立ち上がって俺は、言われた通りにした。ソファの背にそれを立てかける。すると、それが、天数鏡と同じくらいの大きさになった。驚いてみていると、先程まで硝子だった場所がしっかりと鏡になっていた。また、金色の細い鎖で繋がれた、四角いリモコンのようなものが付属していることに気がついた。

「そこの歯車とネジで、時間と人物を指定するのだ」

 天帝の解説に、静かに頷く。鎖を外したリモコンを手に、俺はソファに戻った。左膝を立てて、両腕で抱く。右足は下ろしておいた。

「さて、楽しみだ。『混沌氏のパズル』を見る機会が来るとはな」
「混沌氏のパズル?」
「そこには、和仙界の開始から現在の数分前までが記録されている。まさに、混沌氏が人間ごっこをしながら築いてきた歴史、世界、その記録だ。あやつはどのようなパズルを完成させ――いや、完成する前に壊したのか。見物である」
「この世界は壊れてないだろ」
「……結果的には、な。余はそれが不服である。不愉快にも南極が指摘した通り、余は混沌の一切のものを損なっていないのだ。まぁ良い。それも混沌鏡を見れば、分かるはずだ」

 不機嫌そうな天帝犬の声に頷いてから、俺はリモコンを見た。
 左手に握り、右手でネジを回すと。『あ』から『ん』までが、七文字まで選べるようだった。七文字以上の名前の場合をどうするのかは知らない。その下には、数字を合わせる場所があった。

 試しに『たいてい』と合わせて、数字を『0』にしてみた。

 すると、低い音が混沌鏡の方から聞こえてきた。
 眺めていると、すぐに見知らぬ風景が映り始めた。

 どこかの高い山の上が映っていた。辺りにはうっすらと白い雲がみえる。その山の岩の上で、禿頭の老人があぐらをかいて座っていた。

 太鼎教主様だ。今と全然姿が変わらない。

 服だけが違う。乾燥させた草のようなもので編んである。腰の所で、木の枝で縛っているようだ。袖はない。首の所と腕の所に穴が空いていて、そこから首や手を出しているのだ。

 その時、足音が聞こえた。教主様が視線を上げる。

 そこに立っていたのは、満面の笑みの南極だった。
 南極も今と変わらない姿だが、やっぱり服装が違った。俺が知る南極は、常時道服姿だ。だがここに映っている南極は、らくだ色の布で、頭から足までをすっぽりと覆っていた。その下は見えない。

「はじめまして。開教おめでとう!」

 教主様と目が合うと、明るい声で南極が言った。教主様がポカンとしているのが分かる。そりゃ、いきなり人が現れたらびっくりするよな。

「天玄教というんだよね? 君はその開祖にして教主の、太鼎教主!」
「……」
「あってる?」

 反応がない教主様に対して、南極が少し不安げな顔をした。そこに沈黙が降りる。

 少しして――教主様の体が傾いた。

 なんと、驚きすぎて気絶したらしかった。そんな教主様の体を、岩の上に横たえてから、南極は暫く困ったように立っていた。

「あ、目が覚めた?」
「……」
「あ、あの?」
「うわあああああああああああ」

 南極の顔を見ると、絶叫してから、再び教主様が意識を失った。なんだこれ。次に目を覚ました時も、教主様が叫ぼうとした。しかしその前に、今度は南極が、ガシッと教主様の肩を掴んだ。

「お、ち、つ、い、て!」
「は、はい!」

 南極の口元は柔和なのに、彼の目は笑っていない。その表情に、教主様が震える声で答えていた。すくみ上がっている。

「――俺は、東方東洋に来るのが久しぶりで人名語彙が……えっと、なんだっけ……あ! そうそう! 俺は、南極仙翁! よろしくね!」
「南極仙翁……」
「天数に従い、太鼎教主の和仙界作りを手伝うことにしたんだ。頑張ろう!」

