師匠は何も言わずに二人を静かに見た後、近くの壁に手をついた。現在では太鼎教主様直筆の『四行五術』という掛け軸がかけてある場所だ。そこに、掛け軸よりも小さいサイズの扉が現れた。師匠が扉を開ける。すると中には、南極の居室や太鼎教主室と同じ執務机と豪華な椅子があった。ここが混沌府なのだろうか? 現在の明星宮からは、掛け軸の後ろから通じているのだろうか。

 その後、師匠はそこで別れて二人を見送った。南極は教主様を、各部屋に案内している。多分南極は、間取りを四行五術で把握したのだと思う。鏡には、大興奮した様子のおじいちゃんが映し出されていた。南極がニコニコとそれを見ている。

 そのまま俺は、混沌鏡をつけっぱなしにして、飲み物を取りに行くことにした。

 部屋の外に、ウォーターサーバーがあるのだ。

 師匠は兎に角飲み物をよく飲む。
 だから同じ設備が、洞府の様々な場所にある。

 以前、玉藍様など、「水中毒なんじゃないの?」と呆れたように言っていた。
 そんな中毒があるのかと思っていたら、師匠が俺に「危険なんだよ」と教えてくれた。
 まぁ誰にだって好きなものはあるだろう。

 そばのコップに水を入れて物置に戻ると、天帝犬がリモコンを弄っていた。画面を見るが、変化はない。屋上で三人がお茶をしている光景が延々と流れている。服はちょくちょく変わったけどな。

 しかし――天帝犬からリモコンを奪い返して数字を確認し、思わず俺は眉を顰めた。
 もう千年以上……いいや、約二千年経過していたのである。嘘だろ?
 なんの変化も無いのに……!

 毎日、師匠は朝、ここに顔を出す。そして席に着き、二人がやってくると食事やお茶を用意していた。その後は、そのまま二人の会話を無言で眺めていた。そして二人が夕食、時に夜食を食べた後、彼らが帰ってから師匠も帰宅しているようだった。

 どこで生活しているのかは知らないが。大体南極が喋っていて、教主様が相槌を打ったり、筆で紙に何か書いている。
 その日は、教主様が紙に文字を書いた。

 内容は、『家を作ってもらって美味しいお菓子もあって服もあって居心地が良い……』だった。

 た、確かに居心地良いよな。師匠のそばって。

 師匠は鏡の中では、本当に喋ることがほとんど無いが、きちんと会話に頷いたりはしている。慣れてしまえば、無言でも気まずくないはずだ。

 教主様が続きを書いた。『まさに玄都! 桃源郷!』と、ある。
 俺は何とも言えない気持ちになった。

「って、これじゃならぬ!」

 その時、我に返ったように教主様がテーブルを叩いて立ち上がった。全くその通りだ。
 しかし、それからさらに五百数十年、開始から二千五百年以上がたっても、いっこうに風景は変わらなかった。

 些細な変化はと言えば、少しずつ師匠が口を開くことになった事だろうか。
 時折、教主様が紙に書いた汚くて読めない文字を見せると、師匠は首を傾げて四行五術などを使って見せた。最初はいちいち教主様はそれを見て気絶していた。

 ようやく変化が現れたのは、三千年間近の頃だった。

 四季も天気もない瞠若山の最上宮屋上で、その日も三人はお茶をしていた。この頃から、和仙界は初夏だったんだな。新緑の季節と夏の間だ。教主様が、珍しく真新しい紙に、綺麗に文字を綴って、広げた。それを南極と師匠に見せている。

「この地に来て、早二千有余年」
「大体三千年だね」
「いいや南極、まだ二千年の内じゃ。二千年代の内に、私は天帝様に開教を許していただいたお礼をせねばならぬ。これは、二千年に一度、絶対に行わなければならない祭事なのだ。本来であれば、理論上は四百年に一度は行いたいのじゃ」

 教主様が力説した。師匠がどうでも良さそうな顔で頷いている。何を考えてるんだろう。もしかすると、何も考えていないのかも知れない。南極は頬杖をついていた。

「誰がやるの?」
「え」

 南極の言葉に、教主様が息を飲んで、師匠の方を見た。

「それは混沌には頼めないよ」

 南極が首を横に振ってから、カップを手に取る。

「仮にも混沌は、天帝と対をなす存在だからね」

 教主様は当てが外れたというように息を飲んでいる。すると師匠が細く息を吐いた。

「別にやっても良いけど」

 やっぱり師匠って気遣いの人だな。その言葉に、南極が咽せた。小さく吹き出している。

「天帝が開教取り消しにするって絶対」

 笑みを含んだままきっぱりと断言した後、南極が大きめの扇子を取り出した。黒い骨組みで、金色の扇子だ。あれは今も時折持っているのを見ることがある。

「仕方がないなぁ、天数を見てあげるよ」

 そう言うと南極は、扇子を開いた。じっと見ている。あれで天数が見えるのか。知らなかった。宝貝だろうか?

