そこで確かに、俺は青空の下にいた。
 土の上に座っている。

 後ろから伸びてくる大きな手。

 それが自分を抱きしめてくれるものだと信じていた時、首に指先が触れたんだ。驚いて振り返り、俺はその時『父』を見上げた。すると父は、ハッとしたように息を飲み、慌てたように笑っていた。

 ――この記憶は、なんだろう? 俺は、こんな光景を知らない。

「環が自分の誕生日を正確に記憶していたのに、祝われた経験がなかったっていうのは、それが原因なのかな」

 師匠の声を聞きながら、俺は頭の中で、続いていく古い記憶の再生に呆然としていた。
 現実からの情報と、忘れていた過去が交錯する。

 ――誕生日を祝っていなかったことは、間違っていない。

 そうだ、いつも父は、俺に向かって、誕生日までの日数を口にしていた。だから俺は、誕生日の日付をすぐに覚えた。けれどそれが『お祝いする日』だとは、考えたことがなかった。なぜ考えなかったのかと言われたならば、祝われたことが一度も無かったからじゃない――そうだ、そうだよ、その日付を口にする度に、父が苦しそうな顔をして見せたからだ。辛そうな目で、俺の誕生日がくるのを、父は数えていたんだ。

「だろうね。兆越にとってその日は、『また天帝を葬れずに一年が終わってしまった』っていう恐怖と悔恨で、きっと辛かったはずだよ。なんだかんだで、息子をきちんと愛していたんだ。今も、昔も」

 南極の笑い声が聞こえる。彼は言葉を続けた。

「だからこそ、幼い環が、天帝の言葉を発して、奇染に神器を貸しているところを目撃した時は、なおさら絶望したんじゃない? 無力感に苛まれたはずだね。俺だったら気を失うかも。手の中で成長していく幼い我が子がさぁ――天帝という『最大の敵』だって、改めて見せつけられたんだから。森羅に限らず、兆越の場合も、『愛の喪失』を経験させられたに等しいよね」

 一気に霞が晴れるように、脳裏に記憶があふれてきた。

 俺はその時三歳になっていた。

 その頃は確かに父から、四行や体術を習っていたのだ。いつもいつも負けていたけど。だから俺は、和仙界で修行を始めた時、みんなよりも早く、習得できたのかもしれない。

 修行風景は思い出せるのに、なぜなのか、父の顔が思い出せない。

 記憶の中で尻餅をついた俺に、父が手を差し伸べてくれた。俺はその大きな手が好きだった。手を取り立ち上がってから、俺はいつも手首を持ち上げた。そこにポンと父が手首を重ねる。互いの手首でバツじるしをつくるようにして、「今日も頑張ったな」と、確認していた。俺達の間だけで分かるやり方だった。『勝負に負けても水に流して根に持たない』という決まりだ。それは思い出せる。

 俺はきつく瞼を閉じた。

 そして次に思い出したのは、目の前に立つ奇染の姿だった。
 小さな俺は、訪れた少年を見上げて、確かに『天帝』として、愉悦たっぷりに笑いながら神器を出現させたのだ。

『これで世界を無に返せる』
『ああ見ものだな』
『愛の喪失』
『混沌は、どんな顔をすることか。いいや、あいつには顔など無いのだったな』

 そんなことを一人でつらつら言いながら、俺は神器を奇染に渡したのだ。受け取った時奇染は、「本当に貴方の望む未来が訪れるのでしょうか?」と言っていた。天帝として俺は、「当たり前だ」とふんぞり返ってから、帰っていく彼を見送ったのだ。

 直後、背後で砂利を踏む音を聞いた。
 振り返った俺は、目を見開いている父をみつけた。

 その時には、既にもう俺には天帝の意識は無かったから、なぜ父がそのように青い顔色をしているのか理解できなかった。なぜ父が、刀型の宝貝を出現させたのかもわからなかったのだ。

 父はそれを俺に突きつけて、しばらく身動きを止めていた。怖くなって俺は、「父さん?」と不安まじりに声をかけた。すると父はその宝貝を地面に突き刺して、膝をついたのだったと思う。いつもと同じように父は大きかったけれど、あの時俺は、父が泣いていると気づいていた。それが非常に不安だった。なのに。

