このようにして、時に南極も顔を出し、師匠は適度に学校に教えに行きつつ、数百年が経過した。

 師匠と磊落様の二人になったおかげで、仕事は順調に進み始めた。
 だが、効率が上がるのと比例するように、和仙界の人口が増えていったため、仕事量も鰻登りのようだった。

 その上、四階に人員が増えることはなかった。
 なぜならば、まだ磊落様の同期は全員道士だったのだ。
 ようやく全員が学校を卒業したのは、実に開校から六百年後のことである。

 磊落様の姿は二十代前半になっていて、師匠よりも少しだけ年上にみえるようになっていた。それでも現在よりは十歳くらい若い。

 ある日南極が来て、ソファに座った。
 師匠も珈琲を持って、珍しく側に座る。
 構わずに磊落様は仕事をしていた。

「やっと無事に全員が卒業したわけだし、そろそろ二期生を入れようか。次からは俺、卒業生の面倒を、北烙達と一緒に見るから、基本的に授業を受け持つのは無理だけど」

 南極が一人で大きく頷いている。それから磊落様を見た。

「まさか一期生で仙人になったのが、まだ磊落だけとはなぁ。だけどさすがに磊落は、格上の最上仙だね。磊落が一人いてくれるだけでも大分楽になったし。一人いれば十分かな?」
「もったいないお言葉ですが、後四人は欲しいです」

 仕事をしたまま磊落様が答えた。

「まぁ五人も格上の最上仙がいたら違うだろうね」
「せめて後二人。俺を入れて三人は人手が欲しい。できれば部下も二人くらい欲しいです」

 ふと五格という言葉が思い浮かんだ。五人の格上……五格上が三人と、五格が下二人……。いや、まさかな。

「磊落がそこまで言うんだから、やっぱり二期生も育てた方が良いよね。じゃあ俺は生徒を探してくるね。ああ、それとね、森羅。この前二人で底怪討伐に行った時に発見した孤児、どうしよう?」
「太鼎が引き取るんじゃないの?」
「それがさぁ、天数的に太鼎教主の弟子ではないんだよね。だけどあの強さの仙気を持ってるから、三大老でも弟子として育てるのは荷が重すぎるかも。でもさ、俺も森羅も余裕無いし、ここはいっそう、人間界に今の通りおいたまま少し様子見る?」
「……俺が引き取るよ。後で迎えに行ってくる」
「あ、本当? 有難う。だけど森羅が自分から連れてくるなんて珍しいね。初めてじゃない? そもそも、森羅が名実共に師匠になるのも初めてだけど。またどうして?」
「寒そうだったから」

 師匠はそう言うと、磊落様を見た。

「午後にはちょっと人間界に行ってくるね」
「わかりました」

 磊落様が頷く。それを見守っていた南極が、ふと思い出したように腕を組んだ。

「あ、その子じゃないけど、太鼎教主も新しく弟子をとったんだよ。磊落には弟弟子に当たるね。その子、幻術の才能があるから、その子の修行も森羅にしてほしいんだよね……二人にそろって教えるって大丈夫? 悪いけど優先してほしいのは教主の弟子の方だよ」

 そっか、磊落様って教主様の四人目の弟子に当たるんだな。直接習ったのは、学校で森羅様や南極からだけど。むしろ、それってすごいかも知れない。師匠と南極の二人に教わった人って、他に誰かいるのだろうか。まぁじっくりと教わっているわけではないだろうけどな。だが――師匠と一緒に仕事をしていたっていうだけでも貴重だと思う……。

「大丈夫じゃないかな。こっちの仕事には、磊落もいるし」
「万象院様、俺に期待しないで下さい」

 静かに口にした師匠に対し、顔を引きつらせて磊落様が言ったのだった。

 このようにして、現在に大分近づいた最上宮の日々は流れていく。
 その中で、いつの間にかそこは、『明星宮』と呼ばれるようになっていった。
 今ではもう、最上宮・頂上の混沌院に立ち入る者もいない。

 なぜならば、師匠はもっぱら四階の執務室にいるからだ。
 この頃には、誰もが『混沌氏』とは呼ばなくなっていた。

 ちなみに、寒そうな子供というのが俺は気になった。

 リモコンを弄って、人間界に降りた師匠の姿を追いかけた。
 すると、四・五歳くらいの男の子が、海がよく見える崖の上に立っていた。
 地面に降りた師匠は、その子を暫く眺めていた。

 少年は、黒髪だった。ぼさぼさで長い。
 服と言うよりも、布を身につけていた。
 ――俺は予想していた。多分、兆越のことだと思うのだ。

 それで教主様の弟子というのが慈覚様だと思ったのだ。

 二人は学校の二期生で同期だし、お互いに師匠の弟子だったらしいからな。

「誰だ?」

 その時、振り返らずに子供が言った。冷たい声だった。
 師匠が一歩前へと出る。

「俺は森羅万象院混沌氏と呼ばれている。君を迎えに来た。君が望むならだけど」
「森羅……?」
「うん。君は?」
「俺は自分の名前を思い出せないんだ」
「そう」

 師匠は小さく言うと、それからじっと子供を見た。
 そしてスッと目を細めた後、再度口を開いた。

「君の名前は、慈覚だよ」

 俺はその言葉に耳を疑った。
 鏡の中では、子供が緩慢に振り返ったところだった。
 色白の少年の二つの目を見る。俺がもう見慣れた翡翠色の瞳をしていた。

「何故知っているんだ?」
「俺は人を見れば名前が分かる。名前も術の一つに近いから」
「術? 術とは、これのことか?」

 子供が目を細めてそう言った。多分……慈覚様なのだと思う。どことなく面影がある。
 慈覚様の声に呼応するように、地面から土や岩が浮かびあがった。四行の地と風だ。その土がすぐに熔けた。赤々としている。火で溶岩のようにかえてしまったのだ。

 師匠がそれを見て目を細めた。
 慈覚様は、その後、海を一瞥した。
 すると海水が鳳凰の形をしてとんできて、火を消した。

「これを使うと、他の者は俺をバケモノと呼んだ。昔はそれが名前だと思っていた。でも本物のバケモノに襲われて、皆が死んでしまった。俺は、襲ってきたものとは違う存在だ」
「そうだね。襲ってきたのは、底怪というんだ」
「術を使えば、底怪を倒すことも出来るのか?」
「現に君は、倒したんじゃないの? たった一人で。だから生きてる」

 慈覚様は何も言わなかった。ただ俯いた。それからしばし地を見ていた後呟いた。

「でも」

 小さな手をギュッと握っていた。

「俺以外はみんな死んだ」
「助けたかったの?」
「分からない」

 師匠は小さな慈覚様に歩みよると、静かに言った。

「四行五術を使いこなせば、助けようと思えばその選択肢も得られる。見殺すことも自由だ。その状況でもう一度考えれば、分かるかも知れない。俺と来るなら、術の使い方を教えるよ。君は、俺の弟子として暮らせばいい」

 師匠はそう言うと手を差し出した。慈覚様が目を瞠っている。

「おいで」

 小さな慈覚様は、恐れるようにその手に指を乗せた。
 直後、ギュッとその手を握って、師匠が術で移動した。
 行き先は、おさかな洞だった。

 ――一体どういう事だ?

 すごく気になったが、俺はそこで混沌鏡を一度止めた。
 そして残りのナポリタンを食べてから、俺はその日は休むことにした。
 また明日にでも、見ようかな。

 そう考えながらお風呂に入り、寝台へと向かう。

 リビングでは、南極と師匠がまだ酒盛りを続けているようだった。