次に目を開くと、俺は青空の下にいた。
 岩の上に座っていたのだ。
 我に返った瞬間、体勢を崩して落ちそうになり、慌てて俺は手をついた。

「おはようございます」

 その声に、視線を上げる。彼は、斜め右上の、宙に浮かんでいる岩の上にいた。奇染は、こちらを見て笑っていた。悪びれた様子もない。
 それから周囲に浮かんだ岩の数々を見て、俺は場所を理解した。

 ここは明星宮の鍛錬場だ。

 今は俺達の他には人気がないけれど、いつもはそれなりに込み合っている。
 俺も来たことがある。
 岩から見下ろせば、鍛錬場の土地が広がっている。小さく用具倉庫も見えた。

「な、なんで……? 何をしたんだよ?」
「また、お会いしましょうと言ったではありませんか」
「師匠は?」
「そこに映っているでしょう?」

 奇染はそう言うと、俺の前方に浮いている岩を見た。
 そこには、巨大な鏡が置いてある。
 それを見て、俺は目を瞠った。短く息を飲む。

 薄暗い小部屋が見えた。

 燈焔様が、不安そうに、師匠を見ながら立っている。師匠はと言えば、座り込んでいて、ぐったりとしていた。目を伏せていて、顔色が悪い。背は、長い柱にくっついている。それに腕を回すようにして、師匠は手錠に繋がれていた。

 立っている燈焔様は手錠から抜け出した後らしい。
 片腕に手錠をぶらぶらと下げている。
 どこだ、あそこ?

「まぁ見ていれば良いではありませんか」
「見てろって……なんでこんなことを?」
「私には、時間がないことを伝える義務があると考えたのです」
「時間って何だよ」

 俺は奇染を睨んでから、まじまじと鏡を見た。

 その時、師匠がピクリと動いた。
 ぼんやりとしたように双眸をあけて、虚ろな瞳を床に向けている。
 それからハッとしたように、師匠が顔を上げた。

 周囲を見渡し、燈焔様の姿を見つけた瞬間、師匠が叫ぶように言った。

「環は?」
「いや、目が覚めたらここにいたからな……分からん。鍵が閉まってて、外に出られないんだ。結界がはってある。四行だろうな」
「すぐに出よう」

 そう言って立ち上がろうとして、師匠が眉を顰めた。
 手錠が軋んだ音がする。

「まずは、手錠をはずせ」
「時間稼ぎかな。奇染……大体、手錠? 俺に手錠なんてかけても――」

 師匠は吐き捨てるようにそう言った。苛立っているのが分かる。俺は師匠のこんな姿は、見たことがない。それから――師匠が険しい顔で、硬直した。それを見て、燈焔様が首を傾げている。

「どうしたんだよ?」
「はずれない」
「は? 普通に術で抜けるだろ」

 燈焔様の声に、師匠が悔しそうな顔をした。俺にはそれが、泣きそうに見えた。

「違う。これも神器の一つだ。『陽炎縛』だよ。俺には、はずせない。だめだ、この神器は四行五術どころか、全ての能力を一時的に封じるから、術もなにも使えない」

 力無く首を振った師匠の前で、今度は燈焔様が呆気にとられたような顔をした。それから彼は、師匠にはまる手錠を一瞥しながら呟くように言った。

「どうする?」
「……切るよ」
「は? 鎖も切れないんだろ?」

 師匠の独り言のような声に、燈焔様が首を傾げた。

「手首から先を切り落とす。手伝ってもらえる?」

 続いた言葉に、見ていた俺は目を見開いた。ポカンとしてしまい、何も言葉が見つからない。それは燈焔様も同じだったらしい。それから、我に返った様子で、彼は師匠の正面にまわった。

「なっ、ちょ、早まるなよ! 一時的って事は、一定時間が経てば取れるんじゃないのか?」

 燈焔様の言葉をあまり聞いていない様子で、師匠は平坦な声を紡ぐ。

「手なんてどうとでもなる。後で縫合できる。それよりこの瞬間にも、環に何かあったら――」
「落ち着け、馬鹿! 縫合なんて簡単に言うな。普通は、そうはいかないんだよ。それに神器は、よく分からないが術を封じてるんだろ? 手錠がついてる方の手首はそのままダメージを受けるんじゃないのか? 外れない以上。ダメージを受けたものが、後で本当に縫合できるのか? 玉藍でも無理かも知れないだろ! 大体、それを見たら環がどんな顔をすると思ってるんだ?」

