長々と目を伏せて、俺は曖昧模糊としていた思考を、無理矢理引き戻す努力をした。
 気づけば勝手に体が動いている。
 俺は深々と背を預けて、ソファに座り直していた。膝を組んでいる俺は、笑いながら師匠を見ている。

「座ることを許す」

 師匠は何も言わないまま、ただ睨むような目をして、静かに正面に座った。

「余は貴様が嫌いだ、混沌よ」
「知ってるよ」
「しかと見るが良い、この残酷な世界を、残忍で醜悪な人間を。欲望まみれで肥えきった醜き存在。それが、人間だ。貴様が人になることなどあり得ない。無理な願いだ。忘れろ。戻ってこい。永劫苦しみ続けながら、絶望の中であがけ。泣きわめけ。滑稽な姿をさらせ。それでこその、『混沌』だ。それが貴様だ。目も鼻も口も、持てると思うな。それはただの決して叶わない未来の空想に過ぎない。そんな稚拙で甘い欲望など消去しろ」

 リビングには、俺の楽しそうな声だけが響いている。明らかに馬鹿にするような、師匠を蔑むような言葉を放っている。師匠は唇を噛み、何も言わない。心臓が、ドクドクいって俺は気分が悪い。

 何で師匠にこんなことを言ってるんだよ。
 それで――どうして師匠は黙ってるんだよ。

 冷静になろうとした。
 師匠は俺を見て、確かに「天帝」と言った。
 その事を自覚した瞬間、頭の中で、パチンとパズルピースがはまる音が響いた気がした。

 前にも、この音を聞いたことがある。時計の針が進む音と共に。

 そうか、奇染は言っていたな。『俺』より優秀な『人間』がいた、と。
 じゃあ、俺は……そう考えて理解した。奇染の言いたかったことを。俺は、人間じゃなかったのだ。俺は、天帝だったのだ。受け入れがたい、『事実』だった。

「馬鹿にしていた人間ごっこに、はまりこんでいたようだな、混沌」
「馬鹿に? 人の気持ちは移ろいやすく、手から零れる砂のようなものなんだよ」
「よく言えたものだな。貴様に人の気持ちが分かるなどとは、余は期待してはおらぬ」
「そうか――誰も俺に、期待なんかしていなかったんだったね」

 師匠はそう言うと、深々と息を吐いた。それからスッと目を細めた。無表情になる。

「思い通りになって満足?」
「満足だ。苦しいだろう? 人間の『心』とは」
「ああ、俺は、苦しいよ。そうこれが、悲愴っていう感情なんだ。天帝は、相変わらず、残酷だね。この世界や、人間なんかより、よほどね」
「人間を愛するというのは、良いものであったろう? もうそれも終わりで二度と無いが」
「そう。環と一緒に過ごしたこれまでの時間は、俺が愛を知った最初で最後の時間だったんだね」

 師匠はそれから、今度は笑った。短く吹き出して、掌で唇を覆っている。
 だけど、その表情が俺には、泣きそうに見えた。師匠は、笑っているのに。

「こんな退屈なゲームするんじゃなかったよ。まず選んだ舞台がそもそも駄目だったね。ヒーロー不在のつまらない世界だったんだから」

 それを聞くと、『天帝』が、やっと口を閉じた。

 俺は、天帝として言葉を発している自分が、今、歪んだ表情をしていると、正確に理解していた。戯れにトンボの羽を切った子供の見せるような笑顔を浮かべているのだ。

「最初に環を見た時ね、寒そうだと思ったんだよ。一人で凍えているように見えたんだ。けれど、永久の冬に一人凍えていたのは、本当は俺だったのかも知れないなぁ」

 満足そうに師匠を見ている天帝の存在を自覚する。
 同時に、師匠の言葉について、思案していた。体の中に、二つの感覚がある。なんとかその違和感を振り払おうとしながら、必死で考える。

 ――俺は、寒そうだったのか?

