ダージリンの入るカップを傾けた。師匠を見ると、窓の前に立って激しい雨を眺めている。今日は、雨だ。久しぶりに雪ではない。物思いにふけるような師匠の、ガラスに映った顔を見る。何を見てるんだろうな。疑問に思っていると、師匠が窓を開けた。床が少し雨で濡れる。

「何やってるんだ、師匠」
「霊獣が来てる」
「霊獣?」
「おいで」

 師匠はそう言うと、屈んで手を伸ばした。ほぼ同時に、室内へと灰色のかたまりが入ってきた。驚いて目をこらすと、それが震えて、辺りに水が跳んだ。そこにいたのは、両手の上にのってしまいそうなほど、小さい猫だった。仔猫は、師匠の足に顔をすりつけている。

「和仙界にも猫っているんだな」
「猫型の霊獣だよ――二行・火風」

 師匠が窓を閉めてからそう言って呟くと、周囲が温かくなった。猫の毛が乾いて、ふわふわの姿になる。師匠は仔猫を抱き上げて、俺の隣に戻ってきた。

「珍しいね。灰色だよ」
「そうなのか?」
「灰色の霊獣はね、混沌氏の象徴とされているんだ。灰色は、太極図の白と黒を混ぜ合わせた色だからね、滅多に現れないんだよ」

 知らなかった。俺は、静かに頷いた。
 師匠は猫を膝に乗せると、顎の下を撫でている。
 猫は、気持ち良さそうに師匠に顔をくっつけていた。

「アメショに似てるけど、少し毛が長いかな。でも長毛種という感じではないし」
「アメショ?」

 師匠の言葉に首を傾げた。すると、師匠が誤魔化すように笑った。

「アメショって何だったかな……ただ確か、この模様の猫はトラ猫と言うんだよ。灰色でもトラ猫っていうのかな。普通は茶色いんだよね」

 アメショについては説明してくれなかったが、多分種類のことを言っていたのだと思う。猫の種類なのか霊獣の種類なのかは分からないけどな。指先で猫をくすぐっていた師匠が、不意に顔を上げた。

「環も猫が好きなんだよね?」
「俺『も』ってどういう意味だ?」
「小さい頃に、猫が見たいって言ってたから。有象無象図から出したよね?」
「まぁ、嫌いじゃないけどな。師匠『も』好きって意味か?」
「別にそういうわけじゃないけど。環が好きなら、飼おうかなと思って」
「飼いたいのか?」
「環が飼いたいんなら」
「俺は別にどっちでも良いぞ」

 俺が答えると、師匠が猫を撫でながら言いよどんだ。
 師匠……絶対飼いたいんだろうな。なんで正直に言わないんだよ。
 その時俺は、ちょっと意地の悪い気持ちになった。

「掃除も大変だし、世話も大変だし、飼わない方が良いかもな」

 すると師匠が俯いた。無表情だが、飼いたいという意志が伝わってくる。言葉を探している様子だ。

「まぁ雨の中放り出すのも可哀想だし泊めても良いけど」

 俺が言うと、師匠が顔を上げた。心なしか嬉しそうだ。俺は思わず溜息をついた。俺の意地悪の限界である。

「――俺に断らずに、飼いたいんなら、飼えば良いだろ?」
「ペットを飼うのは、家族に相談してからじゃないとね」

 家族、と、なにげなく師匠が言った。
 だが俺は、初めて直接言われたので、心が温かくなった。

 翌日、俺は仕事で南極の居室に向かった。
 俺は一人で移動する時は、あまりエレベーターを使わない。

 なんとなく階段を下りていき、ふと俺は五階で立ち止まった。

 ここは、『明星宮あかつきの間』だ。

 東と西の各院、南北の院が広がっている。
 左手前方が東院への入り口、奥が西院への入り口、右手全体が南北院と呼ばれているのだ。南北院には人気がない。ここは普段は無人の、十二玉仙の居室なのだ。休憩時間や泊まり込みの場合に使われているらしい。三大老と慈覚様の部屋が心なしか大きい気がする。

