すると急に、視界と世界が変わった。
 まるで、はじめて師匠と出会ったあの日に、術でぐるぐる山へと移動した時と、同じような感覚だった。俺はリビングにいて、膝を組んで座っていた。正面では、師匠が、声を押し殺して、泣いている。俺の前に立って、泣いているのだ。

「俺は、一人だったんだね。結局の所は。今までも、これからもずっと」

 自戒するように師匠が呟いた。
 ――違う。師匠は一人じゃない、一人に何かさせない。
 そう言おうとしたのに、声が出ない。

「なのに環に会えなくなることがこんなにも辛いなんて、酷い話だよね。寂しいな」

 会えなくなることなんて、俺は認めない。師匠に寂しい思いなんて、絶対にさせない。

「やっぱり俺には愛なんて似合わなかったんだってよく分かったよ。俺が一番求めていたのは、孤独なんだろうな。悲しむのも笑うのも何もかも、一人。理想的だ」

 師匠は嘘つきだ。
 本当は、愛に憧れていたくせに。孤独が嫌いなくせに。
 今の俺には、それがよく分かる。

 孤独を理解して傷つくのを怖がっているだけじゃないか。
 だったら――だから、そうだよ、俺がずっと側にいてやる!
 一刻も早く、そう伝えなければ!

 だというのに……何で俺の声は出ないんだよ。体も動かないし。これじゃ駄目なんだ。俺は、怖がってる師匠を慰めたいのに。

 後は、師匠がこっちに気づいてくれるのを、待つしかない。
 こっちへ来いと、俺は念じた。
 後一歩、師匠が踏み出してくれれば、届く距離なのだ。

 俺がそう思った時、師匠が不意に顔を上げた。俺を見ている。頬には涙の線が幾重にも連なっている。涙で滲む瞳をしていた師匠は、それから息を飲んだ。ボロボロと涙がこぼれ落ちていく。

「環……?」

 師匠は、そう言うと俺の頬に触れた。すると、体が楽になった。俺は、反射的に師匠の腕を引っ張っていた。驚いたように、師匠が目を見開いたのが分かる。俺はその背中に腕を回して無理矢理抱きしめた。

「ああ、そうだよ、俺だよ」
「本当に――」
「本当に俺だ。本物の俺だ。天帝に消えろってわめいて殺す気で刃向かった。天帝が死んだ気は、何となくしないけど、とりあえずいなくなった。もういない。大丈夫だ。消えた!」

 俺の言葉に、師匠が顔を上げようとした。だから今度はその後頭部に片手を回して身動きを封じる。久しぶりに師匠に抱きついてしまった。腕の中の温もりが、大切で仕方がない。

「俺は、全然分かってなかったんだな」
「環?」
「こんなに一緒にいたのにな。ずっと一緒にいたのにな。分かってやれなくてごめんな」

 俺はずっと、師匠は強いと思っていた。実際強いのかも知れないけど、本当は弱い部分だってあるのだ。泣きたい時だってあるはずなのだ。なのに俺は、見ないふりをしてきた。いつも師匠に支えてもらっていたのに、自分が支える事なんて考えてみたこともなかった。本当、俺って馬鹿だな。

「――他者が他者を理解する事なんて不可能だ」

 師匠が困惑したように、そんなことを言った。素直じゃない。俺は溜息をつきそうになった。気付かなかった俺も悪いけど、本音を隠す師匠も悪いに違いない。俺は頭が悪いから、言葉ではっきり言ってもらわないと困るのだ。でも、これだけは分かる。

 師匠は今、本当は理解してもらいたがってる。だから、俺は苦笑してみせた。

「だとしても、それでも俺は分かってやりたいんだよ」
「環……君は、この世界をどう思う? 残酷なんだよ」
「師匠、俺はこの世界が好きだよ。だから俺は絶対消したりしない。俺は、天帝であったのかもしれないけど、今、俺は師匠の弟子だし、師匠は師匠だと思ってるぞ。そして師匠に愛が似合わないなんて事はない。みんな、師匠のこと大好きなんだからな!」

