朝起きると、犬は、リビングのソファの上で寝ていた。俺の部屋には別に来なかった。
 ちなみに猫が俺の部屋に来たことは一度もない。俺も動物は嫌いじゃないんだけどな。
 猫は師匠の部屋にばっかり行くのだ。可愛くないよな。

 翌日は、窓の外に、濃い灰色の曇天が広がっていた。

 お昼過ぎにブランチを食べた。

 最近の休日は、師匠は俺のことを起こさず、ゆっくりと眠らせくれる。
 師匠は食事の時間も、いつも俺にあわせてくれる。
 二人で食べ終わってから、俺はソファに座って、犬を一瞥した。

 師匠が珈琲を淹れて戻ってきた。カップを置き、師匠が座ろうとしている。

 その時――なぜなのか、俺は立ち上がっていた。
 え、なんで?
 自分の行動がよく分からない。気づくと俺は立ち上がっていたのだ。

「環?」

 師匠が首を傾げている。俺は、その真正面に立っていた。

「コソコソせずに出てまいれ、混沌よ」

 そこに、苛立つような『俺』の声が響いた。
 ――は?
 俺は内心で呆気にとられた。

 師匠は目を瞠ってから、首を傾げた。
 その前で、『俺』の声は続く。かなり不機嫌そうだった。

「余は憤懣やるかたない」
「……環?」

 師匠が困惑したように『俺』を見ている。

 その時、『俺』が、両頬を持ち上げた。俺の目が、忌々しいものを見るように、細くなっているのが自覚できた。

 いいや、これは――俺じゃない。
 俺は悟った。理解した。
 これは、『天帝』だ。

「貴様がそのつもりならば、余にも考えがある。その『人』の体、無事ですむと思うなよ」

 人……?
 なんとなくそれが師匠のことだと分かった。
 おいおいおい、師匠に何するつもりだよ!

 俺は自分の体が、師匠に詰めよるのを見た。
 師匠は呆然としたように『俺』を見上げている。

「環……?」

 師匠が、後退った。驚愕の色が師匠の瞳に宿っていた。
 そして内心、俺も驚いていた。唖然としてしまう。しかし声を上げようと試みた。

 ――やめろ、俺の体で何をしてるんだよ!

 思わず頭の中で叫ぶ。しかし俺の体は自由にならない。
 『天帝』は師匠の首元の服をねじるようにして引き寄せると、睨め付けるような目をした。そのまま口元だけで笑っている。俺を見て呆気にとられた様子だった師匠が、それから首を傾げた。

「え……?」
「余の名は天帝である。本当に、忘れているのか? 白々しいことだ」

 そのまま師匠の服ごと、天帝が首を片手で絞めた。苦しそうに呻いて、師匠が両手を当てている。驚愕した様子の師匠は、動かない。むしろ動けないようだった。天帝はもう一方の手で、師匠の顎を掴んだ。苦しそうな顔に、辛そうな瞳をしている師匠は、苦痛からなのか僅かに目を潤ませた。ぎりぎりと強い力が、『俺』の手にこもっていくのが分かる。

 ――ちょっと待て、本当に止めろよ。師匠を離せ!

 師匠も師匠でふりほどけばいいのに!
 俺より体術が得意だろ!

『無駄だ。この体を、こやつが傷を付けられるわけがない』

 天帝の笑い声が脳裏に響いてくる。思わず息を飲んだ時、師匠ががくりと崩れ落ちた。慌てて俺は腕を伸ばす。今度は俺の意志の通りに体が動いた。俺は抱き留めた師匠を見る。俺の腕の中で、師匠は完全に意識を喪失している。そんな師匠をゆっくりとソファに横たえて、俺はじっと見た。呼吸はある。って、何でこんな事を。俺は頭痛を覚えた。

 その時、再び『俺』の体を使って『天帝』が口を開いた。

「ようやく出てまいったか、混沌よ」

 どういう意味だろうかと考えた時、俺はすぐ後ろに立っている相手に気がついた。
 ――気配など、まるでなかった。
 狼狽えて振り返る。

「……え?」

 今度は俺の声が出た。驚きすぎていたからかも知れない。体の統制権が一時的に戻ったのだ。そこには、一人の少年が立っていた。俺は、大きく瞬きをした。

「師匠……?」

 俺は首を捻った。そこにいるのは、確かに子供なのだが、師匠にうり二つの少年だったのだ。俺が困惑していると、再び『天帝』が喋った。

「戻るが良い、混沌よ」
「どうして?」
「……どうしてだと?」
「天帝は僕がいなくても別に寂しくないと言っていた。僕は君の隣にずっといるのは、退屈だから、一緒にいたいわけじゃない。双方の見解は一致している。互いに互いが不要だ。だから僕は人の世に遊びに来た。それの何がいけないの?」
「混沌よ。人間など――」
「くだらないと思っているんなら、天帝は早く帰ればいいよ。僕はしばらくここにいる」

 淡々とした声だった。気弱そうな声なのに、芯が強そうな印象を与える。様々な感情が、複雑に混じり合っているような、独特の声だ。一言で評するならば、ふてぶてしい感じだ。

 もしかしてこの少年は……混沌氏なのだろうか?
 師匠から天帝が分離させた神格なのか……?

「いかにも」

 天帝が俺の疑問に、頷いた。勿論俺の口で。
 俺が呆気にとられていたその時、不意に混沌氏が走り出した。え?
 呆然としていると、そのまま走って、混沌氏は洞府を出て行ってしまった。

 は? どこにいったんだよ? っていうか、どこに今までいたんだよ?

「恐らくは、そこの人間の中だ」
「師匠の中?」
「追うぞ」

 俺の口が動く。独り言みたいで嫌だった。

「なぁ、天帝。混沌氏と師匠がわかれられるんなら、お前も俺の外に出られないのか?」
「勿論余にも出来る」

 その時、犬が喋った。俺は目を見開いた。
 俺の内側からは、天帝の気配が確かに消えていた。
 どういうことだ?

「ここに来る時も、こやつを使った」
「え、犬の中身は?」
「余は全ての存在の中にある。よってこの霊獣もまた余だ。安心するが良い、本能は残っている」

 本能? 俺は首を捻った。すると子犬が、俺に突進してきた。

「わ、待て、お、お座り!」

 瞬間、天帝が入った犬が、座った。座ったのだ。

「……うわぁ」

 犬の本能というか、これは……師匠が行ったしつけが完全に身に付いている。

「なにをする」

 天帝の不機嫌そうな声が響く。犬の口から出るのは、声変わり前の俺の声だ。
 なんでだよ……。

「とにかく追うのだ。この姿では遅い。さっさと余に触れさせよ」

 そう言うと、天帝が、俺の足に顔をくっつけた。
 すると周囲に煙がもれた。今度は何だというのか。
 目を細めて見守っていると、もやが晴れて、そこに一人の子供が現れた。

 その姿を見て、俺は思わずポカンとした。立っていた少年は、見覚えがありすぎる顔だったのだ。髪と目こそ茶色くて俺とは違うが、それ以外はどこをどう見ても、俺だ。学校入学当初くらいの外見の、俺だったのだ! 幼き日の俺の姿が、そこにはある。

「良し。行くぞ」
「なにも良くないだろ。全然わかんないからな!」
「少し仙気を借りたのだ。行き先は分かっている。明星宮だ。早くしろ。おいていくぞ」

 そう言って天帝が走り出した。
 しかたがないので、慌てて俺は追いかけることにしたのだった。