 まぁ泊まり込む事があるのは慈覚様くらいだろうしな。
 大きくても許せる。三大老は別格だと言われているし。

 なお、慈覚様は他の補佐官達には絶対に泊まるのを許さない。時間内に可能な限り終わらせるようにと言う指示を出しているのだ。その方が能率が良いらしい。それでも残っている高仙は多いけどな。いなければならない空気はないが、慈覚様を見ていると、自分も頑張ろうという気になってしまうのだ……。

 さて東院は、『暁の東』と呼ばれている。

 底怪対策本部の事である。代表最上仙は、慈覚様だ。先遣隊や討伐隊は基本的にここに所属している。常時は情報収集や監視、結界構築、知見整理などを行っているのだ。

 ちなみに副代表は燈焔様だ。
 だが実際に代表をしているのは、黒耀様のようなものである。

 勿論、特に難しい底怪対策や総合判断は慈覚様が行っていて、討伐隊の代表は燈焔様がしている事が多い。けれど圧倒的に奥の場合、現地に出向いて対策に当たっているのは、黒耀様だといえる。黒耀様の肩書きは、事務官だ。

 他にも、最上仙以上は無条件で、ここに在籍することになっている。
 教主様と南極、三大老は名誉顧問の位置づけで、基本的には討伐に出ないが。
 玉藍様などの研究職の最上仙も基本的には討伐には出ない。

 ここには、俺もちょくちょく顔を出すので、少しは知識がある。

 次が西院……ここはあまり来たことがない。
 聖四大仙の一人である、竜胆様が代表を務める『砦の西』と呼ばれる部署だ。
 宝貝総合本部である。

 噂では、竜胆様は変わった宝貝ばかりを作っているらしい。けれどこの部署は主要業務としては、基本的には汎用宝貝などを作っているはずだ。底怪対策に特化した宝貝も多いらしい。
 各洞府で作られた宝貝を登録申請することも出来る。オリジナル宝貝は、必ずしも登録しなくても良いのだが、登録すると表彰されることがある。鍛錬披露会で披露したものは自動的に登録されるそうだ。
 また仙人や道士は宝貝の試作案を提出して、作成可能か否かを、検討してもらうこともできる。昔深愁が宝貝を見てもらったのもここのはずだ。少なくとも経由はしたはずだ。

 なんでも武器宝貝に関しては、竜胆様お一人の判断ではなく、『元始の間』……ようするに、六階にいる南極や教主様の判断を仰ぐらしい。多分深愁の時は、南極が受け取って、師匠に相談したのだろう。南極は、守秘義務って言葉を知らないのだろうか。師匠には閲覧権限が無いと思うんだけどな。

 そのまま降りて、俺はいつものフロアに戻った。

 さて、俺が日々勤務しているのは、『明星宮たかさごの間』だ。
 通称『四階』である。
 ワンフロアを慈覚様が使っている。それだけ仕事が多いんだよな……。

 ここも東西南北の四区画に別れているのだが、上下左右の院名で呼ばれることが多い。

 まずは東院――上院だ。『上の高砂』と呼ばれている。
 もっと簡単に『高砂』と呼ばれることが多い、『明星宮総務部』がある。
 ここにある慈覚様の執務室に、基本的に俺は勤務している。

 高砂の仕事内容は、もう『慈覚様の全執務及びその補佐』とでも言うしかない。
 『総務部』の他に、慈覚様の『補佐官室』と『資料室』が存在する。
 一応、総務部の代表最上仙が慈覚様だ。兼任しているのである。

 実質、明星宮の首脳部である。

 勿論、重要事項は、六階の『元始の間』で南極や教主様の判断で決められたり、定期的に開催される『十二玉仙会議』で話し合われたりもするのだが、それ以外の大半は、ここで決定されている。ものすごく忙しいのだ。

