三十日になった。午前八時に起きた俺が一階に下りると、リビングのソファでは南極が眠っていた。眠っている姿など始めてみた。

「おはよう、環」

 師匠が朝食の準備をしていた。今日のおかずは、焼き鮭とだし巻き卵みたいだ。

「おはよ。なぁ、師匠。変なことを聞いても良いか?」
「なに?」

 振り返った師匠に、俺は単刀直入に聞くことにした。

「慈覚様って、太鼎教主様の弟子だけど、南極の紹介で師匠に習うことになったんだよな?」
「そうだよ」

 昨日の混沌鏡の事を思い出したのだ。別に続きを見ても良いのだが、こそこそせず聞いてしまっても良いかも知れないと思ったのだ。もしも師匠が話したくないみたいだったら、その時こそ見ればいい。あるいは、師匠が言いたくないんなら見なくても良いし。

「慈覚様のことは、誰が人間界から連れてきたんだ?」

 俺が聞くと、師匠が手を止めた。それから菜箸を、卵の入った器の上に置く。
 それからフライパンに油をしきつつ、師匠が懐かしそうな目をした。

「俺だよ」
「そのまま弟子にしなかったのか?」
「最初はそのつもりだったんだけどね、慈覚は太鼎教主の弟子になることになったから」
「でも、教主様の弟子になる天数じゃなかったんだろう?」
「慈覚に聞いたの?」
「あ、う、うん、まぁ……」

 俺は視線を背けた。そこに卵が焼ける音が響いてくる。師匠が卵を流し込んだのだ。

「天数はね、変わることがあるんだよ」
「え?」
「なにがきっかけなのかは分からないけどね。だから、慈覚も和仙界にきてからしばらくは、この洞府で俺と暮らしていたんだ。それから太鼎教主が引き取ったんだ」
「そんなことがあるのか……」
「うん。それでその後、改めて南極が俺の所に慈覚を連れてきたんだよ。慈覚には幻術の才能があったしね。勝手に連れてきたのに申し訳ないことをしちゃったと思ってるけど、そういう天数だったから――どうにもできなかった」

 師匠の声が少し小さくなった。悲しそうだ。
 しかし慰める気持ちよりも、知りたい気持ちが勝った。

「じゃあ、兆越は……?」

 俺の声に、師匠が驚いたように顔を上げた。

「兆越のことは誰になんて聞いたの? 慈覚が話すとは思えないけど」
「師匠の弟子だったって聞いただけ。それは天数が変わらなかったのか?」
「兆越はね、最初は太鼎教主の弟子になるはずだったんだよ。だけどね、相性の問題で、教主じゃ無理だったんだ。いくら天数に従おうとしても、無理な場合は無理だからね。慈覚の天数変化とはレベルが違った。兆越は今までにない方向で天数が変わったんだ」

 師匠が険しい声で語る。そのままつらつらと言葉を紡いだ。

「元々二人のことを俺が教える予定だったから、慈覚と入れ違いに兆越を引き取ったんだよ。それから一年くらいして、丁度二人そろって学校に入って、正式に俺が修行を見るようになったんだ」

 それからくるくると卵をまきはじめた師匠に向かって、俺は頷いた。
 これ以上は、話してくれない気がした。
 だから好奇心に従い、別のことを尋ねてみた。

「ちなみに、どっちがすごかった?」
「すごいって何が?」
「仙術の使い方とか。仙気とか」
「そういうのは比較するものではないと俺は思うけど」

 そう言ってから、師匠は卵を再び流し込みながら、少し考えるような顔になった。

「環から見て、今の慈覚はどういう感じ?」
「俺は底怪退治についていったり、鍛錬披露会で見たりしただけだけど、そうだな……」

 腕を組み、俺は目を伏せた。

「慈覚様って水みたいだよな。かならず、水平に戻るんだよ。きっちりと四行五術を統制してる。すごいよなぁ」
「それが修行の成果なんだよ」
「え?」
「慈覚は最初から仙気の量が膨大だったんだ。だから大体なんでも出来たんだけどね、緻密なコントロールはそれほど得意じゃなかったんだよ」
「……あの慈覚様が?」
「そうだよ。だから統制訓練があんまり好きじゃなかったみたいだ。例えば、ゆで卵と温水卵を作らせると、どちらにしても卵が爆発してた。それはそれですごいことなんだけど」
「爆発……」

