それから俺は、自室の物置に戻った。
 そこでは天帝犬がソファに陣取り、丸くなっていた。

「遅いぞ」

 どうやら待っていたらしい。

 だけど俺は見るのを止めることにした。
 混沌鏡の前に立ち、掌で触れる。すると元のサイズの小さな硝子に戻った。それをポケットにしまいながら長々とまぶたを閉じる。

「なぜ片付けるのだ?」
「やっぱこういうのはさ、思い出混じりに本人に聞いた方が良いと思うんだよ。話してもらえるくらい信頼されてからさ。なんか、勝手に盗み見てるみたいで悪いから。多分さ、これって――おさかな洞の温かい思い出が沢山詰まってる気がするし。それってさ、本人達だけのものだろ」
「ここまで見ておいてよく言えたものだな。ふん、まぁ、混沌の築いたパズルがまだ未完成なのであれば、急いで見る必要もないか。どうせ滑稽で陳腐なデキであろうし」

 鼻を鳴らした天帝犬は、意地の悪い目をして笑った気がした。なんだかなぁ。
 最近思うのだが、決して天帝犬は、師匠のことも、勿論混沌氏のことも嫌いではないと思うのだ。相手にされなくてふてくされているようにさえ感じられる。

 俺は、師匠を苦しめた天帝犬のことを、今でもあまり快くは思っていない。だけどそれでも、案外根は良い奴なんじゃないのかと考え始めていた。

 いつか、『天帝の能力が俺にうつった』と聞いたけど、もしかしたら『感情』も少しくらいはうつっているのかもしれない。俺は最近、自分がちょっと意地悪になった気がするしな。

 そして逆に、俺からも天帝に、このおさかな洞や和仙界の居場所が大好きだという気持ちが、少なからずうつったんじゃないのだろうか。

 そもそも天帝犬は、猫混沌を追いかけて、わざわざ人間の世界に降りてきているのだ。
 天帝の言う人間界には、和仙界も含まれていると分かる。

 もし本当に今も、ただ単純に、この世界を嫌いで壊そうとしているのなら、果たして降りてきたりするのだろうか。

 まぁ、まだ俺にはそこまで、天帝の気持ちは分からないんだけどな。
 全部俺の空想だ。
 ただ三つほど、俺は天帝に聞いてみたいことがあった。

「あのさ、それでさ、なんというか天帝目線で聞きたいことがあるんだけど」
「なんだ? 余は気まぐれだからな。早急に餌を持って参るのであれば一考してやらないこともないぞ」
「持って来まーす」

 案外安い報酬に頷いて、俺は階下に降りた。

 すると――リビング側に人の気配が感じられなかった。あれ? 師匠達は?
 驚いて息を潜める。
 俺も反射的に気配を消して、静かに静かに下へと降りてみる。

 師匠達がいるはずなのに、気配が消えているのだ。誰もいないみたいだ。
 リビングの扉は、しっかりと閉まっていた。
 いつもならば、少しは扉があいているのだが。

 逆に、中にいる気がした。不思議な仙気――いいや、神気とでも言うのか、大きな力の気配を感じる。彼らは中で、『神仙』として、話しているのかもしれない。普通の人間ならば、そんな場所には、近づかないらしい。例えば、和仙界で南極の気配に頭痛がする人だとか、彼らの反応は正しいのだと思う。俺が動けるのは、体に天帝の力が入っているからだとしか考えられない。

 物理的に扉へと耳を当てる。師匠達の邪魔をしないように、心がけたのだ。ある意味結界を構築しているような状態で話しているのだから、きっと大切なことなのだと思う。

 そうして中の様子をうかがうと、声を潜めた師匠と南極のやりとりが聞こえてきた。

「――なるほどねぇ。それで慈覚は、俺を特別事務官に推したんだ」
「ま、そういうこと。良かったじゃん、誤解もとけたんだし、確執も消えて。慈覚は素直じゃないから態度は変わらないかもしれないけど」

 何の話だろう。首を傾げた。
 確かに……俺も疑問だった。一応俺が働き出してからは、徐々に慈覚様の態度は師匠に対して軟化していたような気もする。

 だが、特別事務官に任命するほど、慈覚様が師匠を頼る日が来るとは、確かに思ってもいなかった。そもそも慈覚様は、師匠が教主様になることに断固反対だったからこそ、自分で教主戦に出馬したのだと思う。なのにあんな風に、選挙が多忙だったからとはいえ、師匠を仕事に関わらせた事が、すごく俺には不思議だったのだ。

「俺だって慈覚に対して、どんな態度をすればいい分からないんだけど……」
「とりあえず会えばなんとかなるよ。とにかく、森羅は単純に、明日を楽しみにしてればいいんだよ。案ずるより産むが易し! いい言葉だよね!」

 楽しそうな南極の声がする。その後彼は、少しだけ落ち着いた声で続けた。

「ただ兆越に関しては、実際はどうあれ、今更和仙界でのみんなの理解は変わらない。ちょっと惜しいよね! 結果的に天数の変化後とはいえ、生まれつき、天仙の素質を持っているって分かったのは、兆越だけだったのにさぁ。だから『天帝の時間』が終わるギリギリまで太鼎教主も帰りを待ってたのに! 本当に、残念だよねぇ」

