡を、手放すことに決めたんだ」
「愛に気づいたの?」
「気づく前の段階という方が正確かな。今度こそ、今度こそ本当に、弟子を愛してあげたいと思ったんだ。だからもう過去を見ないことにしたんだ。まず第一に、育成なんていう観点を捨てて、対等な立場として、大切にしたいと思ったんだ」

 師匠がつらつらと口にした。俺の名前が出てきた時、胸が僅かに疼いた。
 師匠にとって、本当に俺は価値があったのだろうか。
 愛情を持って育てるような価値が。

 ――そうだと良いな。

 それと、扉を開けて、言ってやりたくなった。

 俺だけじゃなくて、師匠は誰のことも、育成に失敗なんてしていないのだと。
 そして俺が、間違いなく、本当に大切にしてもらったと感じている今の気持ちも。
 今のこの瞬間だって、大切にしてもらっている。

「うーん、慈覚にしろ兆越にしろ、特に目立った働きを見せた奇染なんてそれこそさ、君の優しさや愛に触れたから、今みたいな感じなんじゃないのかなぁ。何を持って失敗とするのかは分からないけど、君の優しさは十分伝わってたと思うよ。そこは自信もちなよ」

 南極が優しい声で言った。だけど少しだけ、苦笑が声音に滲んでいる。なんだかんだとは言っても、やっぱり南極は良い人だと俺は感じた。

「南極は、慰めるのがうまいよね」
「森羅は、案外自分自身を客観視できないよね。それよりさ、猫混沌、可愛いけど、どうするの? あれも一応、君だよね?」

 その時、俺も気になっていた話題が続いた。
 神格が分離したという点が、俺にはいまいち分からないのだ。

「一応俺と同じ存在だと言うことはできるかもしれないけど――中身はもう俺とは完全に違う。俺の一部だという方が、まだ正確だ。混沌の元々の感情は神格に付随したものだから、猫混沌が持ってる。俺の中に、それはもう無い」
「元々の感情?」
「『無』から生まれたからこそ、『無』を思い出せなくなってしまって、『無』に恋焦がれていた部分や、『愛』や『人間の感情』を理解できなくて知りたがっていた部分のことだよ。全部猫混沌が持ってるんだ――もう俺は、知ってるから」
「神格だけでは、『無』にはなれないから、猫混沌なら愛を知らなくても、世界を消去したりできないし、都合がいいよね。猫混沌がちょっと可哀想だけど」
「そうだね。だけど、俺だって最初は知らなかったのに、知るようになったんだから、猫混沌もいつか、愛に気づくかもしれない。愛は学ぶことができる」
「本質的には、猫混沌は混沌氏だものね。そして混沌氏は、森羅だし。やっぱり一応、同じ存在だとも言えるってことか。ただ確かに、一部という方が、しっくりくるね。だけど、神格を切り離すなんて、よくできたね!」
「天帝に感謝するしかないね。本当に良いことをしてくれた」
「天帝が神格を切り離してくれたんだ?」
「そうなんだよ。今、猫混沌がもっている部分――元々の混沌氏の中に刻み込まれていた感情や想いは、俺が自分自身で分離するのは至難の業だった。分離できたとしても、本来であれば、負の感情である側面が大きいから、底怪化してしまう可能性が高かった」
「底怪化しなかったのは、猫混沌という器があったから、か。天帝が一度、森羅の神格を切り離したおかげで、猫混沌は『神格だけ』という状態だったんだね!」
「そうなんだよ。だから俺の側から、なんの問題もなく感情を移すことができたんだ。元々混沌氏が持っていた世界に対する好奇心も。様々な体験を抱える心が、俺と猫の二つになった。俺の心と猫混沌の持つ心の二つに」
「心かぁ。まぁ神格というのは、神様の性格みたいなものだからね。性格は心の窓口みたいなものだね! 猫混沌が来てくれて良かったね! そうじゃなかったら、底怪化していたんだからさ!」

 南極の声は、明るい。しかし、師匠は、言葉を続ける前に少し間を置いた。

「もし底怪化していれば、現在の地界だけにとどまらず今度こそ人間界の全てが、永久の冬がもたらす猛吹雪に襲われていたはずだ」

 淡々とした声だったが、どことなく師匠の声は、悲しく響いた。
 本当に、そうなる可能性があったんだろうな。

「人間の滅亡かぁ」

 やっぱり南極の声は明るい……。
 彼は、本気にしているのか、していないのか、それすらも分からない。

「切り離さずに、全ての感情を、ずっと俺一人の心の中に抱えていたら――いくら愛を知ったとは言え、結果的にいつかは、俺は抱えきれなくなっていたと思う。そうなれば東方東洋全体にも永久の冬をもたらして、溶けない雪で覆っていたかもしれない」

 師匠が自嘲気味につぶやいた。

「愛を喪失しなくても、和仙界ごと滅亡させることだって、森羅にはできたわけだね」
「そう考えると自分が怖いよ。最初から和仙界にとっての本当の脅威は、俺だったんだから。天帝はともかく。少なくとも、和仙界の人々が考えている兆越は、脅威じゃないんだ。むしろ彼は、和仙界の救世主だね。環が俺の世界の救世主であるように」

 師匠は冷静に話していたが、途中からはまるで自分自身に対して呆れているような声だった。

「森羅はもう脅威じゃないと思うよ」
「猫混沌と分離した段階で、俺単独では、もう消去は無理だ。だから確かに脅威とはいえなくなってるかな」
「それにまぁ、仮に消去できたとしてもさ! 東方東洋が消えたら、今度は森羅が西方西洋に戻ってきたら良かったじゃない? 俺は向こうで借り受けてたロキって名前は捨ててからこっちへ来たけど、混沌はどちらでもカオスのままなんだから」

 師匠が沈黙した。
 唐突に西方西洋の話題が出てきたから、首をひねる。
 南極は華仙界からきて、師匠は最初からここにいたと思っていたのだけれど、違うのだろうか。それに、カオス……そういえば前に黒いパズルを渡した時、混沌とはカオスのことであるとは師匠からも聞いた。師匠は、昔、西方西洋にいたのだろうか?