 そう言って南極が手を差し出した。おそるおそると教主様が握り返す。はたからみていると、いじめられているおじいちゃんみたいだった。

「えっと太鼎教主は、天玄教の教えを広めるんだよね?」
「あ、ああ……」
「それで、天玄教を極めた者を仙人、仙人を目指す者を道士と呼ぶんだよね?」
「何故おぬしは私が定めた事柄を知っているのだ?」
「そういう基本的なことと、根幹理論の四行五術については、天帝に教えてもらったよ。太鼎教主が天帝に話したんでしょう?」
「天帝様に……しかし、あれは、夢では……」
「夢だったら俺が手伝いに来るわけないじゃん!」

 うろたえている教主様の前で、南極が楽しそうに笑った。

「まずは、仙人や道士が住んだり学んだり励んだりする場所を用意しないとね」
「それはそうだが……私の理論によれば、それは、この岩よりも下であってはならぬのだ。それでは不老不死には近づけぬ。寿命が延びねば、世界の理に近づくことは厳しい。それほどまでに、この世界と天玄教の学びは――」

 太鼎教主様が語り始めた。南極は腕を組んでいる。話が終わると、南極が言った。

「つまりここよりも高いところが良いって事?」
「まぁ要点はそれじゃ」
「うーん。ようするに、空の上なら良いんだよね?」
「簡単に言うが、空の上には、岩すらないのだ。ただ雲がたなびくばかりじゃ」
「え? そんなことないよ? ここから一番近い所に、俺の友達が住んでる。場所を貸してくれるか聞いてみよう!」

 南極はそう言うと、『爆雷雲』を呼びだした。広がった黄色い雲を、呆気にとられたような顔で教主様が見ている。南極がその上にのった。

「さ、教主も、早く」
「……」

 教主様は何も言わなかった。再び気を失っていたのだ。病気なのかな?

 二人が爆雷雲の上にのったのは、三十分後のことだった。

「まぁね。これまで、、教学理解を除けば……瞑想と呼吸法しかしてなかったんだろうけどさぁ――ちょっと驚きすぎだよ。君、教主様なんだから、もっと自信をもって! 堂々と!」
「う、うむ……」

 南極の腕を抱きしめながら、おじいちゃんがプルプルと震えている。
 その後、大きな本物の雲の合間を抜けると、正面に、俺も見たことのある和仙界の全体がみえた。空に、島のようなものが浮かんでいるのだ。

「さ、ついたよ。降りて!」

 南極は、島の一番上に行くと、教主様を雲から蹴り落とした。教主様が地面に激突した。南極が降りると、宝貝の雲は消えた。だが本物の雲は、周囲に存在したままだ。

「ここは、常世か……?」
「まぁ俺達は死んでないよね。ここ、借りられるか聞いてみよう」

 南極がそう言った時、教主様が、地面に指を置いた。そして土の上に文字を書き始めた。

『ここはあの世ではないという。ならば、物事の原初の地に違いない。この空に浮く島こそが、元始の存在を色濃く受け継いでいると考えられる。さて原初の浮島にきて思ったことは』

 と、書いたところで教主様が呟いた。

「ぐるぐるしているな」
「え? 何?」

 南極が視線を向ける。教主様は、自分の足下から眼前に広がっている、ぐるぐるとした道を見ていた。ぐるぐる山ほど規則正しく綺麗な円形ではないが、確かに鏡の中には、ぐるぐるとした坂道が広がっていた。そこは、山の一番上であるようだった。

「原初……ぐるぐる……山?」
「何言ってるの、太鼎教主。雲に酔った?」
「いや、ここを『原初ぐるぐる山』と名付けようかと思ってな」
「止めようか。何、ぐるぐるって。もうちょっと捻ろう」
「で、では、『原初の浮島』で」
「ああ、まぁ、それなら天帝も許してくれるかもね」

 二人がそんなやりとりをしていると、正面の宙に亀裂が走った。そこが硝子のようにひびわれると、黒い空間が現れた。南極はそちらを見て腕を組む。教主様は目を見開いていた。

 そして――土を靴で踏む音がした。亀裂が消滅したのと同時に、一人の少年とも青年ともつかない人物が出現したのだ。

 あ。師匠だ……!