その時、唯乙様が目を覚ましたようだった。

「ここは……」

 呟いた唯乙様は、直後勢いよく起きあがり周囲を見回した。
 そしてあからさまに息を飲み、目を見開いた。

「その結界は?」
「陰陽結界だよ。無と障気への対応に特化してるんだ」
「さすがですね……」

 響いた声に俺は眉を顰めた。
 何をのんきに結界の話などしているのだ。

 だが俺の隣からは、燈焔様の感動したような声まで聞こえてきた。

「すげぇな。僕も実物を見るのは初めてだ」

 すごくどうでも良い。
 感激している場合ではないだろうが!

 俺が映像に視線を戻すと、淡々とした師匠の声が聞こえた。

「障気の単体防御では、君の手血には負けると思うけど。それなりの範囲に展開できるというメリットはあるよ」
「……! 私の血術をご存じなのですか?」
「君は太鼎教主の姪にそっくりだから」

 なんだその遠い関係……?
 俺は平然としている彼らの様子に、思わず溜息を漏らした。
 唯乙様は、驚いたように師匠を見ている。

「知っていたのですか……?」
「昔、彼はちょくちょく見に行っていたからね」
「仰る通り私は、教主様の妹の血を引いています。私の母は、教主様の実の姪だ」
「うん。そうみたいだね」
「ですが私は、和仙界では一度も血筋をあかしたことはなく、血術も極力使ってこなかった。今の地位にいるのは実力だ」

 睨むような顔で唯乙様が語っている。
 しかし師匠は興味がなさそうだった。唯乙様が黙ると、少しの間その場に沈黙が横たわった。それから、唯乙様が、少し困ったような顔で続けた。

「一度、貴方には直接聞いてみたいことがあったんです」
「なに?」
「何故貴方は、私ではなく奇染を弟子にしたのですか? 私のことを断ってまで」

 そんな話は聞いたことが無かったので、俺は驚いた。どういうことなんだろう。首を傾げていると、映像の向こうで師匠が静かに言った。

「奇染は寒そうだったから」
「寒い?」

 そう言えば、師匠は、あの日も言っていた。
 あの綿雪の日の出来事は混沌氏の領分だろうから、記憶が無いかもしれないけど。
 間違いなく俺のことも、寒そうだったと言っていた気がする。

 森羅様が弟子にする基準がよく分からない。
 少なくとも、現在の俺は、おさかな洞にいると温かい気持ちになる。

「……太鼎は、確かに俺に君を弟子にしてほしいと言って頭を下げたけど――彼に自分で育てたいんじゃないのかって聞いたら、否定しなかったよ」

 穏やかな声音で師匠が続けた。抑揚はないが、落ち着く声だ。

「君は紛れもなく太鼎の一番弟子だよ」

 小さな声だったが、師匠はきっぱりと断言した。すると少しの間、どこか泣きそうにも見える顔で、唯乙様が俯き目を伏せていた。それから目を開けると、唯乙様は唇の両端を持ち上げた。いつも通りの、余裕そうで嫌味な笑顔が浮かんでいる。

「……太鼎、太鼎と、教主様を気安く呼ばないで頂きたい!」

 師匠がその姿に吹き出すように笑ったのが分かった。
 その前で、唯乙様が続ける。

「しかしこのような事態を招くとは。民を守りたいと思ってここへ来たのに、貴方を巻き込んでしまった」

 手柄を立てたかったんじゃないんだろうか……?
 俺は半眼になった。

 唯乙様は、それから笑ったままで、顔を背けた。

「貴方の血術で、貴方単独であれば、ここからでも和仙界に帰ることが可能でしょう?」

 続いて響いた声に、俺は虚をつかれた。

 ――え? 師匠だけ? どういう意味だ?

 確かに師匠は瞬間移動ができる。時空間術を使える。
 しかし、あんなに遠方からでは、人を連れて移動することなんて、できないはずだ。
 だから、唯乙様は帰ってこられない。唯乙様はどうするつもりなんだ?

