オリーブオイルでパスタをほぐしてから、俺はフォークで巻き取った。ソファの上であぐらをかき、皿を片手に静かに食べる。我ながら美味しい。粉チーズが良い感じだ。続いて具材のソーセージを食べてから、再びテーブルにナポリタンを置いた。

 そして水を飲みながら、混沌鏡に視線を戻す。

 するとそこでは、俺の知る明星宮――この当時の最上宮が、二階建てになっているところだった。現在の一階と六階がくっついているようにみえる。屋上はそのままだった。

 道士の数も増えているようで、瞠若山にも時折、見たことのない道士達が顔を出すようになっていた。度々映るようになったのは、常磐と丹羽という二人の道士だった。多分、現在の『ときわ一族』や『にわ一族』の祖に当たる人なんだと思う。教主様や三大老は族長を務めた記録があるが、始祖とはされていないしな。

 三大老達は、祀傳様以外は十代後半になっていた。
 師匠よりも少し若くみえるくらいだ。
 屋上で三人、楽しそうに雑談しながらお茶をしている。

 もう修行している気配はない。洞府では、やっているのだろうか?

 教主様はといえば、教主室にこもりっきりのようだった。そこで瞑想をしたり、書道をしたり、盆栽を育てたりしている。クルクルとリモコンを操作して俺は確認していった。

 この頃になると、南極は、現在と同じ居室――南極府にずっといるようになった。そこで底怪の監視や、道士達のもめごとの解消にあたっているようだった。

 あれ、師匠はどこに行ったんだろう?

 あんまり姿が見えない。時々通りかかると、南極が「道士の家作ってー」なんて声をかけていた。その数日後には、南極と連れだって、今の許仙住宅街の付近を歩いていたから、手伝い自体はしているのだと思う。

 ただこの頃になると、醒宝様が帰宅しても洞府にはいないし、醒宝様が起きた時には、もう出かけるようになっていた。帰ってきている気配はあったのだが。

 俺が首を傾げて見ていると、その日は三大老もその話題になっていた。

「混沌氏って元気にしてるのか?」

 祀傳様が言うと、北烙様も視線を醒宝様に向けた。

「全然見ないよね。わし、生きてるのか心配になっちゃった」
「生きてはおられるよ。わしも見ていないのじゃが。新しい巻物や、修行内容の書き付けは置いていくからのう。どこでなにをしているのかは知らぬ」

 答えながら醒宝様がクッキーを摘んだ。じっと見ている。師匠の作だというのは間違いないな。お菓子は毎朝補充されているようだった。

「一応、最上宮にいらしているはずなのじゃが」

 醒宝様が続けると、北烙様が頬杖をついた。

「ならば、『頂上』におられるんじゃないの?」
「見に行くか」

 祀傳様がそう言って立ち上がった。二人もそれに続く。
 屋上から階段を下りて、三人は教主室の側にある掛け軸の前に立った。
 現在と同じものである。

 それを取ると、扉があった。最上宮頂上陰陽の間への入り口だ。
 ノックをしてから、代表するように祀傳様が扉を開けた。

 すると、中から師匠が振り返った。豪華な回転椅子に背を預けて、くるりと師匠が振り返ったのだ。現在の南極の執務用の椅子と同じだ。

「なにかあったの?」

 師匠が首を傾げている。その視線の先では、三大老が笑顔のままで呆気にとられていた。
 俺もちょっと呆然としてしまった……。
 執務机と椅子の他には、そこには山のような仕事のメモしかなかったのだ。

 メモをまとめたらしい巻物が積み上げられている。決して広くはないその部屋が、巻物で埋まっていた。天井付近まである。開けっ放しだった隣室の扉の向こうには、寝台がある。その上にまで、巻物が積み上げられていた。
 浴室とトイレも見えるが、そちらは逆に無機質すぎるほど生活感も何もない。