 次に忙しいのは西院――下院だ。
 『下の光陽』と呼ばれている、『明星宮管理部』だ。
 ここが明星宮の、事務方のTOPだ。この部署の代表最上仙も慈覚様だ。

 管理部は、具体的なことを何でもやる部署だ。勤務する高仙達や地域の仙道の衣食住の管理や発注までしている。洞府で用意せず、ここに依頼している仙人も多い。その他、勤務している高仙達の給料管理、和仙界全体の通貨管理、明星宮の支出管理、会議などの議事録管理、つとめる高仙達の人員管理、明星宮の施設管理、品物管理、その他の雑務だ。学校への指示もここが行っているという。視察も多い。ようするに、総務部が決定した事を含めて実行したり管理したりする部署だ。『なんでも部』と呼ばれることもある。

 続いて、通路を挟む。南と北、つまり左と右の院がある。

 南院が、左院だ。『左の陸歴』と呼ばれているのが、『明星宮観測部』である。ここでは和仙界の風土の記録、災害対策、疫病監視、暦の管理、天体観測などが行われている。異常があった時のみ慈覚様への報告がある。後は、半年に一度、『総括』がまとめられて慈覚様に提出される。自然災害も疫病も、俺が働きだしてからは一度も何も起きていない。だっていつも初夏だしな。

 ちなみに特徴的なのは、四階北院――右院だ。『右の花織』は、『明星宮警務部』を指す。ここは、和仙界の正義の味方だ。悪事を取り締まったりしている。事務官が任命されていて、五格下の白夜様が務めている。ちなみに俺は、白夜様とは一度も話したことがない。見かけたことしかない。なぜなら白夜様は、普段は瞠若山警邏洞の警察署にいるからだ。そちらの警察署から資料があがってきて、罪が重いものに関して、代表最上仙の慈覚様が判断を下す。それから南極に相談するのだ。

 こう考えると、結構南極も仕事をしているんだな。

 南極がいるのは、六階にある『明星宮元始の間宵の院』だ。『南極府』と呼ばれている。南極の居室全体の事である。南極はそこに住んでいるのだ。
 ちなみに教主様は、瞠若山太鼎府に住んでいる。

 六階だけは、四区画には分けられていない。
 通称『教主室』は、『元始の間・明の院』が正式名称だ。
 その階には他に、『天帝院』がある。天帝院は、天帝を奉っているそうで、祭祀官の一族の他は、祭祀の日に、教主様と南極が入ることを許されているだけらしい。基本的に立ち入り禁止だ。

 なお、その他の場所は、『最上宮・陰陽の間』と呼ばれていて『混沌院』があるらしい。しかしそちらは、教主様や南極でさえも立ち入り禁止らしい。絶対不可侵の場所だそうだ。混沌氏の領域だといわれている。誰もいないらしい。人影を見たという噂を、時折耳にするけどな。

 混沌か……師匠なら何か知っているのだろうか。

 ちなみに陰陽の間は、六階の四分の三を占めている。かなり広い範囲が、教主様でさえ、立ち入り禁止なのだ。その上、入り口がどこにあるのかも俺は知らない。

 さて『南極府』では、人事と裁判が主に行われている。
 明星宮全体の人事異動などを管理しているのだ。後は警務部からあがってきた案件の判断も行っている。南極が基本的に処理しているわけだが、仕事を手伝う多数の事務官がいる。手伝うと言うよりも、南極から分担して請け負っている感じだ。皆、十二玉仙以外の最上仙だ。一部は高仙だけどな。
 時には、太鼎教主様が仕事内容に口を挟む場合もあるという。なぜここが、そういった仕事や判断をしているかというと、迷った時に『天数』を閲覧できるからだ。
 一番の仕事は『天数観測』なのである。
 他には、外交も取り仕切っているらしく、『華仙界』や『西方西洋』という詳細不明の他の大陸上空界の動向を窺っていたりするらしい。

 西方は、確か、仙人宗以外の教えが広まっているらしいのだが、詳しいことは知らない。
 和仙界や華仙界が属するのは『仙人界』と呼ばれている。こちらの総称が『東方東洋』だ。

 それからしばらく仕事をしていると、三階に用事が出来た。
 唯乙様のところへ、慈覚様の代理として、書簡を届けに行くことになったのだ。公的な代理だから、秘書官である俺が行かなければならない。一応、おつかいとは違うのだ。