 俺は祈った。その通りだ。俺は、大丈夫だ――少なくとも今のところは。
 止めてくれた燈焔様を鏡越しに、じっと見る。
 このまま、師匠を制止して欲しい。

 鏡を見ながら俺が祈っていると、師匠が息を詰めた。それから、目をきつく伏せる。
 明らかに具合が悪そうだ。顔色が悪い。
 荒く息を吐いた師匠を見て、燈焔様が声を上げた。

「お前まだ、さっきの毒が残ってるんじゃ……? 鱗粉が見えたって、有害だったんじゃねぇの? 毒じゃねぇのか? 俺はあの後、奇染の術で意識を失ったけど、お前は違っただろ。気を失うような、毒物の可能性は?」

 無言になった師匠は、目を細めて俯いた。何も言わない。だけどその沈黙が肯定を示していた。燈焔様が、怒るように続ける。

「馬鹿か。顔が真っ青だぞ」
「俺のことは、良いから」
「残ってるんだな」

 師匠は、やはり答えない。すると燈焔様が、大きく溜息をついた。それから腕を組んで、呆れたような顔をする。そして、ポツリと世間話のように言った。

「とりあえず、まずは落ち着け」
「落ち着いていられるわけがないだろ」
「だって奇染は、不可解な宝貝――いや、神器か。それを持ってんだろ? お前が倒れるような強力な代物を。何の対策もなく動くべきじゃねぇだろ」
「だけど――」
「森羅。冷静になれ――他にも神器ってあんのか?」

 すると師匠が俯いた。俺にはやっぱり泣きそうに見えた。初めて見る表情なのに、痛いほどその感情が伝わってくる。事実はどうあれ少なくとも、そんな気がしたのだ。
 幾ばくかの間をおき、師匠が小声で言う。

「……『天数鏡』とかね」
「それはどんなものだ?」
「起こってる出来事を閲覧できるんだよ。そこにいるみたいに見える」

 それを聞いて、俺は目の前の鏡を見上げた。奇染が頷いた。

「そうです、これも神器の一つですよ。私が天帝から借り受けているものです」

 俺は思わず眉を顰めた。
 奇染は前回俺に、天帝を殺せというようなことを言ったのだ。

 ――なのに、天帝から神器を借りている?

 奇染と天帝は一体どういう関係なのだろうか。
 首を傾げていた俺は、再び鏡を見て、息を飲んだ。

 その時丁度、師匠が苦しそうに目を細めたのだ。
 そして、体から力が抜けたように、がくりと頭をさげた。顔が下を向いている。意識を失ったらしい。師匠の体が、小刻みに震えていた。熱があるのかもしれない。

 俺は、いいようのない焦りを覚えた。

「師匠の所に行かないと。おい……師匠のあの手錠を外してくれ。お前になら、はずせるんだろ? 師匠、すごい具合が悪そうだ。死んじゃうかもしれないだろ」

 俺が懇願すると、うっすらと奇染が笑った。

「貴方になら、はずすことが出来るはずです。鱗粉が見えた貴方にならば」
「本当だろうな?」
「ええ」
「それに鱗粉の……毒? それがまわってるみたいだけど、それはどうすればいい? 玉藍様に見せればいいのか?」
「医学では効果は期待できないと思いますよ。南極仙翁ならば解毒できるはずです」

 奇染が嘘をついているようには見えなかった。
 何故こんな事をしたのかは、さっぱり分からないが、俺は信じることにした。

「あそこ、どこなんだよ? 助けに行かないと」
「すぐ下ですよ。ここからもよく見えます」
「は?」
「私もこの鍛錬場で、よく具術の練習をした覚えがあります。彼らを今閉じこめている用具倉庫から、汎用宝貝を借りて」

 そう言って笑うと奇染が立ち上がった。

「それでは、また。今度こそ、次は無いかもしれませんが――またお会いできることを祈っていますよ」

 そのまま奇染の姿は消えた。鏡もスッと消えた。
 俺は岩から飛び降りて、用具倉庫へと走った。
 そして鍵を開けると、先程まで鏡越しに見えていた二人の姿があった。

「環! 無事だったのか!」

 燈焔様の声に頷いて、俺は、やはり意識を失っている師匠に駆け寄った。
 手錠に触れる。すると、術をかける前に、あっさりとそれははずれた。
 え、なんでだ? 俺は、ただ触っただけだぞ……。