 師匠がそんな風に感じていたなんて、全然知らなかった。

「そうだ賭けをしたんだったね。そして俺は愛を知るために人間ごっこをすることにしたんだ。君は、俺が愛を知ると賭けたんだった」
「その通りだ」
「報酬として、俺が知りたがっていた無を与えてくれると言って。でもそれは世界の存続と滅亡という側面を持っていたのか。俺と君の幸せの終着地は初めから違っていたんだ。愛を知った俺は存続を願う。だから、結局世界が消え去ってしまう無は、俺が確かに焦がれたものだけど、愛を知ってしまえば、報酬なんかじゃなかったんだね」
「馬鹿げた、無いものねだりだったということだ」
「君は俺にそれを教えて、世界を消したかったのか。そっか、違う道だったんだ。本当は俺だって、どこかで分かっていたはずなのに。すっかり忘れてしまっていたよ」
「余と混沌が同じ道を歩むことなど、この地において、ありえぬからな」
「それでも――俺は環と一緒にいて、同じ所にたどりつけるような気がしていたんだ。本当、俺って馬鹿だね」
「受け入れるが良い。これが、貴様に与えられた全てだ。大切なものを喪失した気分はどうだ?」
「最悪だね」
「もう、何も失いたくはないだろう?」
「空っぽだから、もう俺には、失うものなんて無い。そうか、これが無か。不思議だよ。俺が知りたいと思っていたはずなのに、無を知る事が出来ても、全然嬉しくないんだ。ただ、何もないから大切なものを失うことも今後はないし、そういう意味合いにおいては、無とは優しいものだね」
「存在するのはただの闇に似た空虚だ。虚空とは全く異なる」
「俺にとっては、それも、最早どうでも良いことだ。だけど、なんでだろう。それなのにどうして、胸は、棘が刺さったみたいに痛むのかな。そこから入った罅が、どんどん大きな亀裂になっていくみたいだ。血なんか勿論流れないのに」
「どのような感覚だ?」
「深いところで何かがドロドロしているみたいだ。だけど、それのかわりに涙が出てくるんだ。まぁ気分的なものかな。現に俺は、笑ってる」

 やはり師匠は頬を持ち上げているのだが、俺には間違いなく泣いているように見えた。
 第一、空っぽ?
 空っぽなんかじゃない。空っぽだったら、心が泣き声をあげたりしないだろ。

「俺はさ、愛という感情を知ることに、恋焦がれた。いつしかね、賭けのことなんか忘れてさ。ああ、愛すると言うことは、すごく勇気がいるんだね。知っていたけど。失うこととは怖ろしいね」

 それから師匠は俯いた。
 そしてついに涙を堪えようとしているのだと分かった。
 上手く笑えていないのが見て取れる。

「馬鹿な望みだとは思うけど、天帝。もう少しだけ、少しだけで良いから、一緒にいさせてくれないかな」

 必死に笑おうとしながら、涙声になった師匠。俺はそれを見ているのが辛い。胸が痛い。
 俺の方こそ泣きそうだ。
 けれど俺の顔は、やっぱり笑っているのだ。なんでだよ。それも意地悪く口角を持ち上げてニヤニヤしているのだ。

「もう一度だけで良いから、抱きしめさせてもらえないかな。環はそれでもやっぱり、俺にとっては可愛い弟子なんだよ。かけがえのない、愛弟子だ」

 師匠の声に、俺は息を飲もうとしたのに、俺の意志では体が動かない。俺だって、かけがえのない師匠だと思ってる。なのに、何で俺は、そんな師匠を見て笑ってるんだよ。

「断る」

 愉悦まみれの声で、きっぱりと俺の口から天帝の言葉が出た。師匠が目をきつく伏せた。

「痛いか、混沌よ。辛いか、混沌よ。くやしいか、混沌。恨んでいるか、混沌」
「ああ、そうだね」
「余を恨むのは筋が違う」
「勿論、馬鹿な自分が悔しいんだ。ああ、辛いね。それに、痛みが押し寄せてくるんだ。俺は、馬鹿みたいにこの平穏を許されると信じていたんだ。俺は愚かにも、ずっとこの日々が続くと妄信したんだ」
「勘違いも甚だしい限りだな」
「ずっとずっと一緒にいられると思っていたんだ。根拠がないのに、信じ切っていた。俺にそんな権利はなかったんだね。笑えばいいよ、負け犬だって」
「ああ、言い訳が重なっていくだけだな。混沌、貴様は本当に愚かだ。言い訳に埋め尽くされて、身動きが取れなくなるのは時間の問題だぞ」
「だって、思い出してしまうんだ、これまでの日々を。それって悪いことかな? あれ、だけどさ俺達ってさ、どんな風に楽しさを分かち合ってきたんだっけ?」
「余は貴様と楽しさなど分かち合った覚えは無い」
「そうだね、君は環じゃないんだ。ああ、俺はもう人の形を保てそうにはないよ。自我が崩れていくのが嫌でも分かる。俺の世界は、壊れちゃったみたいだ。もう何もない、やっぱり空っぽなんだよ、そうか、これが無なんだね」

