さてその後、慈覚様と醒宝老の打ち合わせに、俺は同席することになった。

 臨時の選挙事務所は、補佐官室の前方のスペースに設置されている。
 元々ここは補佐官室の小会議スペースだ。
 囲いを立てて、そこを事務所代わりにしているのである。

 事務所には醒宝老の穏やかな顔があった。
 好々爺の正面に座る俺達には、執務室への扉と、珈琲サーバーがよく見えた。

 慈覚様が座ったまま会釈したのは、俺が全員の前に緑茶を置いた時だった。

「この度は引き受けて頂き、本当に恐縮です」
「いやなに、わしにとっては慈覚は可愛い弟弟子じゃ。森羅様に教えを請うたわれらじゃ。そう気を遣わなくて良い」
「温かいお言葉、感謝します」
「わしも耄碌したじじいじゃから、上手いことは言えぬかもしれんががんばるとしよう」
「耄碌だなんてとんでもない」

 大体二人は、このやりとりから打ち合わせを始める。正直聞きあきた。だが、こういう時、いつになく慈覚様はおだやかな表情をしているのだ。なんだかこの二人は、和やかな関係を築いている気がした。

 それから本格的に打ち合わせが始まった。
 後は夕方までずっと打ち合わせだ。
 夕方になったら、続いて南極と打ち合わせがある。そちらは選挙の仕事ではないが。

 しばらく時間が流れ、俺は二度ほどお茶のおかわりをいれた。
 その途中から、俺は慈覚様の視線が、補佐官室から見える執務室の扉付近に、度々向いていることに気がついていた。何度も扉が開閉している。それを俺まで見てしまった。

 勿論、出てきているのは師匠だ。一時間半に一回くらいは出てきている気がする。そしてゆったりと立ったまま珈琲を飲んで、暫く師匠は窓の外を見ているのだ。

 この忙しい時に何をやってるんだよ……。休憩入れすぎだろ。

 それでも今は、醒宝老と慈覚様は打ち合わせ中なので、まず俺は必死にそっちを耳に入れた。メモしていく。だが、気にならないと言えば嘘だった。だからやっぱり見てしまう。

 それを繰り返していると、朗らかな声が聞こえてきた。
 南極が勢いよく入ってきたのだ。

「森羅! 来てるって本当だったんだね! あ、珈琲! ずるい! 俺にも珈琲頂戴」

 一瞬、南極の姿に補佐官室は静まりかえった。だが、皆作業に集中するように視線を背けていた。珈琲サーバー前で、師匠は小首を傾げている。師匠が南極にカップを渡した。

「やっぱり美味しいね!」

 南極は、少し早く来すぎだと思う。まだ約束の時間までには大分ある。
 それから師匠が執務室に戻る気配はなくなり、南極はそんな師匠にあれやこれ後話しかけていた。師匠と南極が働いている気配は、本当にゼロだ……。慈覚様も同じ思いだったようで、意識が次第にそちらへ向かっていくのが分かる。

「慈覚よ。わしは暇な身じゃ。明日も明後日もここにおる。折角じゃ、森羅様に声をかけてきてはどうじゃ? わしも後ほどうかがいたいと思っておる」

 醒宝老の言葉で、こちらの会談は、その日は終了となった。
 醒宝様の気遣いが有難い。
 慈覚様が恩にきるという顔で深々と頭を下げていた。

 確かに師匠が仕事をしていないとなれば、放っておいたら明星宮は破滅するしな。

 すぐに仕切られたブースから出て、慈覚様が目を細めながら歩いていった。まっすぐに二人の方へと向かっていく。

「あれ、慈覚、もう終わったの? 早くない?」

 南極様の声に、慈覚様が笑った。呆れたような顔をして笑ったのだ。あきらかに……キレぎみだと分かる。怖い笑みだ。慈覚様の姿に気づいた師匠は、新しい珈琲も淹れ始めた。いや、師匠、気を遣うべきはそこではない。慈覚様の怒りに気づけ!

「森羅、どこまでやったんだ?」

 明らかに棘がある声で慈覚様が尋ねた。イライラしているのがはっきりと分かった。

「終わったのか?」

 慈覚様の容赦ない言葉に、周囲の面々が視線を彷徨わせる。あの量を終わらせるのは無理に等しいからな……。できていない以上、休む暇があるなら仕事をしろという声が響くのだと誰もが理解していた。しかし。

「うん、終わったよ」

 返ってきた淡々とした言葉に、慈覚様も含めて皆が虚をつかれた。え?

 それから気をとりなおした様子で、慈覚様が真剣な顔になった。
 今度は仕事に集中する眼差しだった。
 冷静に進捗を確認しようとする声が響く。

「どこまで終わった?」
「与えられた分は、全部終わったよ。それから珈琲を飲んで、関連の仕事もやっておいた。関連分はリストにはなかったけど、多分いるはずだ。今日の分は終わりかな」
「全部……だと……?」

 驚愕したように呟いて、慈覚様が執務室へと足早に向かった。
 補佐官も何人か、ついていく。

 中から「すごい」という声が響いてきたのはすぐのことだ。
 本当に終わっていたらしい。
 だが、あの短時間で? 物理的に無理だ。

 そう考えて俺はハッとした。
 なるほど、おさかな洞の地下鍛錬場のように、時間を止めて仕事をしたんだろう。

 その後補佐室には、『流石は特別事務官として任命された最上仙だけはある。やり手ですごい』という評価が巻き起こった。これならば、慈覚様がいない時であっても、なんとか仕事をこなせるかも知れないということで、志気が高まったのだった。

