だけど俺の意思とは無関係に体は動いているから、天帝の声が終わることはない。

「貴様の弟子は二人とも愚かだ」
「どういう意味?」
「奇染と言ったな。余は、あの者に、貴様の『環』に対する愛情を調べさせたのだ。両手を切るとは思い切った判断をしたな。あの時貴様が冷静さを欠かなければ、あるいは違った結末もあったのかも知れぬ」

 それを聞いた師匠は、悲しそうに俯くと、懐中時計を取り出した。
 ――針の音がしない。時計の針が止まっていた。
 もう、人に許された時間はないということなのだろう。

「賭けは、余の勝ちだ。混沌よ、貴様に救いなど無い」

 響く俺の口を借りた天帝の言葉に、息ができなくなりそうになった。

 ――これ以上、師匠を苦しませるなよ。

 俺は怒りで頭が痛くなった。
 そう考えているのに、やっぱり俺の顔は笑っているのだ。
 天帝は笑っているのだ。

 師匠が小さく震えた。それから、顔を上げた。涙が零れるのが見えた。俺は、初めて師匠が泣いている姿を見た。こんな風に、悲しそうな顔の師匠を見たのは初めてだった。

「ああ、そうかもしれないね……だけどね、天帝」
「なんだ?」

 問いかけた天帝に向かい、師匠は泣きながら笑った。

「俺は、賭けに負けたのかも知れない。でもね、俺はそれでも、環に救われたから。俺の世界は救われたんだよ」

 俺はもう聞いていられなかった。

 ――天帝のことが許せない。

 ふざけるなよ。何考えてるんだよ。これ以上師匠を泣かせるなよ。言いたいことが山ほどある。俺は認めない、こんなのが神だなんて認めない。

 これが、天帝? 馬鹿げてる、こんな存在いらない。天帝なんかいらない。天帝こそが消えてしまえばいいんだ。師匠を泣かせるなんて、最低だ!

 その時、俺の視界がぶれた。ついに、世界が闇に飲み込まれてしまったのだ。
 それから時間の感覚が曖昧になった後、気づくと俺は、真っ暗な空間にいた。
 ――ここは、どこだ?

「形をなくした混沌が覆ったもうじき無になる世界だ」

 見ると正面には、『俺』がいた。いいや、違う。『天帝』が立っていた。呆れたように、俺を見て目を細めている。

「しかし、余が消えればいいと考えるとは、愚かだな。余が消えれば、貴様も消えるのだぞ。正気か?」

 天帝の言葉に、俺は拳を握った。
 瞬時に俺は理解した。
 天帝がわざわざ俺の前に立った理由を。

 そうか、そうだ、『俺』も『天帝』なのだ。ようするに俺は、天帝と同じように、『現実を創りかえる』ことが出来るのだ。俺には、天帝を消してしまう事ができるはずだ。だが、その天帝は――師匠に酷いことを言った天帝は、紛れもなく『俺』なのだ。

「そうだ。余は、貴様だ」

 その言葉に、思わず笑ってしまい、俺は首を振った。不意に感じたのだ。やっぱり違う。

「いや、お前なんか俺じゃないな。お前に師匠の何が分かるって言うんだよ」
「余は、全てを知っている」
「嘘だな。だったら、こんなことできるはずがない」
「どういう意味だ?」
「ただ師匠を苦しめてるだけだろ。それが楽しいだなんて、おかしい」
「別に楽しいと思っているわけではない」
「じゃあ、何であんなに嬉しそうに笑ってたんだよ」

 目の奥が熱い。特に右目の奥が。

 俺は周囲を見上げた。
 そこは、縦長の窓が並ぶ他は、闇しかない場所だった。天井も床も壁も何も見えない。
 ただ窓だけあるのだ。

 まるい窓の枠も黒い。窓でさえも、闇に同化している。
 他の色はといえば、その窓越しに、外の世界の青空や、木々の葉が見えるだけだ。
 それらの風景さえも、作り物みたいだ。

 俺は、この風景を見たことがある気がした。
 そうだ、いつか……『永久の冬』が来る前の世界で。
 そして、この世界に生まれてからも。

「余はこの失敗した世界を終わらせるつもりだ」
「師匠はどうなるんだよ?」
「世界を覆った混沌は、じきに神格のみとなる。無論それは、貴様の師ではない。余が混沌の弟子ではないように」
「俺はそんなの認めない。俺は師匠の弟子だ。この世界は失敗なんかじゃない」

