十分はすぐに経った。俺達生徒は、きちんと開始前に着席した。戻ってきた先生が、黒板にチョークを走らせながら言う。

「もっともはじめ、そこは『無』だった。何もなかったんだ」

 この時点で、俺は混乱した。無?

「しかし無をよく見ると『混沌』があった。無の中に『混沌』が生まれたんだ。さて、誰が見たのか。目をこらした者、それが『天帝』だ。この時、『天帝』は自分が天帝であることを『認識』した。これが始まりだ」

 ……よく見たら、混沌というものがあったのなら、最初から『無』じゃなかったのでは……? 頭の中が、ぐるぐるしてきた。

「そして天帝は、気がついた。『神農』という存在が顕現していることに。『神農』は、天帝に『命名』と『天数』を教えた。そして混沌……即ち無秩序にも名前を付けた。それが、万物の在り方を示す『太極』だ」

 神農は、名前をつけるのが好きだとメモしておく。

「つまり、この世界は『無』から生まれたんだ。その『無』を基盤に、天帝が現在の世界を創ったとされている」

 現在の世界……じゃあ、前の世界もあったのだろうか?

「なお万物の起源については他にも諸説ある。ただこれが、共通している根本的な概念だ。洞府によっても教え方が異なる場合があるから、この『神仙』のお話は、簡単だが、ここまでとする」

 俺は狼狽えた。どこが簡単なんだろう。全然分からない。
 結局、『無』って、何だ?
 それに混沌? 混沌は人じゃないっていうことだろうか?
 さっぱり理解できない。

「よし、次からが、本格的に学ぶ部分だ。さて、俺達が暮らすこの和仙界は、上空に浮いている。どこの上空か、分かるか?」

 先生の言葉に、深愁が静かに答えた。

「日本列島の上です。雲の上」
「正解だ。よく予習してるな」

 褒められると深愁が、照れくさそうな顔で俯いた。

「日本列島とは、元々は、全てが『人間界』だった。しかし、『人間界の大厄災』が起きる。以来人が住むことが出来る土地は、一部となった。そこを現在では、居住可能な部分を、人間界と呼んでいる」

 まず俺は、『人間界の大厄災』と、ノートに書き記すことに注力した。意味は分からないが、きっとテストに出るからメモしておいた方が良い。

「それ以外の土地は、荒廃していて、常に白い雪のようなものが降り、粉で覆われている。そのため、それらの土地には、冬がやってきた――永遠に終わらない冬がやってきたと言われているんだ。これが、『永久の冬』だ」

 寒いのだろうか? ぼんやりとそう考えて、両腕で体を抱いた。ずっと冬ならば、寒そうだ。コートを着ていなければならないだろう。手袋も必要かな。

「その土地に人間が立ち入れば、『障気』に体を蝕まれて数分で死んでしまう。『障気』とは『仙気』の歪んだものだ。そのため、一般的な仙人や道士の場合は、長くいると精神を病む。自分の仙気が歪みの影響を受けるからだ。例外的に、強い力を持っていれば、はねのける者もいるけどな」

 障気という語も、テストに出るような気がする。先生は、大事なところに力を込めて話すから、すぐに予想できるのだ。

「さて、この白に覆われた土地を、『地界』と呼んでいる。その大地の下にあるものこそが、仙人や道士にとって、本当の脅威なんだ。地面の下に何がいるか知っているか?」

 先生が続いて尋ねると、今度は泰岳が答えた。

「『底怪』がいます。底怪は、地面の下から地界の上へと出現します。種類も大きさも様々で、中には知能を持つものや人型のものもいますが、基本的には思考しない存在です。生物とは異なるとされます」

 泰岳がよどみなく答えていく。一度も言葉に詰まることがない。

「古くは妖や鬼、化け物とも呼ばれました。地表に出現した後は、人間界や、和仙界を本能的に襲います。仙人や道士にとって、明確な脅威です」
「よく覚えているな。偉いぞ」

 先生が言うと、自信たっぷりに泰岳が笑った。俺は、全然分からない。今度予習しようかな……。

「仙人の基本使命は、四行五術をおさめる事にある。そして、『世界の理』を探求すること――要するに『万物の起源』などについて詳しく知ることが第一の義務だ。第二の義務、それこそが、『底怪』の排除だ。底怪を倒して、和仙界を守ることは、とても重要なことなんだぞ」

 倒すと言うことは、戦うのだろうか。底怪と戦うための方法を学ぶのかな。
 それが、四行五術なのだろうか?
 だけど俺はこれまで、四行は少なくとも生活を理解するために存在すると考えていた。

 卵焼きを思い出す。卵焼きと戦闘は結びつかない。

「そのために、定期的に仙人と道士は、力量を競いあう『鍛錬披露会』を行う。この大会で好成績を残したり、上位の仙人の目にとまると、仙人や高仙への近道となるんだ」

 俺は頑張って、師匠が戦っている姿を想像してみた。全くイメージがわかない。

「武力だけではなく、宝貝を披露したりもする」

 あ、そっちはなんとなく考えられる。メモを取りながら、俺は頷いた。

「鍛錬披露会では、仙人や道士が争うわけだが……基本的に、俺達の力は、底怪を倒すために使うべきなんだ。だけどな、嘗て、この和仙界で、人同士の戦いが起こった。それがこれから話す、本日最後になったが重要な出来事だ。俺達はそれを、『和仙事変』と呼んでいる」