 俺は師匠を抱きしめる両腕に力を込めなおした。

「俺だって師匠のことがちゃんと本当に好きだ。敬愛してる。こういうのって、師弟愛とか言うんだろ? 俺はもう、ただの環だ。どこにも行かないし、この気持ちを損なわせたりしない。愛を認める。愛はちゃんと、師匠に似つかわしいものだって、認める。それが俺だ。師匠のことをちゃんと見てる。だから師匠もちゃんと俺を見てくれよ」

 俺は必死で告げた。多分上手い言葉じゃなかったけど、本気で話した。本気でそう思っている。胸の内をぶちまけたのだ。

 すると師匠が、曖昧に頷いてから、呟くように言った。

「有難う……それと、離してもらっても良いかな?」
「あ、悪い」

 一気に羞恥がこみ上げてきて、俺は腕を放した。師匠は、体を起こしながら、俺をじっと見ている。そして涙をぬぐってから、薄く笑った。穏やかな表情だった。俺の大好きな笑顔だ。いつもの笑みだった。

「良かった。環が死んじゃったと思ったら、涙が止まらなくてね」
「俺は生きてるよ。消えたのは、天帝だけだ」
「天帝……? 何の話? さっきも言ってたけど、もしかして、錯乱してるの?」
「――は?」
「心臓が止まってたから、後遺症かな? 玉藍にも見てもらった方が良いよね。俺だけじゃ不安だし」
「待ってくれ。俺は普通だ。心臓が止まってた……?」
「うん。俺が貰った日記帳を開いたら、ばったりと椅子の上で動かなくなったんだよ」
「え。もしかして……夢か?」
「どんな夢を見てたの?」
「その……俺が実は、天帝――」

 言いかけた時、スキンと頭痛がした。そして頭の中に、直接声が聞こえた。

『――混沌は貰った。すでにその人間には、混沌としての神格はない。動きを止めた時計を直した時に、日記を見る前に時間を戻した。混沌の能力が消えることはないが、余と話した記憶はもはやない。残念ながら、こちらが分離する際には、貴様にまで余の……「天帝」の能力がうつってしまったことは癪だが。だが、決してこれは、貴様が見たただの夢ではない』

 俺は、ポカンとしてしまった。
 そんな俺をのぞき込んでいる師匠は、心底安堵したというような顔をしている。
 いや、それって……ちょっと待って欲しい。

 ということは、である。
 俺は何も覚えていない師匠を抱きしめて、『愛』が云々と口走ったのか……?

「師匠、待って……! なんで泣いてたんだ? それに、愛とか孤独とかって……?」
「だから、君が死んじゃったと思ったから……」
「それだけ?」
「それだけって、どれだけ心配したと思ってるんだ」

 なんということだ……。恥ずかしくて、俺は顔から火が出そうになってしまった。

「師匠、やっぱりさっきの無しで!」
「さっきのって、どれ?」
「だから……あ、いや……やっぱり、今の方を無しで」
「は?」
「俺は、あー、だから、ずっと師匠のそばにいるからな! 心配しなくていいからな!」

 ――そうだった。俺はこれから、師匠のことをもっと分かりたいと思っていたのだった。支えたいのだ。それを偽るのは、良くないよな。この気持ちは変わらない。

 すると、頭の中で笑い声が聞こえた気がした。
 その時、天帝の気配が去ろうとしているのを感じた。

 あ、待って!

 俺は心の中で呟いた。

『なんだ?』

 ――混沌によろしくな!

 心の中でそう告げて、思わずニヤリとしてみた。頬を持ち上げる。
 すると喉で笑う気配がして、天帝の気配が消えた。体が完全に自由になった。

「何笑ってるの? 環、やっぱり玉藍を呼ぶよ」
「平気平気。いやぁ、今日は良い天気だな」
「だから、宝貝が壊れたから、外には雪が降ってるんだよ――あれ、気配がしない。ん、待って。雪なんて降ってたっけ? この季節に?」
「さぁな。ま、降ってたとしても、明日になれば、どうせ消えるだろ。明日は一日休みだし。積もったとしても、俺が片付けてやるからさ!」
「そうだね、確かに休みだけど。君は、安静にするべきだ」

 このようにして、俺達の日常は戻ってきた。