さらに一週間ほど経ってから、やっと師匠の仙人風邪は治った。随分と長かったな。まぁ意識が戻ってすぐに仕事を再開し、熱が下がらないまま、事態の収拾に師匠は当たっていたので、ゆっくり治す余裕も無かったといえる。

 風邪も仕事も一段落し、平穏が戻ってきた時、南極が言った。

「今度からはきちんと書類にしておいてね」
「ごめん」

 師匠は悪くないと思うのだが、ポツリと謝った。南極も慌てたように首を振っている。

「ううん。ほ、ほら、後世のためにもさ!」

 確かに、師匠がいなくなったら全てが止まってしまうのでは、危なすぎる。

 さてその数日後、最上宮は、いっきに現在同様の六階建てになった。
 一階は主に玄関、二階は資料室……現在の図書館だ。
 そして三階から五階には、師匠の脳内から整理しアウトプットされた書類や巻物が収められた。それを見て、改めてその仕事の膨大さに俺は目を瞠った。ほとんど現在の明星宮の三・四・五階と規模も内容も変わらない。

 これを一人で? 明らかに仕事のしすぎである。

 増設されたフロアを見て、南極と三大老はポカンとしていた。
 師匠は、静かに仕事のそれぞれの内容や、書類の場所を記した巻物をみんなに渡している。口頭で説明できる量ではないのだ。

「ほ、本当に働きすぎだね」

 南極が三つもある仕事指南書の巻物を片手に、空笑いした。

「こ、これからはさ、みんなでやろうね。手伝ってもらおうよ。混沌だけがやらなくて良いよ。手伝いは……ま、まぁ特に醒宝とかね。そもそもさぁこれを手伝ってもらおうと思ってさぁ、混沌に預けたんだし。そう! 特に、醒宝とか。だから、醒宝とか! 手伝って!」

 すると醒宝様が笑顔で首を振った。

「わしやだ」

 仕事の山を見て、彼はきっぱりと断言した。隣で祀傳様も腕を組んで声を上げた。

「わしも無理だからな!」
「わしもわしも。あ、天数見てみる?」

 北烙様もまた頷いてから、ポンと手を叩いた。そこで北烙様が、南極の持っている扇子と同じものを取り出した。天数を見る宝貝だ。

「わしら以外の弟子がやるみたいじゃ。教主様に弟子をもっととってもらおうよ」

 北烙様が言うと、醒宝様も祀傳様も大きく頷いた。

「弟子にやらせるって発想、間違いなく君達と教主は師弟だよ……」

 見ていた南極が呟いたのだった。

 結局その後も、仕事をしているのは師匠だけだった。
 ただ前とは違い、師匠の代わりに南極が問い合わせに答えたりすることは出来るようになっていた。

 それが五・六百年続いた。

 三大老達は正式に仙人となったようで、洞府を開いたり弟子を取ったりしていた。
 あんまり最上宮には顔を出さない。
 明らかに仕事をするのを回避している。

 この頃になると、和仙界にはさらに人が増えた。
 そして最上宮頂上は『混沌院』、三・四・五階は『森羅万象院』と自然と呼ばれるようになっていた。三大老達の弟子が増えてきたため、自然とその名が広まったらしい。

 多くの道士は、師匠の『混沌氏』という名を知らなくなっているようだった。あるいは混沌氏という名を知っていても、それが師匠だとは一致していないようで、師匠のことは、『森羅万象院』あるいは『万象院』と呼ぶようになっていた。

 教主様も先日、『森羅万象院混沌氏へ』という手紙を書いていた。
 そのままいつしか、『混沌』と呼んでいた人々は、南極も含めて『森羅』というように名を略して呼ぶようになった。それほど面識があったわけではない人々は、『万象院』と略して呼ぶことが多い。

 そんなある日、仕事をしている師匠を、近くのソファに座って南極が見据えた。

 南極の方は、近頃では何人かの仙人に手伝わせるようになっていた。その人々は、次第に最上宮で働く仙人――最上仙と呼ばれるようになっていった。未だにほとんどの人間は道士なのだが、三大老が教えるようになってから、少しずつ仙人も増えてきたらしい。

「ねぇ森羅。俺、考えたんだけど、君の仕事を手伝える仙人が一人もいないし、そもそも仙人自体の数も少ないからさ、育成が急務だと思うんだよね」

 書簡にペンを走らせながら、師匠が小さく頷いていた。黙々と仕事を片づけている。

「だから学校を作るってどうかな? 兎に角基礎だけ叩き込んじゃえば、今よりも効率よく育つと思うんだよね」
「良いんじゃない」
「良かった!」

 師匠の声に南極が笑顔になった。
 南極も、ちゃんと師匠のことを考えてくれていたんだな。

「じゃあ、学校施設の設置と教科書の作成、お願いね。本当に基礎の手前で良いから。醒宝に教えたのを基礎とすると、あれより二百倍くらい簡単で良いよ」

 結局師匠にやらせるんだな。俺は思わず半眼になった。

「生徒の募集は俺がやるね。学校の名前は、教主に相談したら、『仙人や道士にとって夢のような、まさに桃源郷のような場所』になるって言ってたから、『桃源仙道宮』で。生徒が集まり次第、仕事の合間に先生やって。あ、俺も手伝うから! そこの卒業生が仙人になったら、ここを手伝ってもらおう」

