こうして後は、師匠に手伝ってもらうことができず、残ってしまった仕事のみとなった。
 特に守秘義務があるものだ。
 他の全ては師匠に仕事を頼みまくり、なんとかなっていたのだったりする。

 今日は、慈覚様が遅れてくることになっていた。
 選挙のための街頭演説をしてから来るのだ。
 俺は補佐室で珈琲を飲んでいた。すると、囁き声が聞こえてきた。

「残りは全部補佐官の仕事で、閲覧制限と守秘義務がある仕事なんだよな。権限が無いと資料自体の閲覧も不可だし。頼みたいけど頼めない」
「でも全然終わる気配がない」
「分かる。全然終わらない。だけどこっちは……そうだよな……守秘義務もあるし、権限が無いと必要な資料自体の閲覧も不可なんだよな……。本当俺達詰んでるな。俺達こそが、慈覚様の足引っ張りそうだよな……」
「あの人なら、できそうじゃないか、この仕事」
「あの人って、森羅様か? そりゃそうだろうさ。でもあの人には権限が無いから見せられないだろ」

 補佐官達が切実に嘆いていた。
 そこに南極が入ってきた。
 明るい声で挨拶している。

 一同は身震いしていたが、職務の場では最敬礼をしないという暗黙の了解に従い、皆会釈をするだけにとどめた。

 南極は珈琲サーバーの前に立つと、笑顔で振り返った。

「権限ならあるよ。勿論、森羅に」

 彼はカップを傾けてから一息つく。その言葉に、周囲の視線が集まった。

「そもそも権限自体、森羅から他の人に、仕事割り振る時に決めたものだし」
「どういう意味だ?」

 歩み寄って俺は聞いた。
 恐らく室内の人々の気持ちを代弁していたと思う。
 南極は、俺を見ながら、穏やかな声で続けた。

「そもそもここの仕事は、もとをただせば、俺が森羅に押しつけ……手伝ってもらってた仕事だからね」

 周囲に困惑した空気が溢れかえった。誰かがポツリと聞く。

「あ、あの、南極様、森羅様とは一体何者なんですか……?」

 丁度その時、選挙事務所から醒宝様も顔を出した。

「久しぶりに若い者に、昔話でも、話してやるかのう」
「良いねぇ」

 南極が醒宝様に珈琲を淹れた。
 そして二人は、窓際にあるソファにそれぞれ座った。
 興味津々の様子で、高仙達が集まってくる。俺も視線を向けた。

 最初にカップを置き、語り出したのは醒宝老だった。

「ここ明星宮はのぅ、その昔『最上宮』と呼ばれておったのじゃよ」

 すると補佐官の一人が頷いた。

「存じております。現在でも、明星宮六階の、教主様の教主室や南極様の居室、天帝院がある区画は、『明星院・元始の間』とされていますが、それ以外の部分は、『最上宮・陰陽の間』として、『混沌院』が残っていますから。ご不在ですが、万象院様の居室だったとうかがっています」

 すると頷きながら南極が、カップを手に取る。

「別に今でも追い出してないから、居室のまんまなんだけどね。いないけどさ!」

 珈琲を飲み始めた南極には構わず、別の補佐官が言った。

「確か、教主様や南極様でも入ってはならないとか。天帝院には、祭祀で入れるにもかかわらず……混沌院は、混沌氏の領域だから足を踏み入れてはならない場所でもあると……混沌氏の守護により、前後左右上下その他の一切に、その『場』が属さないため、六階だけは四つの院区画の分類もないとか」

 それを聞くと、南極がカップを置いて頬杖をついた。

「混沌の守護は間違ってないんだけど……いやさぁ、教主が入ると、書類をめちゃくちゃにするから駄目って事。書類が混沌としてたんだ。あそこは迷宮のごとく仕事の山だったから、俺は近寄りたくないって意味で入れなかった。今は人がいないから用がないだけ」

 なんだそれは。俺は困惑しつつ腕を組んだ。するとまた別の補佐官が言う。

「……最上仙とは、『最上宮に仕えることが許された一部の高仙』が由来ですよね」

 その声に、カップを両手で持ち、醒宝老が微笑した。

「いかにも。だが正確には、『明星宮』とは『太鼎教主室』のことのみを、昔は指しておったのじゃ。他は全て『最上宮』じゃった」
「そうなんですか」

 誰かが相槌を打つ。

「万象院様の居室が、『最上宮・頂上』と呼ばれた、現在の混沌院じゃ。して今の、三階から五階まで――ここの古い名を知っているか?」

 知らないので、俺は首を傾げた。

「全ての院――即ち東西南北上下左右その他を含めた森羅万象の院。この和仙界の森羅万象の全てを司る場所。そう、森羅万象院じゃ。そこで『森羅万象院』というように、かの人は呼ばれるようになったのじゃ。元々は万象院は名前ではなかったのじゃが」
「いやぁ昔はさ、俺と森羅しかいなかったからね。教主はさぁ、まさに世捨て人だったから事務処理とかできないしね! 底怪退治とかは、教主は危ないから行かせられなかったしさぁ。だから基本的に二人でやってたんだよ。二人って言うか、俺の仕事だったんだけど、森羅にお願いしてたんだ」
「こんなに大量の仕事を二人で……」

