俺は――あの日の出来事は誰にも話していない。
 それに天帝が時計の針を戻したから、誰も覚えていないはずだ。

 勿論、師匠も雪が降ったことを、覚えていなかった。なのに、どうして南極は知っているんだろう?

「それに天帝も意地が悪いよね。混沌の弟子になる、なんてさ」
「俺は、天帝じゃない」
「天帝じゃないというより、森羅の弟子としての記憶と意識が前面に出ているだけだよ。なにせ天帝は全ての人間でもあるし、誰でもない。まぁ君のように、実際に体を同じくする機会に恵まれる人間なんてほとんどいないけどね。違う人格だから、別個のものと言っても差し支えはないだろうけど」

 南極はそう口にすると、目を伏せて笑った。俺は慌てて伝えた。

「師匠も、もう混沌氏じゃないんだ」
「確かに神格は分離して見えるね」
「どうして南極にはそんなことが分かるんだ?」
「俺はね、この森羅の弟子の弟子の名前を『借り受ける』前は、また別の名前を名乗っていたんだよ。それも借り物だけどね。その頃の俺のひとつの名前は、神農だった」
「え」
「天帝や混沌に能力は劣るけど、これでも一応神様なんだよ」

 俺は呆気にとられた。すると南極が喉で笑う。

「だけど、森羅には、本当に記憶が無いのかな?」
「え?」
「あえて封じている可能性はあるけどね。天帝の時間操作に便乗して。森羅の血術は、時空間術だったなぁ」
「どういう意味だ?」
「森羅は、本当に賭けに負けたのかな」

 楽しそうな南極の顔を見る。すると彼は一冊の本を手に取った。

「それにしても混沌って、天帝のことを友人だと思ってたんだね」

 南極の手には、『友人を泣き落としする台詞ランキング』という本があった。
 俺は背筋が寒くなった。

 その本は、師匠が以前読んでいたものだ。
 確か――『行きつく先が違う』というようなことが書いてあった本だ。
 どこかで聞いた台詞である……。

 俺が天帝だったあの日、師匠は俺が初めて見る泣き顔を盛大に振りまいていた。しかも普段は口にしないような感情的な言葉を吐露していた。だから俺は動揺していたのだ。心が揺さぶられたのだ。まさか師匠があんな風に泣くとは思わなかったからだ。

 だけど、え、ま、まさか……?
 あれらは……泣き落しだったのだろうか?

「結果的に見れば、混沌の大切なものは、何一つ失われていないよね」
「でも混沌氏の神格が分離したんだろ……?」
「それって、森羅にとって必要不可欠で大切なものだったのかな? いらなかったんじゃない、別に」

 悪戯っぽく南極が笑う。俺は全身に汗をかいていた。体の奥深いところで、『天帝』の意志が驚愕したように声を上げている気がする。それを無理矢理押さえ込んだ。

「天帝はね、いつも賭けを持ちかけるんだ。理由が分かる?」
「なんで?」
「一度も混沌に勝ったことがないからだよ。勝つまでやるんだって。今回の賭けは、正確に言えば『愛の喪失をもって、感情を教えること』だから。愛の象徴である環を喪失していない以上、混沌は賭けに負けたとは言えない。ただ、天帝も負けたわけじゃない。今回に限ってはね。混沌に愛を気づかせたんだからさ」

 それから南極は腕を組んだ。俺をじっと見ている。

「でも、やっぱり天帝の負けかなぁ。気づかせたのは、『環』を含めた周囲だしね。人間だ。例えば、兆越だって森羅に愛を気づかせた重要な一人だしね」

 その言葉に、俺は天帝が語った言葉を思い出した。

「兆越って、俺の父親なのか?」
「そうだよ。君と兆越の瞳血はまったく同じものだし、外見もよく似てる」
「でも俺を拾ったのは偶然だって……」
「今思えば、俺さえも無意識に、天帝に選ばされたんだろうけどね。瞳血は、幻術を効果的に使用できると同時に、真実を見通すこともできる。だから兆越は、君が天帝だと気づいたんだよ」
「でも師匠は、俺が兆越の子供だって知らなかったみたいだった」
「知らなかったんじゃない? 森羅って、あんまり親子とか血縁っていうものに興味を持っていないみたいだし。俺は少なくとも聞かれたことがないよ」

 何となく腑に落ちない。それでもやっぱり師匠は一枚上手だと感じた。知っていたような気がするのだ。直感だけどな!

