最初に入ってきたのは師匠だった。クラクラしながら、俺は師匠を見ていた。

「慈覚」
「なんだ?」

 声をかけられた慈覚様が立ち上がる。
 師匠は、ポケットから鍵を取り出すと、それを慈覚様に渡した。

「悪いけど洞府に帰るね」

 師匠がそう言った時、慈覚様が目を細めた。

 ――ここにいる全員が、師匠の怪我は知っているのだ。

 だから帰るという言葉を素直に聞く気にはならない。
 そんなみんなの胸中を代弁するように、きっぱりと玉藍様が言う。

「いや、治療!」
「寝てれば治るよ」
「普通治らないの。仙気が強くて再生能力が高いんだとしても、医学的に手当てした方がすぐ治るの! 風邪薬と一緒! 飲まなくても治るけど、飲むともっと早く治るでしょ!」

 そのまま玉藍様は師匠の手を握った。強制的に連行しようとしている。医学広場へ行くのだろう。俺も追いかけよう。

 するとその時、玉藍様が扉を開けるよりも一歩早く、太鼎教主様が前に出た。

 師匠と玉藍様が、振り返る。
 教主様は、そばにいた唯乙様の頭に手をのせると、軽くお辞儀をさせた。
 そして自分自身でも深々とお辞儀をしていた。

「弟子をお救い頂き、感謝致します」

 その声に師匠が微笑した。
 俺の横でそれを見ていた南極もまた、苦笑している。

「さぁさぁ森羅達は行った行った! 教主は簡単に頭を下げない! 他のみんなは仕事に戻って! まだまだ後処理の途中でしょう!」

 パンパンと南極が手を叩くと、我に返って皆が作業に戻った。
 師匠と玉藍様が出て行く。
 そのまま太鼎教主様と南極も出て行った。

 見守っていると、立っている唯乙様に、慈覚様が静かに歩み寄った。
 それから周囲には聞こえないような小声で、水のように静かに慈覚様が告げた。

「映像宝貝で見ていた。確かに俺は、お前を許さないだろう」

 俯いた唯乙様が、視線を左右に動かしている。
 無力感に苛まれているような顔だった。

「でもな、無事に戻ってきてくれて嬉しいぞ。これは本心だ」

 その後、安堵の息をもらしてから、慈覚様が言った。
 呆れ混じりの声だったが、どことなく温かい。

 唯乙様が、虚をつかれたように目を見開く。

「よく帰ってきてくれたな」

 慈覚様はそう言って、唯乙様の肩を軽く叩くと、すぐに仕事に戻った。
 思考を切り替えたように、その場を仕切っていく。

 そんなこんなで底怪騒動は幕を閉じた。

 翌日の選挙当日も師匠は入院していた。

 俺はそばにいたかったが、自分に今できることは仕事だと気合いを入れ直して、最後まで頑張った。何せ今回は師匠も手伝ってくれたのだしな。無駄には出来ない。

 選挙当日は、最終演説と応援演説が行われた。

 まずは応援演説からで、例えば醒宝様は、いかに慈覚様がすぐれたお人柄かなどを語った。不思議と本音に聞こえた。俺もそう思っていたからかも知れない。慈覚様が優秀だと聞くと、納得してしまうのだ。

 さて最終演説では、候補者それぞれの演説があった。

 本日、唯乙様は辞退したためいない。
 なんと唯乙様は教主の座にはつかないと決めたらしい。

 そのため繰り上げで、最初の演説者は白夜様だった。俺はあんまり聞いていなかった。
 二番目は、燈焔様だった。
 こちらも俺はあんまり聞いていなかったのだが、最後の方になって耳を疑った。

「――と言うことで、僕は、慈覚様を支えて行きたいと思います。慈覚教主のもとで、副教主として、精一杯皆様のご期待に添いたいと考えています」

 最初は意味が分からなかった。
 副教主?
 そんな役職はないぞ……。

 名指しされている慈覚様を見ると、唖然としていた。

 燈焔様は、その後拍手喝采の中戻ってきた。

 続いて玉藍様が段上にあがる。
 玉藍様も、開口一番口にした。彼もまた慈覚様の名前を挙げたのだ。

「私も燈焔同様、慈覚様をお支えしたいと考えております。つまり――」

 副教主になるとは言わなかったが、玉藍様はその後医学の必要性についての持論を絡めつつ、和仙界の展望を語った。それから最後にはやはり、慈覚様が教主に相応しいと繰り返して終了した。力になりたい、支えたいのだと強調していた。

 玉藍様が戻ってくると、慈覚様が目を細めた。
 すると燈焔様と玉藍様が顔を見合わせてから、悪戯っぽく笑った。
 二人揃って、慈覚様を見ている。

「お前ら……」

 小声で慈覚様が呟いた。

「頑張れよ、トリだトリ! 僕は応援してるぞ、新教主!」
「私も応援してるよ、熱弁してね、慈覚教主!」

 二人の声援(?)を、嫌そうな顔で受けてから、呆れたように慈覚様が嘆息した。
 それから嬉しそうな表情に変わった。
 そして、自信に満ちた顔で、慈覚様が小さく笑った。

「ああ」

 頷いて、最後の慈覚様が段上に向かっていく。
 俺は、演説をする慈覚様を眺めていた。

 ――内容は何度も添削を手伝ったので知っている。
 だけど同じ内容なのに、慈覚様の水のような声できくと、不思議と心に染み入ってきたようにも思った。

 さて、このようにして、無事に選挙は終わったのだった。

 新教主様が正式に決まった二十七日、師匠が退院することになった。
 俺達は、これから一緒に帰る。
 玉藍様が本日までは絶対に入院しろと言っていたらしい。

 昨日、お見舞いに行った俺に、「もう平気なのに」と師匠が呟いていたのだが、俺は入院すべきだと主張した。あんなに大怪我だったんだからな。後一週間くらい入院していても良いかもしれない。

 珈琲サーバーを忘れたと師匠が言ったので、その後俺達は、補佐官室へと取りに行くことにした。まずは、慈覚様の執務室に入った。挨拶をすることにしたのだ。もうすぐこの部屋は慈覚様のものじゃなくなる。少なくとも、本年はもう見納めだ。

「もう良いのか?」

 視線をあげた慈覚様に対して、師匠が頷いた。

「うん。世話になったね。じゃあ俺は帰るよ」
「ああ」

 師匠の声にこたえてから、慈覚様が立ち上がった。そして小さく頭を下げた。

「その……助かった」

 素直なお礼の言葉に、俺は目を丸くする。すると師匠が小さく笑った。

「たまには弟子の尻ぬぐいをするのも悪くないよ」
「環が何かしたのか?」
「君のことだ」
「……今、弟子と言ったか……?」
「さぁ?」

 師匠のにこやかな顔を、慈覚様がじっと見た。
 その後、慈覚様は、穏やかに笑った。二人とも笑顔だ。珍しい。
 気心が知れたような笑みに見えた。

 確かに師匠は、慈覚様は弟子ではないと言うことが多い。だから弟子と言われて、慈覚様も嬉しかったのかもしれない。師匠は、本音ではいつだって、慈覚様を大切な弟子だと思っている気がするんだけど、師匠がそれを口にしたことがあるとは思えないのだ。慈覚様には、俺の口から教えてあげるべきだろうか。とりあえずそれは、新年に持ち越そう。