最後のプレゼントは日記帳だ。
 俺はそれを取りだした。こちらは白い紙袋に入っている。

「はい。これは気に入ると良いんだけどな」
「環から貰ったものは全部嬉しいよ」

 ……無理しなくて良いのにな。
 あきらかにパズルを気に入った様子はなかったぞ。
 袋をあけて、師匠が日記帳を取り出した。シールで封をされていたので、それを破いている。鍵をテーブルの上に置きながら、師匠が穏やかに笑った。良かった、これは成功みたいだ。日記の表面を撫でながら、師匠が俺を一瞥した。

「大切にするよ。本当に有難う」

 そう言って笑った師匠を見たら、なんだか満足した気分になった。
 しかしどっと疲れた。
 俺はテーブルの上に置いてあったホットミルクを手に取る。

 窓の外には綿雪が降っている。今日は、異常気象らしい。いつもとは違う。

 いつもとは違うといえば、師匠の表情だって違うのだ。俺は、プレゼント計画を成功させたのだ。師匠はすごく嬉しそうな顔のまま、ソファの上に寝そべっている。勇気を出して渡し、本当に良かった。俺が眺めていると、師匠が静かに日記の表紙をめくった。

 そして――あからさまに息を飲んだ。

 最初は信じられないというような顔で、瞬きをしていた。
 それから硬直したように動作を止めて、視線だけを何度も上下に動かしている。

 何だ?

 師匠はそれから、俺を見ないままで、おそるおそるという風に唇を動かした。師匠のこめかみを汗が伝っていったような気がした。師匠が汗をかくイメージはないし、今はどちらかといえば寒い季節なのだが。特に今日は、外で雪が降っているし。

「これ……環が書いたの?」
「え? 何か書いてあったのか? 俺は買ってから、封を開けてないけど」

 俺は『買ったのだ』と言うことを強調した。しかし、不安になる。何か書いてあったと言うことは、不良品だろか? 使いかけが間違えて置いてあったとか?

 師匠は紙袋を一瞥すると、小さく頷いた。
 俺は、困惑しながら、師匠に歩み寄った。
 師匠が日記を閉じようとした。だが俺は、一歩早く手でそれを阻止して、中を見る。

『賭けは余の勝ちだ。混沌よ、残された僅かな時の中、せいぜい愚かに踊るが良い』

 二度読んでから、思わず眉を顰めた。混沌?
 混沌氏の事だろうか。混沌氏に向けたメッセージに思える。
 じゃあ『余』というのは、誰の一人称だ? 達筆な文字をじっと見る。

「環。この三つは、どこで手に入れたの?」
「え……ああ、明星宮でもなんでもなくて、許仙の商店街のお店。ぶらっと入ったからよく覚えてないんだけどな。これ、なんなんだ?」

 今度こそ日記を閉じて、師匠はテーブルに置いた。それから俺を見て、切ないような顔をした。どうしたんだろう。

「カオスというのは、混沌の事なんだよ」
「え?」
「これは、天帝から混沌への警告だ。もう賭けの勝敗が決まったから、終わりまでの時間を楽しめという意味だと思う。だから、天帝の時計を……どうして環にこれを持たせたんだろう」
「いや、俺はたまたま目に入ったのを買っただけだし」
「偶然じゃない。目に入るようにしたんだ」
「嘘だろ?」
「天帝にはそれが出来る」

 奇染から聞いた、天帝と混沌氏の賭けの話や、天帝が現実を創りかえることができるという話を思い出した。だが、なんだか俺は焦って首を無意識に振った。思わず声を上げる。

「だとしても、なんで混沌氏宛のメッセージを、俺に選ばせるんだよ? 結果的には、師匠に渡すものだったわけだし、師匠にメッセージを渡したようなもんだろ?」

 師匠が、苦しそうな顔で、顔を背けた。それから小さな声で言った。

「混沌っていうのは、俺なんだ」
「は?」
「森羅万象院混沌氏、嘗てはそう呼ばれていたんだ。知ってる人間は、今では少ないけど。この洞府で学んだ人間と三大老、太鼎教主と南極しか覚えてないかもしれない」

 俺は声が出てこなかった。言葉が見つからない。
 そうだ――森羅万象院でさえ本当の名前とは限らないと、いつか慈覚様は言っていた。
 それに醒宝様は、混沌氏はいると言っていた。

 そして奇染の話が本当なら、この和仙界は、昔は全て、師匠の土地だったと言うことだ。その上、兆越は……そうか、師匠こそが教主様に相応しいと主張していたと言うことになる。それが和仙事変だと言うことになる。元々師匠の土地ならば、それはそれで正しい主張にも思える。だけど、みんなはそれを知らない。ただし、知っている人もいる。

 慈覚様は、南極が、師匠を教主にと言った時、強い声で遮った。
 和仙事変の事を、混沌氏が師匠だということを、しっかりと理解していたからだろう。
 第二の和仙事変と口にした時も、何か含みがあったのかもしれない。

 混沌氏なら、太鼎教主様の弟子にならないのも分かる。
 なんていったって神様のようなものだ。神仙だ。教主様の、天仙よりも上位なのだ。

「……どんな賭けをしたんだ?」
「それは――」

 言いかけて、師匠が俯いた。奇染は確か、『混沌が愛を知るか』を賭けたと言っていたな。愛を知ったことを確認する方法が、『大切なものを奪うこと』だった気がする。その時、愛を知っていれば、混沌は悲しむだろうから。

 だけど、混沌が悲しむと、世界が終わる。愛を喪失して無になってしまうらしい。それは世界を新しく創造する天帝にとっては都合がいいんだっけ。

「師匠の大切なものってなんなんだ?」

 沈黙したまま、師匠は双眸を伏せた。きつく目を閉じている。そして左手で顔を覆った。

「俺だろ?」

 その時、何故なのか、俺は笑いながら聞いていた。

 ――あれ、なんでだ?
 俺はどうしてこんな事を聞いたんだ?
 自意識過剰すぎるだろう。

「うん、そうだよ。俺は、環が大切だ」
「ならば、滑稽な舞台はここまでだ」

 俺は満面の笑みを浮かべていた。
 しかし驚愕で、頭の中は大混乱していた。
 何で俺はこんな事を口にしているんだろう。

 師匠が、目を開けると、首を傾げて俺を見た。そして目を見開いた。短く息を飲んでいるのが分かる。

「まさか」
「まさか? なんだ、その無様で有り体な言葉は。信じられないなどと言う、愚鈍な言葉は放つなよ」

 今度は、馬鹿にするように俺の口が動いた。
 なんなんだよこれ。
 自分が笑っているのが分かる。

 師匠は、呆然としたように俺を見ると、静かに一度、瞬きをした。

「いつから――」
「余に時間などと言う概念は無いが、しいていうのであれば、『はじめから』」

 師匠が唇を掌で覆った。

「天帝……」
「そう呼ばれるのは、久方ぶりだな。貴様が、『環』と呼ぶ姿、笑わせてもらったぞ。はなから環などというものは存在していないに等しいというのに」

 俺は哄笑していた。
 ――あれ?
 今、俺は何を言った?

 寒気がする。
 瞬間、視界がぐにゃりと歪んだ。

 俺はそのまま、ソファに倒れ込んだ。