 先生の顔が再び真剣なものになった。

「その昔、最上仙の一人に、兆越という仙人がいた。強い力の持ち主だった。大変優秀な仙人だったことは間違いない。ただし彼は、道を誤った。和仙界を自分のものにしようとしたんだ。のっとろうとしたわけだ。即ち、クーデターを起こしたんだ。兆越は、太鼎教主様を殺害しようとした。恐ろしいことだ」

 殺害という声に、身震いしそうになった。人を殺すのは、良くないことだ。俺は死にたくない。自分がされて嫌なことは、人にしてはならないのだ。それに、誰かがいなくなってしまうのは悲しい。例えば、俺は母さんが亡くなった時、とても悲しかった。

「しかし教主様の他、南極仙翁様、そして当時の実力ある仙人達がそれを撃退したと言われている。これが、『和仙事変』だ。その後、兆越は和仙界から逃亡した。現在、居場所は定かではないが、生存していると考えられる」

 教主様が無事で良かった。だけど、怖いことをする人は、今もどこかで息を潜めているのだろうか。じゃあ、運が悪ければ、学校帰りにばったり会ってしまうこともあるのだろうか……。そうしたら、どうすればいいんだろう? 下校する時は、俺はひとりきりなのだ。一人じゃ、何もできない。師匠が気づいて駆けつけてくれるとも限らないし。

「今後も彼は、和仙界を狙う可能性が高い。危険人物だ。だから、接触があっても、必ず逃げること。彼は、同胞を殺すことにためらいがないからな。そして、無事に逃げた後は、必ず近くの仙人にそれを報告するんだ。これが和仙界の規則だ」

 俺は大きく、『とりあえず逃げる!』と書いておいた。
 それにしても――仙人同士の戦いなんて、想像しただけでも怖い。
 午前中の社会の授業はこうして終わった。俺達は、みんなで昼食をとった。

 その数日後、俺達は宿題の成果を発表することになった。
 俺が写真を沢山貼った巨大な模造紙を黒板に貼ると、皆が目を丸くした。気分が良い。 他のみんなは、以前聞いた通りで、洞府の歴史を発表していた。だが俺は結局、おさかな洞の歴史は、分からなかった。だから、洞府の周囲の自然について話したりした。

「実に面白い発表だったな。みんな、拍手だ」

 先生がそう言って、俺の頭を撫でてくれた。
 胸がじわりと温かくなる。

 授業が終わると、泰岳が改めて発表の紙を覗き込んできた。

「これ、お前が描いたのか?」
「違う。カメラで写真をとったんだ」

 俺がそう言って笑うと、泰岳は不思議そうに写真を見ていた。
 すると深愁も歩み寄ってきた。朱李は先に帰ったから、ここにはいない。

「それって、宝貝?」
「そんな感じだって師匠は言ってたな」
「すごいね。初めて見た。光の屈折を……レンズを用意して……」

 深愁がカメラの作りを喋り始めた。見たこともないのに、すごいな。
 そう考えていたら、深愁が我に返ったように息を飲んだ。それから、困ったような顔で俯いた。少し頬が赤い。

「ごめん俺、宝貝が好きで……」
「それって良いことだろ? 格好良いじゃん」

 なぜ謝るんだろう? 不思議に思いながら俺が言うと、彼は悲しそうな顔になった。

「でも師匠は、体術を磨けっていうから……」
「黒耀様は、和仙界でも一番の体術の使い手だからな」

 納得したように泰岳が呟く。黒耀様は深愁の師匠だ。色々難しいんだな。

「それに……時生先生に設計図を見せたら、先生が明星宮に問い合わせてくれたんだけど……」
「何を問い合わせたんだ?」

 首を傾げた俺を、深愁がちらりと見た。

「俺の理論を実現できるか。そうしたらね――」

 俺は深愁の言葉の続きを待った。

「万象院様が見てくれたんだって。理論は完璧だし、実現可能だって言ってもらえたんだ。でも……」
「すごいだろ、それ!」

 教科書を記した人は、生きているんだな。まあ仙人は不老長寿だと聞いているから、当然かもしれないけど。なんとなく実際に存在することに驚いてしまった。

「俺も感動したけど――注意書きがあったんだ」
「なんて書いてあったんだ?」
「『これは、人を殺戮する兵器になりえる。人を殺す兵器を製作することに何の意味があるのか?』って。実現は出来るけど、実現する意味が分からないって。確かに、底怪向けじゃないし……俺も正直、思いついた宝貝を、この目で見たかっただけだから……そこまで考えてなかったんだ……」

 あんまりにも悲しそうに深愁が言うものだから、俺は腕を組んで目を細めた。

「見てみたいって言う理由じゃ駄目なのか?」
「え?」
「別に、兵器を作ったって、使う訳じゃないだろ?」
「も、勿論! そ、そっか。そうだよね」

 瞬きをしてから、深愁が満面の笑みを浮かべた。

「有難う」

 特別なことを言ったつもりはないから、俺はとりあえず頷いておいた。
 泰岳はそんな俺達のやりとりを静かに聞いている。

 それからみんなで校門まで歩き、別れてから帰路についた。

 いつも通りの距離に戻った坂をのぼりながら、俺は、宿題の発表が成功したことに満足していた。師匠にも報告して、褒めてもらおう!
 段々学校も楽しくなってきた。毎日が、面白い。