 思わず俺は呟いた。いやむしろ、師匠一人で……?

「それを分業したのが、今の明星宮三・四・五階なんだよ。昔は勿論規模が小さかったけどね。それでも三つの階を全部森羅が一人で回してたんだ。ようするに今分業している仕事は、全部万象院……つまり森羅がやっていたんだよ。全体的な底怪の監視と警務だけは、当時は俺が引き受けていたけどね。まぁ今も昔も俺の仕事は、そんなに増えてない」
「ただのう、あんまりにも多忙だったゆえ、最上仙の育成が急務になったのじゃ」
「それで俺が提案して学校を作ったんだよ。それが『桃源仙道宮』だよ。ま、先生役も森羅に押しつけ……頼んだんだけどね! 俺もたまに教えに行ったよ! 本当だからね!」

 醒宝老と南極の言葉を、皆が信じられないという顔で聞いていた。
 それを聞いて、俺はポツリと呟いた。
 ――もしこれからも師匠が手伝ってくれるとするとすれば、だけど。

「それなら慈覚様が今の仕事から離れても大丈夫かも……」

 そこへ師匠が全員分のお茶を淹れて入ってきた。
 お昼に配られるお茶を用意してくれたのだ。
 すると周囲の顔色が変わった。

「ば、万象院様……! そのようなことは、なさらなくて結構です!」
「え?」

 訳が分かっていない様子で師匠が声を上げる。

「万象院様!」

 誰かが叫んだ。師匠は困惑したように首を捻っていた。

 その後、南極のおかげで権限があるとわかり、師匠は残りの仕事も頼まれるようになった。その結果、慈覚様不在時に行う予定だった仕事は全て完了した。なんと予定通りに終わったのだ。これは快挙だ。緊急で入ってくる仕事は一部の例外だが。

 俺は素直に師匠を尊敬した。
 師匠って、すごいんだな。まさか終わるとは思っていなかった。

 そんなこんなで、投票前日が訪れた。
 俺は午前中は、執務室にいる師匠の側にいた。
 慈覚様に報告するため、仕事の進捗情報をまとめていたのだ。

 扉が勢いよく開いたのはその時のことだった。

「大変です、人間界の集落に近接している地界に『第一級災害指定レベル』の底怪の出現が確認されました」

 書類を持って駆け込んできた先遣隊の高仙を見て、俺は息を飲んだ。

「見せて」

 師匠が資料を受け取る。隣からのぞき込むと、無非定型の底怪が出現していることが分かった。並んでいる情報から、これは慈覚様に早急に確認を取らなければならないと理解した。すぐに伝えなければならない。

 だが今は、慈覚様と燈焔様、それに黒耀様は明星宮にはいないのだ。
 本日は太鼎教主様の執務の手伝いをしているのだ。
 早く呼び戻さないと。手遅れになったら大変である。

「それが、唯乙様が高仙数人を連れて、すでに討伐に向かわれてしまっていて……」
「え?」

 響いた声に、俺は目を見開いた。確かに明星宮に残っている最上仙の中で、一番討伐する能力に長けているのは、唯乙様で間違いはない。だが、この規模のものに、高仙数人と最上仙一人で対処に当たるというのは本来あり得ない。それだけ自信があるんだろうけどな……。だがいくら聖四大仙だからといっても、無謀すぎる。

「止めたのですが……手柄を立てて教主に相応しいのは自分だと明らかにすると……」

 先遣隊の高仙が肩を落とした。

「なにやってんだよ……兎に角、俺は大至急慈覚様に連絡する」

 頭痛を覚えながら俺がそう言った時、ふと師匠がいなくなっていることに気づいた。
 見れば、興味なさそうな顔で、師匠が執務室から出て行くところだった。トイレだろうか。そのままふらっと師匠はいなくなってしまった。まぁ師匠には関係ないしな。特別事務官の職務には、無論底怪討伐など含まれない。

 その後俺は、情報を集められるだけ集めながら、慈覚様に連絡を取った。