「あ、なんか教主の弟子がやるみたい!」
「で、弟子……? 弟子と言えば、混沌氏、是非私を貴方の弟子に……」
「何言ってんの? 教主が弟子とかありえないでしょ!」
「しかし四行五術を見せて下さったし。私は理論だけだったし。整理しただけだし」
「ちょ……いくらなんでもそれはないでしょ」

 南極が扇子を閉じた。
 そこから二人の口論が始まった。
 師匠に弟子入りしたいと教主様はしぶり、南極は辟易したようにそれを止めていた。

 暫くそれが続いた。
 その後、珍しく師匠が自発的に口を開いた。ポツリと静かな声が響く。

「天帝の祭事はどうするの?」

 確かにな。二人とも忘れている様子だった。
 やっと南極が、思い出したように虚空を見た。
 そこで、教主様がきっぱりと言った。

「天数に従い、私の弟子にやらせましょう」
「今から育てるのは時間がかかるし、初会は教主が自分でやっても良いんじゃない?」
「南極、私はいやじゃ。天帝様はなんとなく怖いのだ。なに、既に育っている者を弟子にすれば良い。師をさがしている実力者とておるだろう。ようは祭祀をさせれば良いのじゃ」
「教主って結構したたかだよね」

 南極が呆れたように笑った。教主様は知らんぷりしている。師匠はそんな二人にお茶のおかわりを淹れたのだった。

 それからの南極と教主様の行動は、これまでに比べると早かった。

 なんでも天玄教が、天帝に開教の許しをもらえたのも、人間界における教主様の出身地域に、元々天帝信仰があったかららしい。その縁だと言う。そしてその地域には、代々天帝を祀っている者達がいるとのことだった。二人はその人々に目をつけたのだ。

 特別なその一族に生まれた人々は、人間界にありながらにして、膨大な寿命を得ていた。仙気が強いのだと教主様は説明していた。

 さてその日、珍しく師匠が来る前に、教主様が屋上に現れた。
 南極が、一人の少年に見える神官を伴って姿を現したのは、そのすぐ後のことだった。

「は? ふざけるな。なんであんたの弟子に?」

 かなり不服そうに、苛立つような顔で神官が吐き捨てた。あ、祀傳様だ。今と全然姿が変わっていない。いや、今よりも少し幼いかも知れない。

 なんとか弟子にしようと、教主がなだめ始める。南極が、作り笑いでそれを見ていた。

 祀傳様は罵詈雑言で聞く耳を持たない。それからしばらく、祀傳様の怒鳴り声が響いていた。それが止んだのは、師匠が姿を現した時だった。

「今度は誰……え?」

 師匠を見ると、不平不満を打ち切り、小さな声を漏らして祀傳様が目を見開いた。じっと師匠を見た後、祀傳様はビクっとした。体を硬直させ、表情を引きつらせている。信じられないものを見たというような顔で、滝のように汗を流している。

「お、お招き頂き光栄です」

 そして、これまでとは百八十度違う、礼儀正しい口調と姿勢になった。師匠は小さく首を傾げている。それから、静かに目を伏せた。

「太鼎教主の弟子?」
「ええ。祀傳と申します」
「椅子を用意するよ。少し待ってて」

 師匠はそう言うと、来た道を引き返していった。恐らく、時空間術の範囲にストックがなかったのだろうな。呆然とそれを見ている祀傳様の肩を、その時教主様が叩いた。

「弟子になってくれるのじゃな! ありがとう!」

 すると祀傳様が身震いしてから、教主様の首元を掴んで詰め寄った。

「おい! あんな貴人がいらっしゃるなんて、わしは聞いていないぞ! あれは混沌氏ではないのか?」
「いかにも混沌氏じゃ。私によくして下さる。決して奇人変人ではない」
「貴い人だって言ってるんだ! なんであのような尊い存在が、あんたを庇護しているんだ? あんたは天帝様を信仰していると言ったよな? 混沌氏ではないんだよな?」
「うむ、私はきちんと天帝様を祀るつもりだ。祀傳、おぬしは何故そんなに怯えているのじゃ? 優しいお方じゃぞ」
「だろうな。あんたに付き合ってくれてるんだからな!」

 首を傾げている教主様の前で、深く溜息をついてから、祀傳様が改めて口を開く。

「あんた……あのすごさが、わかんないのか? 話をするだけでも恐れ多い」
「別に普通だが? 南極といると時は仙気に気圧されることもあるが、混沌氏といてもそういうことはない」

 南極の仙気か。現在の明星宮でも、それは言われてるよな。どういう事なんだろうな。
すると祀傳様が、見守っている南極を一瞥してから続けた。

「本当に分かってないんだな。いいか、時計で言うと、南極仙翁は、十一時五十九分だ。混沌氏は、零時五分くらいだ。一見すれば、南極仙翁の方が仙気は高い。ただな、混沌氏の場合は、すごく気が遠くなるほどの時間、針が十二、即ち零を指した結果、ぐるぐるぐるぐる針が回った結果、そう見えるだけなんだよ。どういうことかっていうと、すごすぎてすごくみえないんだよ!」

 なんだか分かったような分からないようなと思いながら、俺は鏡の中の祀傳様を見守っていた。すると教主様が首を傾げた。

「私は?」
「勿論回転してない状態で、零時半ってところだな」
「おぬしは?」
「……無回転で、零時一分にならないところだ」
「なんだ私すごいじゃん」

 教主様が呟いた。あからさまに祀傳様が引きつった笑みを浮かべた。苛立っているのが分かる。きょ、教主様って、お茶目だな。俺は、自分の中のイメージが変わった気がした。