慈覚様が戻ってきたのは、それから一時間も経たない内だった。燈焔様もいる。なんと太鼎教主様まで一緒だった。

 道中で慈覚様が指示をしていたらしく、続いて入ってきた黒耀様が、すぐに全体の情報をまとめはじめた。
 それから、玉藍様も顔を出した。彼の場合は、もしもの際に医療器具の準備をするから来たのだろう。

「状況は?」

 鋭い眼差しの慈覚様に俺は聞かれた。
 俺が唯乙様のことを説明すると、苦虫を噛み潰したような顔になった。

「唯乙は、竜胆の映像宝貝を持っていたはずだ。映してくれ」

 慈覚様の指示で、『暁』の対策本部の壁に映像が映し出された。
 唯乙様を中心に広範囲を映し出している。

 そこには底怪も映っていた。

 唯乙様は、焦ったような顔で、他の高仙達を、底怪から下がらせている。風で攻撃しつつ、一人で戦っていた。戦うと言うよりも、防御しているに等しい。攻撃を攻撃で受け止めているのだ。

 彼の頭上にも、底怪の姿が見える。
 もう少しで垂れてくる。
 黒い液状の底怪が、辺りを浸食しているのだ。

 ――唯乙様は頭上に気づいた様子がない。
 まずい。
 俺の頭の中で警告音が鳴り響いた。

「あ」

 思わずその時俺は声を上げた。
 映像の隅に、見知った顔が映ったからだ。
 ふらりと姿を現したのは、師匠だった。

 師匠は、常時とは色違いの、黒い道服を着ていた。下はいつもとかわらず黒だ。口布を引き上げている。これも黒い。

「なんで師匠が? 慈覚様、早く行かないと! 増援は?」
「今行っても、少なくとも唯乙の現状を打破することはできない。間に合わない」

 走り出そうとした俺の腕を、慈覚様が掴んだ。周囲が固唾を飲んで見守っている。
 燈焔様が眉を顰めて腕を組んでいた。
 黒耀様も動きを止めていた。

 その時、映像の向こうで、底怪が上から、したたりおちた。
 唯乙様が我に返ったように息を飲んでいる。
 頭上を見上げる彼の動作が非常に緩慢に思えた。

 刹那、その底怪が鎖でねじり上げられて、飛び散った。間一髪だった。

「強っ……」

 玉藍様が呆気にとられたように呟いた。

「結界から底怪の活動反応が消失しました」

 黒耀様が結界宝貝を確認しながら言った。

 ――師匠が倒したのだ。一撃だった。
 師匠は俺にくれた物とよく似た宝貝を持っていて、鎖をくるくると指で回している。

 辺りには底怪の残骸が、ドロドロしたまま飛び散っているようだった。
 驚いた顔の唯乙様の髪と頬も濡れている。
 師匠はと言えば、いつもの通りの無表情だ。

 終わった、のか?
 俺は安堵して気が抜けそうになった。
 その時だった。

「……まだだ」

 慈覚様がポツリと言った。

「結界」

 その直後、映像からそんな師匠の声が響いてきた。なんでだろう。もう底怪の反応はないのだが……そう思っていた時、突然唯乙様と師匠の足下が闇に飲まれた。

「え」
「底怪が地界の地面を浸食していて、それが消えたから溝が生まれたのか」

 息を飲んだ俺の横で、燈焔様が呟く。険しい声だった。
 慈覚様は目を細めて何も言わないが、驚いた様子はなかった。想定していたのだと思う。

 映像にはその後しばらく落下する場面が映っていた。
 そして、衝撃が走った後、一度暗くなった。何度か砂嵐が入り込んだ。

 映像が戻ると、辺りに砂埃が舞っていた。それが晴れていくと、白い砂山に抵触するように結界がはられていた。その上で、腰を打ち付けたらしい唯乙様が呻いていた。そのまま彼は、意識を失ったようだった。

 唯乙様の顔の両側に庇うように腕をつき、師匠が嘆息している。
 良かった、無事だった。
 師匠が起きあがり、少し離れた位置に座った。

 映像からは、はみ出していてよく見えない。

 結界の周囲には黒っぽい靄がみえる。障気だ……。
 もしかしなくても、二人がいるのは地界だ。
 それも底怪がやってくる地下だと分かった。

 嘘だろ。落ちたら……絶望的だと言われている場所だ。
 最初は事態が飲み込めなかったが、理解してすぐ、俺は体が震えた気がした。
 拳を握ってそれを制する。

「俺、助けに行ってくる!」
「待て」

 叫んだ俺を、慈覚様がとめた。しかし、俺には聞いている余裕が無かった。

「待てない」
「これは命令だ」
「そんな命令は聞けない!」
「環――俺だってあの二人を見殺しにしたくはない。俺だって駆けつけたいんだ。だが、俺達があそこに行って何ができる? 現実的に考えれば、俺達が到着する前にあの二人は死ぬ。いくら結界内でも障気の中では、限られた時間しか生存できない」
「……」

 そんなことは分かっていた。反論が見つからない。
 確かに、間に合わないだろう。
 仮に間に合ったとしても、出来ることはないかもしれない。

 だけど、何もせずにはいられない。
 このまま師匠達が死んでしまう姿なんて見ていたくはないのだ。

「森羅に賭けるしかない」

 慈覚様が冷静な声で言った。

「……え?」

 意味が分からないままで、俺は慈覚様を見た。
 すると慈覚様は映像へと視線を戻した。