「それより、おつかいの最中でしょう? 早く戻らないと慈覚に怒られるんじゃない?」
「あ、ああ。そうだった」

 思い出して俺は書簡を渡した。すると受け取りながら南極が微笑する。

「太鼎教主や奇染が心配していた残り時間は終わってしまったけど、続けて時が刻まれることになって良かったよ。天帝の時計は今でも新しい時を刻んでいるんだからね。天帝が創っていたパズルは完成したけど、世界はまだ、続いている。この世界は続いていくんだ」

 パチンと頭の中で、ピースがはまる音がした。
 時計の針の音も響いた気がする。
 だから俺は目を伏せて微笑した。

「かもな。じゃあ行く。またな!」
「うん、いつでもおいで。環なら大歓迎だよ。天帝は微妙なところだけど」

 手を振る南極に頷いてから、俺は彼の居室を後にした。

 回廊を歩きながら外を眺める。ここから見える景色は初夏のものだが、ぐるぐる山はもう真冬に近い。
 今年は雪が降るのが早かったのだ。天帝事件があった翌週には、本物の雪が降ったのだ。綿雪ではなくて、みぞれに近かったけど。

 ちなみに今日は、俺の誕生日でもある。
 久しぶりに写真でも撮ろうかな。
 何かを記念に残したい。新しい世界が訪れた記念だ。

 その日仕事を終えて洞府に戻ると、師匠は氷柱を眺めていた。

「おかえり。今日は鍋だよ」
「ケーキは?」
「勿論あるよ」

 当然だという顔で、師匠が頷く。胸がくすぐったい。

 それから中へと入り、俺達は食事にした。鍋は体が温まる。美味しいなと思っていると、師匠が壁際を一瞥した。昔から気になっている、何かを隠すような壁紙の真正面に、『それ』は置いてある。

「そうだ、プレゼントなんだけど」
「オルガン? だっけ?」

 師匠の娯楽部屋で似たようなものを見たことがある。それが置いてあった。言われるまで、あえて見ないようにしていたし、言葉にも出さなかった。俺は大人だ。

「そう。正確には、『玄都楽』っていう宝貝なんだけど。頭の中で、歌詞とか曲とかの一部を考えると、中途半端なところは補完して、実際に再現して奏でてくれるんだ。あんまり環は芸術に興味が無いみたいだから、良い機会かと思って。弾いてみて」

 確かに興味は無かったが、俺は試しに鍵盤の前に座った。
 指を置くと、勝手に曲が流れ始めた。いつかこんな夢を見たことがある気もする。
 俺が奏でられる音に満足していると、師匠が呟いた。

「随分と下手くそなラブソングだね」
「うるさいな。これでいいんだよ」
「振られちゃうよ?」
「相手は俺のこと、大好きだから問題ない」
「そんな相手がいるんだ」
「おう、目の前にいるだろ」
「……? 幻覚?」

 俺は脱力した。

「違う。大体このラブはだな、恋じゃないんだよ。愛なんだよ。博愛、敬愛、そういうの!」
「ああ、駄目だね、君が振られる未来しか見えない。そんな言い訳をしているんじゃね」
「師匠は全然分かってないな!」
「君よりは物事を上手く捉えられると思うんだけど」
「そりゃあ、気のせいだな!」

 その日は夜更けまで、洞府にオルガンの奏でる音が響き渡った。あれこれと駄目出ししながらも、俺の演奏に師匠は付き合ってくれた。降りしきる雪の中にあるのに、おさかな洞は温かかった。