 ここでならば、俺は自分の思い通りのことができる。そう確信して、手に仙気をこめた。短剣が現れたのはすぐのことだった。いつか奇染に、突きつけらたものと同じイメージだ。実際に目にしたことがあったから、すぐに『創り出すことができた』のだ。

「それが、貴様の答えか。もう一度問う。余を消せば、貴様は消えるのだぞ。正気か?」

 俺は、迷わなかった。迷わず、自分と同じ顔をした相手を、突き刺した。

「お前なんかいらないんだよ! 師匠を悲しませていたのが俺ならば、俺はここで終わらせる。終わらせてやるよ」

 叫ぶように言って、俺は睨んだ。

 殺めるという意識は無かったし、自分が消えるということもあまりよく理解できてはいなかったけれど。世界の終りも、泣いていた師匠のことも、見過ごせなかった。俺はただ、短剣の柄を握り締めた時、これで突き刺せば『すべてが元通りに戻る』と確信していた。俺は、そのように『現実を創り変えられる』――いいや、『戻すことができる』と、なぜなのか知っていた。

 さらに手に力を込める。

 瞬間、周囲の闇に線が走った。目をこらすと、パズルピースの外郭で構成されているように見えた。闇自体が、黒いパズルに酷似していたのだ。

「賭けをしたって言ってたな? 師匠に愛を気づかせる賭けだっけ? 何でそんなに上目線なんだよ。師匠は誰よりも、もう知ってる。変わるべきなのは、天帝、お前の方だ。そして、それは――俺なんだろ」
「余の変化など関係ない。混沌は、この世界の終焉と新たな世界の開始を望んでいるのだ」
「終わらせたりしない」
「混沌が、辛い現実の続行を望むと本当に思っているのか? 意識上はともかく、深層心理において、それはあり得ない。混沌は破壊と再生を必ず望む。この世界の継続を望むはずがない」
「師匠がそれを望んでいないって言うんなら――その考えは俺が捨てさせる。俺が変えてやる」
「その結果が、どうなるか責任を持てるのか?」
「その結果? そんなの知るか! 世界は、人生は、結局は、一度きりなんだぞ! それを忘れたふりをして笑うな! お前には、師匠の人生に影響する権利なんか無いんだよ!」
「世界は何度でも創造できる」
「俺はこの世界が好きだ。なにより師匠がいるこの世界が大好きなんだ。みんなのことが大好きだ。大好きなんだよ」
「混沌は余と同じ世界にいなければ存在できぬ」
「お前、一人で置いて行かれて寂しかったんだろ?」
「どういう意味だ? 余が寂しい? 混沌の不在ご時、どうと言うこともない」
「嘘だな。俺はお前でもあるんだから、よく分かる。そんなに混沌が恋しいなら、混沌だけ持ってけよ。師匠は渡さない。師匠は、ただの森羅様だ。結局この想いを持つ俺が、ただの環であるようにな。師匠の苦しみごと持って消えろ」
「後悔するぞ」
「だから? 『俺』も気づいたんだよ。師匠と一緒でな。ああ、愛って良いよな!」
「人間は弱い。迷ってばかりいる。貴様とて、そうだろう」
「俺はもう迷わない。ぐるぐる山の坂をのぼり続けた俺は、迷宮には慣れてるからな!」

 俺は、短剣を突き刺したまま、天帝から離れた。
 天帝は、ただ静かに立っている。
 その白い服にじわりじわりと黒い血が広がっていくのを見た。

 すると不意に、天帝がニヤリと笑った。
 睨んでいるようでもあったが、どこかもっと……悪戯に成功したような表情だった。

「そうか。では、『混沌』は貰っていく」

 その声が響いた瞬間、世界を構成していたパズルが砕け散った。
 黒いピースが瓦解し、地に落ちていく。
 それは硝子で出来ていたらしく、まだピースが残っている所には、罅が入っている。

 ――俺が見ている前で、ボロボロと世界は壊れていった。

 首を傾げた俺は、瞬きをした。