「私のことは気にせずおいていけ。私がいなくなれば、慈覚様も南極様も、せいせいするだろうしな」

 吐き捨てるように言い、唯乙様が嫌味に笑った。

 困惑して俺は、慈覚様を見た。
 慈覚様の表情は特に変わらなかったが、拳をギリギリと握っているのがわかった。
 苛立っているのが分かる。

 映像の中では、師匠が口を開いていた。

「慈覚はそんなことを思わないんじゃないかな。優しいから。きっと心配してるよ」
「貴方の心配をしているとは思う。頼んだわけではないが、貴方をここに連れてきた私を、慈覚様は許さないだろうな」
「そうかな?」

 師匠が首を傾げる気配がした。純粋に疑問そうな声だった。

「後、太鼎……教主様もきっと心配してるよ」
「本当に寛大で思慮深く優しいお方だからな。しかし私に心配される価値があるのだろうか」

 そう言うと、唯乙様が珍しく笑みを消した。
 いつも自信たっぷりだから、初めて見る憂鬱そうな表情に、驚いてしまう。

 すると師匠が呟いた。

「あ、南極がついたみたいだ」

 その声に、唯乙様が目を見開いた。

 明星宮にいる俺達の間にはざわめきが走る。
 確かに一大事なのに、南極がここにいない。気付かなかった!
 本来であれば、真っ先に顔を出すのは彼だ。

 映像の中では、唯乙様が何度も瞬きをしている。それから静かに確認した。

「……なんだって?」
「来る途中に、南極から伝信傍がきたんだよ。君を助けに行って欲しいって。ほら、これ」

 淡々と答えながら、師匠が巻物を見せている。
 唯乙様が、慌てたように内容を目で追っていく。

「丁度、俺もここについたところだったから、南極に迎えを頼んだんだ。その方が、安全だから。基本的に、俺と南極が揃っている場合は、片方は迎え担当で後から来ることにしてるのもあるけど」
「南極様が、私を助けるように、ですか……?」
「南極が他人を気にするのは珍しいよ」
「それだけ嫌いなんじゃ?」
「南極の持論は、好きと嫌いは紙一重、だった気がするけど」
「教主様に頼まれたんじゃないのか?」
「教主様は慈覚と一緒だったはずだから、この騒動を知らないよ。南極と違って、底怪の監視をしているわけでもないし」

 師匠がそう言った時、映像の上の方から、雲が降りてくるのがみえた。
 黄色い雲だ。
 南極の宝貝である『爆雷雲』だ。

 彼の宝貝も、師匠に負けず劣らず、変な名前のものが多い。
 それにのったまま、南極が笑顔で口を開いた。

「森羅、おまたせー。もう本当唯乙って最悪! 自分の力量わきまえろって感じ!」
「……申し訳ありません」

 驚いたような顔をした後、素直に唯乙様が頭を下げた。すると南極が眉間に皺をよせ、目は細めて、心底怪訝そうな顔をした。

「えっ、どうしたの? 打ち所が悪かったとか? しおらしい唯乙とか気持ち悪いよ!」
「うるさいな! 人が下手に出れば!」

 すぐに唯乙様が普段通りに戻った。
 南極は溜息をつきながら、唯乙様に対して、笑顔を向けた。
 ……イライラしているように見える。多分その理由は、心配からだろう。

「謝るんなら森羅にでしょ? ちゃんと謝ってお礼言った?」
「そ、それは……」
「あーあー、森羅もそんなに大怪我して」
「……え?」

 その声に唯乙様が声を上げた。

 俺も息を飲んだ。

 俺同様、気づいてなかった様子で、唯乙様は、映像の向こうで呆然としている。
 それから、はっきりと師匠の背中が映った。
 そこには、酸で溶けたような傷口があり、その中央からは血が溢れ出している。酷い怪我だ。俺は目の前が真っ白になった気がした。

「俺は平気だよ」
「はい、嘘!」
「このくらいどうということもないよ。障気の方が辛い。早く帰ろう」
「それもそうだね! 上にいた他の高仙は、もう酒鶴が避難させたよ」

 南極の声は普段通りで、怪我を気遣う様子はあまりない。
 師匠もいつも通りだった。
 それから彼ら三人は、雲にのった。

 そして映像が途切れた。

 明星宮に帰ってくるのだ。
 とりあえずそれが嬉しい。
 早く顔が見たい。顔を見るまでは、安心できない。

 そう考えながら帰りを待った。長く長く感じた。
 しばらくしてから――本部の扉がやっと開いた。
 三人が帰ってきたのだ。彼らの姿に、俺は安堵のあまり倒れそうになった。