 ちょっと信じられない。

「その上完璧主義者だから、成功しないと堪えられないみたいでね」
「それはなんとなく分かる」

 俺が頷くと、師匠が小さく笑った。

「兆越はね、やっぱり仙気の量は膨大で、それは慈覚と大体同じくらいだった。兆越も完璧主義者だったけど、兆越はなによりも負けず嫌いだったね。それで兆越は、慈覚とは対照的に、コントロールが完璧だった。なにより要領が良かった」
「要領?」
「うん。彼は、一つの鍋に卵を二つ入れて、片方だけ温泉卵にして先に取り出してたかな。環も、当時の慈覚も、一個ずつ温度を調節して作っていたけどね。その点を見ても、兆越は効率が良くて機転が利いた。別に環と慈覚が駄目と言うことではないよ。ただ本当に、兆越は要領が良かったんだ」
「じゃあ兆越の方が慈覚様よりすごかったのか?」
「慈覚本人もそうだけど、兆越をそう言って評価する人は多かったね。慈覚はいつも兆越に負けたくないといって頑張っていたよ」
「師匠の評価は違うのか?」
「二人共すごいと思ってるけど、もし仮に、あの二人に絶対評価をしなければならないとしたら、あるいは慈覚の方の評価を高くするかも知れない」
「どうしてだ?」
「基本的に、四行五術は、純粋に仙気のみをつかう具術は別なんだけど、二術までしか組み合わせて使うことが出来ないんだよ。仙術は、四行全てを同時に使うという前提でね」

 師匠がフライパンを見ている。俺は小さい頃にも、こんな風に卵を見ながら術のことを教えてもらった。ぼんやりとそれを思い出す。今はあの時よりも、高度な話ができると信じたい。

「中でも『仙術根幹』とされる体術と仙術、幻術と仙術、血術と仙術、しか使えない仙人が多い。最上仙になると、『体術根幹』と『幻術根幹』と『血術根幹』を使える者がいるけど、それだって十二玉仙くらいだ」

 根幹論……名前だけ聞いたことがある。

「ちなみにその三つは、兆越も使えた。十二玉仙以外で使えるのは、兆越だけだと思う。俺や南極を除くとね。奇染にもこの三つは使えない。奇染も天才だと言われてるけど。環も使えないでしょう?」
「確かに言われてみれば……」

 勿論一つずつ順番に使えば、一緒に使っているように見えないことはないが、それは同時に使っているとは言えない。

「まぁ環なら、その内使えるようになるかも知れないけどね。それでね、勿論これは、あくまでも『二術根幹論』の分類だから、さらに三術と四術の理論も存在する。それが、『三術太鼎環』と『四術極虚陣』なんだ」

 師匠の説明はこうだった。
 三術太鼎環は、それこそ、具術以外の三つの術を組み合わせる手法だった。
 四術極虚陣は勿論四術だ。

 三術太鼎環は、全ての中央に、仙術をおく。後の二つは、『体術・幻術』か『体術・血術』か『幻術・血術』だ。
 類似の『三術太鼎環・亜』には、『一の円』と『二の円』と『三の円』がある。
 一の円は、中央に体術をおく。二の円が幻術、三の円が血術だ。

「今の和仙界において、『三術太鼎環』と、『亜』の『全円』を使える者は、俺と南極を除けば一人だけだ。慈覚だけなんだよ。『亜』の『三の円』の方は、一人使える人がいるって聞いたけど。なんだっけ、教主戦に出てた……」
「血術が中央って事は、白夜様か?」
「うん、そうそう」

 頷いて師匠が、卵を冷ましはじめた。
 魚の焼ける良い匂いも漂ってきた。

「それに慈覚は『四術極虚陣』まで使えるんだよ。これはね、人間が唯一到達した『無』の行――零行目なんだよ。この域には、努力では到達できない。いくら努力しても寿命が先に来る。例え不老不死に近い仙人でもね。教主という地位につくことよりも、余程『天仙』と呼ばれてしかるべき実力の証だと俺は思うよ」
「慈覚様ってすごいんだな……じゃあ、慈覚様って、師匠とか南極を除いたら最強なのか? まぁ見るからにそんな感じだけど」
「そうとも言い切れないね。恐らく兆越と慈覚が仮に戦うことになれば、慈覚が負ける可能性の方が高いよ」
「え、どうしてだ?」
「卵を二回温めている間に、一回で終わった方には時間が出来るからね」

 師匠はそう言うと、卵や魚を盛りつけ始めた。
 俺は小鉢にサラダを作るのを手伝いながら頷いた。

 南極はまだ寝ていたから、その後二人で朝食を取った。