 南極が溜息をついた。聞こえてきた名前に、俺は目を見開く。

「天仙は同じ仙格の別の天仙を相手には、教えることができないから、太鼎教主も兆越のことを森羅に任せたのにさぁ。天仙の天数を持つ兆越が、自分の弟子の中から現れたと聞いた時の、教主の嬉しそうな顔っていったら無かったよ。今でも思い出す。ほとんど教えた実績は無かったっていうのが実際のところだけど、太鼎教主から見れば、『自分の指導で兆越の天数が、天仙の器に変わった』ということだしね。指導してたのが、『弟子として名を与える前』だったから、一度も兆越は、太鼎教主の正式な弟子になったことはないけどさ。なにより太鼎教主の人生の目標は、後進の育成だったし――兆越が可愛かっただろうな! 名目はどうあれ、弟子としてさ!」

 南極が苦笑交じりにそんなことを言った。師匠が隣で溜息をついている。

「兆越は俺の弟子だけど、慈覚も俺にとっては弟子であるように、きっと太鼎も見守っていたんだよ。実際に、天帝の定めた天数を変えるなんて、人間一個人の単独の力では不可能だ。その意味で、太鼎は確かに教主だったんだ。和仙界を愛し存続を熱望する仙道の力を、天玄教は広く集めた。太鼎のもとで。だから今この世界があるのは、彼が開教したからだろうし、みんなの仙気が天数を変化させたんだと思うよ」

 師匠はそう口にしてから、腕を組んだようだった。衣擦れの音がした。
 続けて師匠が呟くように言う。

「人間の想いで、天数が変わる場合があるという説。これ、本当だったみたいだね」

 はじめて俺は、そんな説を聞いた。師匠は、天数が変わる理由を知らないと言っていたけど、もしかしたら、色々な仮説は存在しているのかもしれないな。

「まぁね。実際、もっとわかりやすい変化を、人間が起こせたらすごいだろうね! だけど、俺は不可能だと思うよ。そこはやっぱり、人間と神様の違いじゃないかな。天数を変化させるのは、本当に難しいし、めったに変化しないのは事実だし」
「少ししか例がなくても、人間が天帝の決定に影響できると分かっただけでも、本当にすごいことだよ。天数を変更するために必要な想いや願いを、沢山の人が持てば、天数が変わるなんて――簡単には信じられないけど、すごく素敵なことだよね」

 南極の声は、どこか弾んでいる。師匠の声音も、本当に穏やかだ。
 きっと二人にとって、とても素敵な話なのだろう。
 俺にはちょっとまだ、理解が追いつかないんだけど。

「それは俺も同意見。さらに、人間の想いを集約する立場である教主は、本当に偉大だよね。太鼎はよく頑張ったよ! 想いを抱いた人々は無意識だったはずだけど、知らず知らずにその願いが集まって、積もっていった彼らの仙気は、きちんと代表の教主のもとに集まったんだからさ!」
「俺も、彼は紛れもなく良い教主だったと思ってる。素晴らしい天仙だ」
「それにしても――さすがにここまできたら、慈覚が教主を降りるとは思えないけど、兆越のことを慈覚がどうするのかは、俺が隠居する上での最大の関心ごとだよ」

 静かに聞き耳を立てていた俺は、何度か瞬きをしてしまった。動揺したのだ。
 今度こそ俺は首を捻った。
 『兆越のことを、どうするのか』という言葉に、眉を潜める。
 
 生者は――鬼籍に入った人間を、どうにもできないと思うんだけどな。
 俺は天帝が、兆越が亡くなったと言ったのを聞いている。
 兆越の死を、南極は知らないのだろうか?

「……今兆越は、環のことをどう思っているの?」
「少なくとも授業参観での底怪事件で、環を心配しすぎて蟲の幻術使っちゃうくらいだから、生きていてくれた事実に喜んでいるんじゃない? あれが無ければ、底怪の元々の進行速度を考える、みんなが気づく前に校庭は侵食されていたはずだよ」
「蟲が空に見えたことも、多くの仙人が、底怪の存在に気づくきっかけになったしね」
「あの幻術のせいで、慈覚は君が手引きしたと疑ったんだし。森羅をものすごく警戒するきっかけになっちゃったんだよねぇ。ま、その誤解がとけて良かったじゃん!」

 思わず俺は息をのんだ。どういう意味だ? あの授業参観の日、俺は確かに多数の蟲を見た。だけどあれは、底怪を取り巻いていたものでは無かったのだろうか? 幻術だったのだろうか? それも、兆越の?

「時々奇染が顔を出すと、天数鏡を貸せってうるさかったし。あの参観日だって、鏡を見ていたから一番先に兆越が、底怪に気づいたんだし。天数鏡でデレデレの顔で環を眺めてる兆越に、授業参観日の功績を引き合いに出されると、その後もね、俺もさぁ……見るなとは言えなかった」
「そう……そっか。兆越はね、昔、『子供が生まれたら絶対にデロデロに可愛がって、甘やかしてやるんだ』って、宣言していたからね。師弟関係より家族にこだわってたし」
「兆越の場合は、自分の誕生日に両親に殺されかけた恐怖があったわけだから――嫌な記憶を払拭したかったのかなぁ。それに新しい家族が欲しかったのかもしれない」
「誕生日か。そういえば、子供ができたら、『毎年、誕生日を祝ってやるんだ』って言っていたこともある」

 師匠の声が、どこか懐かしむようなものに変わった。

「だけど、環は『誕生日を祝った記憶がない』と言っていたよ。父である兆越の記憶を、天帝が封じ込めていたから?」

 すると南極が苦笑した気配がする。

「どうかなぁ。実際に、祝ったことがないのかもしれないし。だって……結果として、兆越にとって、環の誕生日というのはさ、『心底絶望する日』だった気がするよ。毎年環の誕生日がくる度に、『今年こそ殺さなければならない』って、考えてたはずだ」

 俺は息苦しくなった。嫌な汗をかいてしまう。

 ――脳裏に、古い記憶がよぎった気がしたのだ。