それから師匠の術で、二人は屋上まで移動した。
 そこには、前回見ていた頃までとは異なる、大きなテーブルがあった。
 椅子も全部で六脚ある。南極が立ち上がって笑った。

「やぁ醒宝。久しぶり!」
「久しぶりじゃな」

 空いている椅子をひきながら、醒宝様が頷いた。その隣に師匠が座る。師匠のさらに隣には、祀傳様、そして教主様。その次が北烙様で、続いて南極の椅子、その隣が元に戻って醒宝様だ。テーブルの椅子は規則正しく埋まっている。

 お茶の用意を始めたのは、やはり師匠だった。
 その間、北烙様がずっと話していた。
 南極に勝るとも劣らない口数の多さだった。本当に良く喋るなぁ。

 教主様は、道服の両袖に、それぞれの腕をいれた。会話を見守っている。
 南極は師匠が淹れたお茶を配布している。彼も楽しそうに耳を傾けている。
 なお北烙様の声に、時々祀傳様がつっこみをいれていた。

 醒宝様は一番幼く愛らしい顔立ちで、ニコニコとそれを聞いている。
 北烙様が十四歳くらいで一番年上、見た目的に真ん中なのが祀傳様、その僅かに下にみえるのが醒宝様だ。
 全員同じ道服を着ていた。南極の服とほぼ同じ作りだ。違いはと言えば、三人とも帽子を被っていることだ。祀傳様は帽子を膝の上に置いているが。よく天帝を祀る祠などの彫刻で見る、一風変わった形の帽子だった。

 子供達(?)三人を眺めていた俺は、その時醒宝様の声で我に返った。

「はげ!」

 驚いてそちらを見ると、曇り一つ無い満面の笑みで、愛らしさを振りまきながら醒宝様が指さしていた。てっきりその先には教主様がいるのだろうと思ったら、咽せているのは南極だった。カップを置き、南極が引きつった笑みを浮かべて師匠を見た。

「混沌のしつけって最悪!」

 目が笑っていなかった。それから南極が吐き捨てるように言った。

「俺のどこが禿げてるって言うんだよ、それは教主だけだ!」

 師匠は何も言わない。教主様は何も言えないようだった。

「真の優しさをはき違えるな。厳しさも時に必要なんだよ」

 南極がビシッと師匠に対して言い切った。すると師匠が少し考え込むような表情をした。
 さて、その日、師匠と醒宝様が洞府に帰ったのは、夕暮れのことだった。

「醒宝」

 師匠は、リビングに入るなり、そう声をかけた。怒るのだろうか? しつけか?

「南極の言葉には一理あると思うから、今日からもう少し修行を厳しくするね」

 ん? 淡々と続いた師匠の言葉に、俺は首を傾げた。
 師匠はそのまま、醒宝様を、地下の鍛錬場へと連れて行った。
 現在と全く変わっていない。

 そこで師匠は、鍋と、卵を二つ取り出した。

「温泉卵とゆで卵を作って」

 そしてそれだけ言うと、扉を閉めて出て行った。
 残された醒宝様は、受け取った卵をまじまじと見ていた。

 ――これがスパルタの開始だった。

 元凶は南極だったんだな……。

 以後、鏡の中では、俺も経験した修行が繰り返された。
 俺の時との違いはと言えば、別段師匠は褒めてくれないし応援もしてくれないし、労ってもくれないことだろうか……。無表情で、最初に教示をした後、いつも扉を閉めている。勿論全ての修行が終わるまでは、外に出てきてはならないようだ。

 それが五日目になった時、体感時間だと十年は経った頃、師匠が扉を開けた瞬間に醒宝様が勝手に外に出た。え?

 見ているとそのまま醒宝様は走っていき、玄関を抜けて、外へといなくなってしまった。
 こ、これは……脱走だ!
 醒宝老まで脱走したのか……。多分だけど、慈覚様が脱走したと言っていたのも本当なのかもしれない。
 だって確かに俺だって、師匠に励ましてもらったりしながらでなかったら、修行なんて続かなかった気がする。

 醒宝様は、走りに走って明星宮の屋上までやってきた。泣いている。辛かったんだろうな。道に迷った様子がないのは、瞠若山は、和仙界のどの位置からでもよく見えるからだろう。

 驚いた様子で、南極が立ち上がる。

 その横を走って通り過ぎ、醒宝様が教主様に抱きついた。
 鼻水が教主様の道服にくっついている。

 まるでそのタイミングを見計らっていたかのように、そこに師匠が術で現れた。師匠は少しだけ眉を顰めて醒宝様を眺めている。

 すると気づいて振り返り、醒宝様が叫んだ。

「わしの師匠は、太鼎教主様じゃ! 混沌氏ではない! わしはもう帰らぬ! あんな修行はせぬ!」

 それを聞いた瞬間、少し師匠が悲しそうな顔になった。これまで見てきた映像の中で、このように寂しそうに見える表情をしたのは初めてだった。だがそれは一瞬で、すぐに師匠は目を伏せて、いつもの表情に戻った。その間も、醒宝様は、教主様に抱きついて、泣きわめいていた。師匠はそれから目を開いた。

「そう」

 ポツリとそれだけ言うと、師匠は踵を返した。

「南極、そういうことだから」
「混沌……うん、まぁ、分かったけど。帰るの?」
「帰るよ。下の部屋で少し作業をしてから」

 南極に頷いてから、師匠が歩き始めた。
 すると太鼎教主様が、醒宝様の髪を撫でた。

「良いのか? 混沌氏が帰ってしまうぞ」
「……」
「私はいつでも明星宮にいて醒宝を待っておる。だが、混沌氏はいってしまうのだぞ?」
「そうだよ醒宝。本当に良いの? 混沌、帰っちゃうよ?」

 教主様と南極の声に、涙をぬぐってから、醒宝様が床の上に降りた。

「……良くない」

 そして小さな声でそう言うと、醒宝様が、師匠の後を追いかけて走っていった。そのまま後ろから抱きついた。驚いたように、師匠が息を飲んだのが分かる。足を止めた師匠は、それから暫くの間、醒宝様を見ていた。

 師匠が、掌で醒宝様の頭を優しく撫でる。
 びっくりしたように醒宝様が顔を上げる。

 すると師匠が小さく笑った。混沌鏡を見始めてから、初めて俺は、師匠が笑った顔を見た。それからすぐに無表情に戻った師匠は、静かに歩き始めた。醒宝様が追いかけていく。

 南極の声が遠くから鏡越しに響いてきた。

「いやぁ混沌にも、悲しいとか嬉しいって言う感情があったんだね。少なくとも、ああいう顔もできるんだ」

 確かにこれまではそんな気配は無かったな。
 笑顔を引き出したんだから、醒宝様ってすごいんだなと考える。

 そう思いながら、俺はナポリタンへと視線を向けた。
 段々お腹がすいてきた。
 そろそろ食べることにしよう。