それから俺は振り返って、扉の前に立った。
 今日はお休みをもらっているのだ。
 帰ろうと思い、俺は珈琲サーバーが置いてある補佐官室の方の扉に手をかけた。

「え?」

 そして扉を開けた瞬間、声を上げた。何人かが転ぶように中に入ってきたのだ。
 師匠にお別れを言いに来たのだろうか……?
 心配しているのか?

「あ、そ、その、あの……!」
「お、お待ち下さい万象院様!」
「万象院様、お願いがあります!」
「どうか、どうか!」

 見守っていると、誰かが台車を押してきた。
 そこにあるものをみて、俺は思わず目を伏せた。
 反射的に、ひきつった笑みを浮かべてしまった。

「お前ら、どうかし……」

 俺が瞼を開けた時、首を傾げながら慈覚様も扉の外を見た。
 そして彼もまた、ひきつった表情に変わった。

 それからすぐに、慈覚様もまた目を伏せて、険しい顔でこめかみを指で解しはじめた。

 俺と慈覚様が見てしまったものは、ものすごく大量の書類の山だったのだ……。

 考えてみれば師匠が入院している間、そして慈覚様が完全不在だった投開票日なども、普段通りの仕事はあったのだ……。その間に、溜まりに溜まってしまったのだろう。

「万象院様! 帰らないで下さい!」
「万象院様がおられなければ、我々だけでは過労死してしまいます!」

 涙混じりに引き留めにかった補佐官達。師匠はぼんやりとそれを見ている。特に嫌そうでもない。病み上がりには、とてもみえない。

 それから慈覚様が、あからさまに溜息をついた。

「とりあえずお前らは黙れ。まずはその仕事を片づける――森羅、悪いがもう少し手伝ってくれ」
「うん、良いけど」

 その時、補佐官室の扉が勢いよく開いた。
 視線を向けると、余裕そうな笑みを浮かべ、嫌味な顔をした唯乙様が中へ堂々と入ってきたところだった。

 何か用だろうか?
 首を捻っている俺達には構わず、まっすぐに唯乙様は、師匠の前に立った。
 慈覚様も含めて、とりあえず俺達は見守った。

「体調はもう良いのですか?」
「うん、まぁ」

 唯乙様は、師匠の声を聞くと満足そうに頷いた。それだけである。何をしに来たんだろう。特に用事は無いのだろうか。そう考えていると、慈覚様が言った。

「唯乙。今はお前の相手をしている時間は無いんだ」
「病み上がりの万象院様に手伝わせるなどとは、慈覚様もおちたものですね。ここでこそ私の出番!」

 唯乙様が、書類の山に振り返った。先程の話を聞いていたのかも知れない。

「しかたがないので、私が補佐して差し上げますよ! 新教主」

 その声に、慈覚様が小さく息を飲んだ。
 俺も、唯乙様が、『新教主』と呼ぶとは思わなかった。
 慈覚様は、驚いたように目を丸くしてから、静かに微笑んだ。

 ――それから再び、慈覚様が首を捻った。すぐに冷静さを取り戻したのだろう。

「唯乙、お前の仕事はどうしたんだ?」
「副教主様達に任せてきました。燈焔達は随分暇そうだったので」

 違いない。
 確かに彼らは暇そうだなと、俺は何となく思った。
 そんな俺の前で、唯乙様が余裕たっぷりに言う。

「これまでの私の仕事ぶりは、すでに教主の域を越えていたから、当然この程度の補佐はできる」

 それから早速唯乙様が仕事を引き受けてくれた。
 俺達は、最初は見守っていた。

 さすがは『第二総務』と呼ばれていただけはあり……俺個人としては、予想外でもあるが、唯乙様は仕事ができた。びっくりした。彼自身が、仕事をきちんとこなしていく。この人、仕事ができたんだな……。

 目の前で、すごく仕事が捗っている。
 しかし――俺達が見ている内に早速詰まった。
 手を止めた唯乙様は、すると師匠を見て笑った。

「万象院様……私の秘書官にしてあげても良いですよ」
「遠慮するよ」

 師匠が淡々とした声で即答し、首を振った。

 ――なお余談だが、これ以後唯乙様は、ものすごく沢山の仕事をしてくれるようになり、総務の要となっていく。

 さてその日、やっと俺と師匠は、久しぶりに二人で洞府に帰った。

 珍しく猫が俺に近寄ってきたので撫でた。
 俺の隣では、師匠が犬に餌を差し出している。

 それを見ながら、ふと思う。

 色々あったが、一番衝撃的だったことは、やっぱり師匠が仕事をしている姿だった。
 回想すると、その仕事ぶりに、改めて尊敬の念が浮かんでくる。

「師匠って仕事できたんだな」
「まぁ少しはね」
「明星宮から仕事を請け負わないのか?」
「たまに請け負う時もあるよ」
「もっと日常的に。南極みたいにさ」

 俺が言った時、猫が師匠の方へ走っていった。今度は師匠が猫を撫でる。

「南極は、軌道にのったら隠居するって言ってたぞ。その分、師匠が慈覚様を手伝ったら完璧だろ?」
「俺はもう隠居済みだからね」
「ひきこもってるよりは良いと思うけどな」
「――俺がいなくても明星宮は大丈夫だよ。現に上手くまわってるだろ」

 師匠は呟くように言った後、俺を見て微笑んだ。

「俺はね、ここで環の帰りを待ってるのが、一番幸せなんだよ」

 その言葉が、俺はとても嬉しかった。

 それから珈琲を飲みつつ選挙結果を思い出していた。

 ちなみに開票作業の結果、一位はダントツで慈覚様だった。
 当然と言えば当然かも知れない。これは俺が、慈覚様を応援していたから感じるのかもしれないが、誰よりもふさわしいと思うのだ。

 二位は燈焔様だった。副教主になると宣言してもなお、その得票数だったのだ。

 さらに三位は、太鼎教主様。続投希望である。
 これは俺も良いかなと思った。

 さて四位は南極だった。立候補してないのにな。

 ちなみに俺は、全員の投票数を見てきたのだが、『万象院』に結構票が入っていたのを見逃さなかった。絶対票を入れたのは、補佐官達だと思うんだよな。

 ――その後、これもまた余談であるが、俺はちょくちょく補佐官達に師匠のことを聞かれるようになった。時には仕事を手伝って欲しいから、呼び出してくれと懇願されたりするようになる。

 まぁなにはともあれ、無事に慈覚様は、新教主になったのだ。
 和仙界の新たなる歴史の幕開けだった。

 慈覚教主の誕生である。