 ――心の中で、そんな父の姿を、嘲笑っていた。

 なんなのだろう、この記憶は?
 どうして俺は、今までずっと、忘れていたのだろう。

 確かに俺は、過去に奇染に会ったことがあったのだ。
 そもそも神器を貸出したのだって、俺だったのだ。
 俺は、今よりも、天帝としての『意識』を心の中に、間違いない抱えていたのだ。

 背筋が寒くなってきた。短く吐息をしながら、目を開く。
 相変わらず、現実のリビングの中では、師匠達が話をしていた。

「南極。君は、そこまで兆越や奇染の動向を掴んでいたのに、どうして教えてくれなかったの? 環と兆越が実の親子だっていう点も含めて。兆越の生死だってそうだ」
「俺には確信が無かったからさぁ。俺には幻術だったかどうか、分からなかったんだよ」
「それは言い訳だろ。環の両親の死にまつわる一連の出来事が、大規模な幻術にはめられた結果だと理解していたんだから。把握した段階で、公言すべきだったんじゃないかな」
「環の両親が生きてるとわかったら、環の中にいた天帝は、他の出来事もまた、兆越の手による幻術で引き起こされた可能性に気づいちゃったと思うんだけどなぁ」
「それでも構わなかったと、俺は思う」
「怒らないでよ。怖いなぁ」

 南極が焦ったような声を出した。
 師匠の声は、確かにとても低くなっていた。怒っているのは明らかだ。

「南極、君が兆越の未来を潰したんだ。しかも君は兆越の死を偽装をした上で、彼を明星宮に匿ってたわけだろ? そんなことをせずに、彼の無実を証明すれば良かった」
「ああ、もう! ごめんね!」
「大体、天帝から聞いた時、亡くなったなんて信じられなかったけど――やっぱり生きてたんだね。太極印で、生存反応をずっと俺は確認していたから、その点は疑っていなかったけど……まさか明星宮の手引きだなんて、いくらなんでも酷い話だ」

 ――明星宮に匿っていた?
 ――明星宮の手引き?

 それらの言葉で、俺は我に返った。
 どういうことなのだろう? 兆越は、明星宮のどこにいるというのだろう?
 思案した末、ふと思い出した。

 立ち入り禁止、侵入不可の、混沌院。

 なのにあそこでは、人影を見たという噂が絶えない。
 もしも、本当にどこかに匿われているとしたならば、あの場所しか考えられなかった。

「第一、明星宮には、奇染も顔を出していたわけだ。兆越に会うために。それを知っていて見逃していたんだから、南極と奇染は協力関係にあったとすら言える」
「離山しているとはいえ、師匠である君が破門を言い渡していないんだから、彼にはまだ明星宮に来る権利が残ってたし。俺を責めないでほしいんだけど」
「――いくらなんでも、奇染と燈焔が関係していたことは、つかんだ時点で教えてくれても良かっただろ。この点で、俺は正直、南極が許せない」

 さらに俺は驚いて、息を飲み込んだ。

 ――燈焔様と奇染が関係していた?

 それって、と考えて、いつかの遭遇事件のことを思い出した。

 そもそも師匠は、燈焔様がいなければ、あの場所に出向くことも無かったのだ。
 そうだ、燈焔様がいなければ、奇染と遭遇することも無かった。
 彼が、宝貝の修理を頼んだから、師匠は外に出たのだ。

 もし仮に明星宮から奇染を手伝う人が派遣されることがあったならば、その人物が、師匠と仲が良い仙人の中で、火という強い攻撃の力の、一番の使い手である燈焔様が選ばれても不思議ではない。第一、明星宮と奇染の目的は、よく考えれば『この世界を続けたい』という、同じものでもあったのだ。協力関係にあったとしても、おかしくはない。

 明星宮が全て知っていたのなら、南極だって当然知っていたはずだ。

 南極があの日、事態終了を待つようにして現れたことだって、よく考えてみると変だ。南極ならば、もっと迅速に行動できたはずなのに。彼は来るのが遅かったではないか。

 どうして以前南極は、俺を拾った理由をごまかしていたのだろう。
 南極は色々と知っていて、あえて俺には言わなかったんじゃないのだろうか。
 天帝に無意識に操られたなんて言っていたこともあるけど、それも嘘かも知れない。