 なぜなのか、室内が闇に侵食され始めた。真っ暗になっていく。
 影のようなものが、世界を覆い始める。まるで全てが溶けていくようだ。

 しかしそんなことよりも、俺は叫びたくなった。でも、体が動かない。
 師匠に伝えたいのに。
 そんな事を、言うなよ、って。

 何もなくなっちゃったんなら、なんで泣いてるんだよ。おかしいだろ。

「無は、俺にとっては絶望なんだ。知らなかったな」
「混沌よ。世界を否定するか? 辛い辛いこの世界を、無で埋め尽くすか? 助力しようではないか、『今回』も」
「そうだ、俺が、俺こそが、世界の終焉を望んだんだ。だから前の世界は消えたのに、なのに俺は執着して図書館を残してしまった。消え失せるはずだった科学をも残した。永久の冬の雪は、世界を消し去るために、降り積もったものなのに。真っ白にするはずだったのにね」
「そうだ、この世は、地獄なのだ。例えそれになんと名前を付けようとも。人間界、仙人界、神界、地界? 全ては、同じものだ。滑稽にも、人という種は神農界という名も地獄界という名も忘れてしまったようだが。貴様もその名を忘れてしまったか?」
「まさか。覚えてるよ。その名は、人間が涙する根拠だ。俺が知りたかったことの一つだ。忘れられたら最高だったのにね」
「何度も余が教えてやったのだから、貴様に忘れる権利は無い。そうだ。その通りだ。生まれた時、今後苦しむことを悟って人は泣く。永遠の牢獄に囚われたことを、最初から本能的に知っているのだから。なにせ人とは、すべて地に、地獄に生まれることが定められているからだ。余や貴様とは、根本的に異なる醜悪な存在なのだ。本人達もそれに絶望している」

 楽しそうな俺の声がする。
 だけど、俺はこんな事は思っていない。

 ――天帝は馬鹿だ。

 だったら今、苦しんで泣いている師匠は、紛れもなく人間だろ。
 そう言いたいのに、どうして届かないんだろう。
 俺の言葉は、どうして届かないんだよ。

「確かにこの世界は地獄だ。だけど、どうしてかな。分かってるのに、この世界にさよならって言いたくない。言いたくないんだよ。終わってほしくない。だけどもう、俺の体がもちそうにない」

 師匠の体が涙で震えている。
 その度に、周囲がどんどん、黒いドロドロに飲み込まれていく。
 多分、無が溢れ出しているのだろう。

「やりなおしたい、やりなおしたいよ。環に出会わない世界で、心の平穏を保っていられたならば。俺がこの賭けに負けることなど無かった」
「それが真意か? それでこその混沌だ。あいも変わらず負けず嫌いだな」
「でも、天帝が天帝だと分かっているのに、なんでなんだろうね、君の顔を見ていると、涙が出てくるんだ。空っぽだったなにかが、満ちるみたいに」
「特に問題はない。すぐに全ては、消去され、貴様の記憶など泡沫より儚く散るのだから」
「いいや、恐らく俺は、環のことを忘れて生きていくことは出来ない。忘れ続ける事なんて、出来そうにもない。それがたとえ、環不在の新しい世界になったとしても。きっと何度だって、探し出して弟子にしようとしてしまう。ねぇ、天帝、どうして環だったの?」
「余は、人を知るために、貧しき者を選んで生まれた。ただし、この体の両親が仙人だったことは、大いに関係している。貴様のもとに来るためには、仙気が必要だったからな。しかしな、気づきおった、愚かな人間のくせに」
「環の両親?」
「気づいた奴らは、貴様に害なす存在として、余を我が子ごと葬ろうと障気に身をさらして死んだ。本当に、愚かだった」
「俺に害をなすから……? その仙人って、誰?」
「父親は、兆越と言ったか。よく知る名であろう?」

 その言葉に、俺は、驚きで声を失った。