「それより、早く南極の所に行かないと! 南極が、毒を消せるって!」
「南極様が? 分かった」

 燈焔様がそう言うと、師匠を抱えた。俺は先に走ろうとした。
 だがそれよりも一歩早く、入り口に立っている人物を見つけた。
 そこで腕を組んでいたのは、南極だった。

「俺って言うか、酒鶴の瓢箪酒しかないね」

 見れば、横に酒鶴童子の姿もある。珍しく地面に足をついている小さい老人は、己の背丈よりも高い瓢箪の栓をあけた。燈焔様が歩みより、師匠の体を静かに下ろす。それから上半身を抱き起こした。続いて師匠の顎を持ち上げる。
 瓢箪を受け取った南極が、さかずきをとりだして酒を注いだ。そしてそれを、師匠の口に含ませる。師匠の唇の端から、透明な酒がたれるのが見えた。

「これで大丈夫。すぐに目を覚ますよ。外に連れて行けば、色々と騒ぎになる。奥に応急処置用のベッドがあるから、そこに」

 南極の言葉に頷いて、燈焔様が、再び師匠を抱えて立ち上がった。
 奥に消えていく師匠の姿を見送り、俺は思わず俯いた。

 ――何が起きたのかよく分からない。

 どうしてこんなことになっているのだろう。
 そもそも俺の中で、師匠が倒れるなんて言う事態は想定外だった。
 師匠は誰よりも強いと思うのだ。病気や障気なんかはともかく、誰かに負ける姿なんて見る日が来るとは思わなかった。

 そうだよ、おかしい。けれどそれは、実際に起こった。もしかして、これって、こういうことこそが、『天数』という名前をしているんじゃないのか。理不尽だけど、起こってしまうことの名前なのかもしれない。そう思った時、俺はポツリと呟いていた。

「なぁ、南極……」
「安心しなよ。森羅なら大丈夫。殺しても死にそうにないじゃない?」
「……俺の天数、見たことあるか?」

 奇染は俺が、天帝を殺すというようなことを言っていた。

 ――それも、天数なのだろうか?

 以前には玉藍様に、南極が俺を拾ったのも、天数かもしれないと言われた。そして座学の時に俺は、南極のような天仙は、天数を見ることが出来ると習った覚えがある。

「環の天数? うーん、見たことないなぁ」

 いつも通りの声だった。疑問そうな声音だ。

「……天数を見たから、俺を和仙界に連れてきたんじゃないのか?」
「違うよ。ただの気まぐれ。なんでだったのかな。たまたま通りかかったんだよね。うーん、ああ、そうだ。あの時、あの辺に大規模な底怪被害があったから、それを見にいったんだったかな。そうしたら、生きてる子供がいてびっくりしたんだっけ。それが君だ」
「底怪被害? 俺の両親は病死だったぞ? 勘違いしてないか?」
「人間が障気にあたったら、病気になるんだよ。仙人でさえ病むんだから。間違いないね。俺は記憶力にも自信があるし。うん、ただの偶然」

 一人納得した様子の南極を見て、俺は脱力した。
 そうか、特に意味はなかったのか……。考えすぎだったらしい。
 それから俺は何とはなしに尋ねた。

「奇染は、なんでこんなことしたんだろうな。それに、天帝の神器を、どうして持ってたんだ?」

 すると南極が、頬に手を添えた。

「奇染は天界縁の血統書付きだからねぇ」
「え? どういう意味だ?」
「天仙ではないけど、それに近いんだよ。そういう一族の出。まつり一族だよ。だから天帝と、じかに会ったことがあっても何の不思議もないね」

 俺は頷いてから、南極を見た。南極って、本当に何でも知っている。それに明星宮で、周囲の反応を見ても、すごい仙人なのだろうと分かる。なぜそんな南極は、俺達師弟によくしてくれるんだろう?

 静かに俺は聞くことにした。師匠のおかげだと予測しながら。

「南極と師匠はどういう関係なんだ?」

 すると南極が懐かしそうな顔をした。

「俺はね、森羅のことを、森羅が生まれた時から知ってるんだよ。俺達はほぼ同じ歳なんだけど」

 呆気にとられた。師匠って、そんなに生きてるのか。まあ前にも太鼎教主様よりも年上らしいことを南極からは聞いていたけど。何歳なんだ……? 確か、南極は華仙界からきたはずだ。華仙界は六千年の歴史だったっけ……。

 その時、奥から燈焔様の声が聞こえた。

「おい森羅の目が覚めたぞ!」

 ハッとして俺は、南極との会話を打ち切った。雑談している場合じゃない。
 焦る俺とは対照的に、南極は苦笑しながら、後からゆっくりとついてくる。