 巻物は、決して資料や記録、成果物ではないようなのだ。
 やることの覚え書きのようなものにみえる。あるいは既に終わったことのメモだ。

 俺は確信した。ここで師匠が仕事をして、当時の和仙界を動かしていたんだろう。

 ポカンとしていた三大老は、それから首を横に振り、笑顔で出て行った。
 屋上へと戻り、テーブルの前に座ると、北烙様が呟いた。

「すごいお仕事の量だったね……」
「うむ……師匠が倒れたら全てが終わるな」

 醒宝様が遠い目をして笑った。最近醒宝様は、『師匠』と呼ぶようになったらしい。

「あの仕事の山……ああ、まさしくあそこは、混沌院だな!」

 祀傳様が断言すると大きく頷いていた。

「確かに混沌としておったのう。この和仙界の森羅万象を扱っているようじゃった。そうじゃのう、うむ、混沌院にして、森羅万象院!」

 醒宝様が呟く。その声に、俺は思わず目を閉じた。
 そんな経緯でその名前になったのか?
 由来が変わってるだろ。

 さて、師匠が仙人風邪で倒れたのは、それから一年も経たない内のことだった。和仙界の記念すべき最初の患者記録である。勿論、仙人風邪の記録だ。過労の記録ではない……よな……?

 周囲が異変に気づいたのは、比較的早い段階だった。

 その日の朝、まず、おさかな洞ではいつも作り置きが用意されていた醒宝様の食事がなかったのである。
 毎朝補充されるはずの教主室の紙と墨は昼になっても切れたままだった。
 お茶会の場には当然毎朝おいてあるお菓子がない。
 南極の元には、「新しい巻物が届かない」「頼んでおいた宝貝が届かない」「道服を新調したいが連絡が付かない」などの苦情がよせられていた。

 これはおかしいと言うことになり、三大老と南極、教主様はかけじくの前に集まった。

「混沌、いるー?」

 南極が最初に声をかけた。隣で教主様が呟く。

「今日はお休みか?」
「それならば洞府にいるはずじゃ。わしの朝ご飯はなかったぞ。そもそも師匠が休んでいる姿など見た記憶がないのう」

 醒宝様が首を傾げると、南極が、ばつがわるそうな顔をした。

「太極府にもいないの? えー? 働きすぎてストライキかなぁ」

 さてそれから数分待っても返事は無かった。
 思案している南極の隣で、不意に北烙様が扉に手をかけた。

「中を見てみましょう」

 そして彼らは、巻物の山の間で、机の上にぐったりと体を預けている師匠の姿を発見した。

「混沌!」

 慌てたように南極が駆け寄る。
 続いて教主様も中に入る。巻物が一斉に倒れた。

 それから、最上宮には地獄が訪れた。
 道士達からの問い合わせと苦情は止まらない。
 なんとか南極が対応をする。とはいえ、「今忙しいから、後でね」と一言告げて終わりだったが。

 どうにかしなければと、三大老は巻物の整理を始めた。まず寝台の上の巻物を全て床に下ろし、そこに意識のない師匠を眠らせていた。酷い高熱らしい。
 その内に、南極も後回しに出来ない部類の問い合わせを受けるようになっていた。南極が、三大老の整理している巻物の山を見る。

「ねぇ、和仙界の地図ってある?」
「確かあっちの巻物の山に、簡単な地図付きの走り書きが……」

 北烙様が答えようとした時、教主様が扉を開けた。
 いっきに巻物の山が再び雪崩を起こした。師匠の頭にぬれタオルを乗せていた醒宝様は、その音にビクっとしている。その時、祀傳様が苛立つように怒鳴った。

「あんたはこの部屋にはいるな! これ以上の混沌をもたらすな!」

 おずおずと教主様は出て行った。ちょっと寂しそうだった。
 再び巻物の山を整理しながら北烙様が呟く。

「だけど、雪崩が起きても起きなくても、どこに何があるのか分からないし。仮に見つけたとしても、内容がメモばっかりで、中身は混沌氏の頭の中。わしらにはどうすることもできないよ」
「それにしても混沌氏はこんなに仕事をしていたのか? そりゃあ倒れもする!」

 呆れたように祀傳様が言った。

「一個ずつ、ちょっとずつ頼んでたんだけど、全部続いてたんだね……俺も、こんなにやってたとは知らなかった。ちょっと予想外だった」

 南極の顔がひきつっていた。

 その後、五日ほど寝込んでから、師匠はやっと意識を取り戻した。
 ぼんやりとしているように瞼を開けた師匠に、醒宝様が泣きながら抱きついていた。

 なお、その間、最上宮の機能は完全に停止していた。