 師匠は何も言わなかった。一見すれば、師匠の仕事が増えただけである。

 さてその数ヶ月後には、無事に現在と同じ形の桃源仙道宮の校舎が完成した。各教室結界完備だった。師匠が作ったのか。知らなかった。

 一期生は、三十人くらいいた。外見年齢は五歳くらいから八十歳くらいまで様々で、これを機に人間界から南極が連れてきた人もいれば、これまでも和仙界で修行をしていた人もいた。

 午前中は座学で、午後は実技だった。座学では絵巻を読み、実技では瞑想や呼吸法だ。仙気の精錬だ。絵巻には、天玄教の解説や四行五術の理論が書いてある。次第に詳しくなっていく。

 俺の時とは異なり、社会は無かった。
 かわりに、現在では選別前に習う、『ひらがな』などの文字や、各洞府で習うはずの、星の読み方、簡単な算数などが入っていた。

 午後の実技は、俺の時とほとんど同じで、四行の鍛錬だった。

 二年目になった時に、新しい段階に進んだのは一人だけだった。

 俺はそのどことなく見覚えのある顔を、しばらく悩みながら眺めた。誰だろう。その後、名前を見て納得した。磊落様だった。そうか、あの人は一期生だと言っていたものな。

 俺はリモコンに『らいらく』といれた。

 六歳で入学した磊落様は、毎年一学年ずつ進学し、六年目にして、十二歳で学校を卒業した。一期生の中での最初の卒業生だった。彼の進級速度を目安として、一応現在でも留年制度が残っているのかもしれない。

 その後磊落様は、十七歳までの五年間は、宝貝を作ったり、三行を習得したりしながら過ごしていた。無事にオリジナルの宝貝と三行・地水火、四行結界を教主様の前で披露し、仙人として認められた。この頃は免許制ではなかったようだ。

 そして十七歳の暮れ、磊落様は南極に呼び出されて最上宮の四階に向かった。
 そこには、現在では慈覚様のものである執務室が広がっていた。まぁ教主戦があったから、これからは慈覚様の部屋じゃなくなるんだけどな。

 その部屋の中に、師匠がいた。
 顔を上げるでもなく、ペンを走らせている。

「森羅、磊落が来たよ」
「うん。久しぶり」
「ご無沙汰致しております、万象院様」

 磊落様がそう言って頭を下げた時、一段落ついたようで、師匠がペンを置いた。師匠の教え子なんだなぁ。それから師匠が立ち上がり、今の補佐官室へと磊落様を連れて行った。
 今のような椅子はなく、ただ大きな机があるだけで、その上にはびっしりと書類と資料がのっていた。一応、わかりやすく整理されていたし、必要なものが側にあるし、きちんと順番になっているようだ。
 混沌院にあったメモを重ねて張り付けただけの巻物とは全然違う。師匠は整理し始める時っちりとやるんだな。多分混沌院のメモは人に見せたり理解させたりするつもりが無かったんだと思う。

「今日からこの仕事を手伝って欲しいんだ」

 師匠がそう言って、椅子を一つ壁際から引き寄せた。
 そして仕事の山の一部を中央に押して、スペースを空けた。そこに座れと言うことだろう。磊落様は無表情でそれを見ていた後、書類を一部手に取った。ぱらぱらとそれを捲る。

「いつまでに終わらせるんですか?」
「卯月までには終わらせる予定だよ」

 こうして、師匠の他に、磊落様が仕事に加わった。「頑張ってね!」と言って南極は帰っていった。

 本当、気の遠くなる量だ……。二人だけであの量は、無謀だ……。

 師匠は執務室に持ち込んで、仕事をこなしているようだった。
 磊落様は、とりあえずという風に椅子に座った後、時計を一瞥した。
 今もまったく同じものが、補佐官室の天井付近に存在している。丸い壁時計だ。

 彼が行動を開始したのが午後三時頃だった。
 まず磊落様は近くの書類をいくつか見た。その後関連資料に手を伸ばした。以後は、淡々と読み進めていた。ただし一時間に一回ずつ、磊落様は時計を見ていた。
 そのまま夜の十時になった。
 時計の音と共に立ち上がった磊落様は、静かに執務室の扉をノックした。

「どうかした?」

 師匠が顔を上げずに声をかけた。まるで慈覚様を見ているような気になる。

「万象院様、本日は何時まで仕事をしたら良いでしょうか?」
「きりが良いところで帰って良いよ」
「明日は何時に来れば良いでしょうか?」
「好きな時間に来て良いよ。俺は、明日は学校の座学も教えるから、朝は十一時手前くらいにくると思うけど。普段通り、五時頃には一度顔を出すから、鍵は開けておくよ」
「通常は五時にいらしてるんですか?」
「教主が五時半に来るから、ここ全体の鍵を開けてるんだ」
「なるほど。ちなみに大体何時までいらっしゃるんですか?」
「日によるけど……四時過ぎには洞府にいることが多いかな」
「十六時ではなく四時ですか?」
「うん、そうだよ。でも別に俺に合わせる必要はないよ」

 師匠は仕事に集中しているようで、つらつらという。無表情で無感情だ。