 そんなこんなで、俺と師匠は、毎朝そろって明星宮に出かけることとなった。
 師匠と通勤をするというのは、なんだか不思議な気持ちだった。
 新鮮でちょっと楽しい。

 本日は、慈覚様が討論会のためにいない。
 補佐官を数人連れて行った。代わりに、俺はこちらでの業務を命じられた。外に出なくとも、選挙運動の仕事は山ほどある。演説文の添削とかな。

 さてこの日も、朝、師匠は大量の山を渡されて、執務室に消えた。次に師匠が執務室から出てきたのは、一時間後だった。珍しく腕を伸ばして、体のこりをほぐしている。

 それを眺めていると、斜め前のデスクから、チラチラと師匠に対して視線を向けている人物の存在に気がついた。何気なくそれを見守っていると、俺とその補佐官の目があった。彼は俺に歩みより、書類を見せてきた。

「これ、分かりますか?」

 並んでいたのは、各種の統計表だった。これは全く俺には分からない。俺は算数は得意じゃないのだ。すると溜息をつかれた。

「秘書官様も分からないのか……」

 うなだれた後彼は、再び師匠をチラチラと見た。
 師匠は執務室に戻っていくところだった。

「我々では分からない、しかし今、慈覚様に聞きに行くわけには……」

 納得して俺は、手を叩いた。

「師匠に聞いてみるか? まぁ、分からないかもだけど」

 俺が言うと補佐官が勢いよく立ち上がった。

「お願いします!」

 そこで俺は、執務室の扉の前でノックした。「師匠、入るぞ」と声をかけて、返事をきく前に中へと進んだ。

「どうかしたの?」

 師匠はいつも通りの表情で、仕事の山に紙をのせていた。
 まだ午前中だが、本日の仕事は全て終わってしまったらしかった。
 俺は座っている師匠に向かい、資料を差し出した。

「ちょっとこれ見てくれ。分かるか?」
「ああ、分かるよ。そこに置いて」

 師匠が頷いて、何でもないというような顔で机を示す。流石は師匠だな……。
 その時、ついてきた補佐官が一歩前へと出た。

「急ぎなんです……なんとかすぐにご判断いただけませんか?」

 補佐官は粘った。一見気弱そうだが、譲らないところは譲らない人なのだろう。師匠は少し考えるような目をした後、瞬きをしてから、ゆっくりと手を差し出した。

「見せて下さい」

 敬語だった。師匠ってやっぱり初対面に近い相手には敬語が多いよな。
 その後、羽ペンを走らせた師匠は、スラスラと達筆な文字を綴っていった。
 結果数分で、その仕事は完了した。

「ありがとうございました!」

 書類を受け取り出て行った補佐官が、感動した顔をしていた。キラキラした彼の目を、俺は忘れられなくなった。気持ちが分かるからだ。慈覚様には急だと言っても、数時間は待たせられるからな……。

 なおそれ以降、補佐官達は師匠に仕事をさらに多く渡すようになった。
 師匠にできそうなことは、ほぼ全て割り振っていた。

 その翌日は、俺も慈覚様に伴い、瞠若山の外へと出た。
 許仙住宅街などで演説を行ったり、各洞府をまわったりしたのだ。

 一度それから俺達は明星宮に戻った。

 するとその日も、師匠はとっくに自分の仕事を終えていた。

 遅れることを予測して仕事量と時間を調節していたはずなのだが、全てスケジュール通りに進んでいるから、師匠の請け負う仕事は、本日で終了だ。後は慈覚様に代わりサインをする仕事しか残っていないだろう。無論、慈覚様本人がサインしなければならないものは、慈覚が今日も処理して帰るのだが。慈覚様がサインしているのを見守り、珈琲を出そうかなと俺は思った。

 師匠は、自分の作業が終わっているため、守秘義務に抵触しない部分だけ抜き出した形で補佐官が行う質問に答えていた。師匠は一応選挙の投開票日までは特別事務官だ。だから補佐官達は、師匠に手伝ってもらう権利がある。

 翌日は、午前中が『和仙界の人材育成〜学校教育の在り方〜』がテーマの討論会だった。これは最近竜胆様が開発した『開眼窓』という巨大モニター型宝貝で、会場を閲覧できるようになっていた。各地で放送される。撮影が行われるのは学校だ。映像が記録に残る。そのためか本日は秘書官としてついていく必要はなくなった。

 さてこの日師匠は、補佐官室にカップを持って立っていた。呼ばれる度に、質問に答えに行っている。補佐官だけでも可能な仕事なのだが、いつもは慈覚様に相談しつつこなしている。そららに対して、慈覚様の代わりに相談にのっているらしい。

 繰り返すが、本来であれば補佐官だけで、可能な仕事である。

 だが分からないから聞かなければならず、今までは慈覚様に聞いていたのだ。
 しかしそれは、慈覚しか把握している者がいなかったからだ。本来分かる者がいるのであれば、補佐官だけで解決して良い部類の仕事なのである。

 師匠の手伝いで、着々とそれらは終わっていった。

 その日の仕事も順調に回ったのである。
 本日は慈覚様は忙しすぎて顔を出すことすら無かった。