あれから数日が経った。

 この日は八時まで残業をした。
 明星宮を出ようとすると、正門の所に師匠の姿があった。隣には、燈焔様の姿もある。確か今日は二人の作業の最終日だ。

「お疲れ様。一緒に帰ろう」
「待っててくれたのか? それに燈焔様も」
「いやまぁ待ってたけどな、結構調整に時間がかったんだ。気にすんな。こっちも今来たところだからな」

 二人に頷いて、俺は歩き出した。並んで三人で歩く。星空が瞬いていた。綺麗だなと俺は見上げて、思わず立ち止まった。どこからか、甘い匂いがする。気づかないのか、気にしていないのか、二人は先を歩いていく。

 ――その時俺の視界が、急に明るくなった。
 不意に、夕暮れのような明るさが周囲を包んだのだ。
 瞠目した時、師匠達が息を飲んで、俺の方に振り返った。

「幻術……?」

 俺が呟くと、師匠が頷いた。

「すぐに解除するから――」
「いいえ、動かないで下さい」

 その時俺は、首筋に、ひやりとした感触を感じた。
 硬直した体で、視線だけを下ろすが、上手く見えない。
 横を見ると、笑っている奇染がいた。

 子供姿の彼とは、身長差があるはずなのに――確かに奇染は、短剣を俺の顎の下に突きつけている。おそらく、彼は宙に浮かんでいるのだ。

「動いたその時は、環さんが絶命する時だとご理解下さい」

 え、なんで? 俺は、また夢を見ているような気分になった。

「奇染か……?」

 燈焔様が呟くように言った。
 俺は師匠を一瞥する。すると師匠は、初めて見るほど険しい表情をしていた。奇染をにらみつけている。

 ――なんで、どうして奇染は、俺の首に短剣を当てているのだろう。

 先日は、あんなに親しく話をしてくれたのに。
 大切な弟弟子だって言ってくれたのに。
 混乱していた俺は、その後、明るい黄色と紫を混ぜ合わせたような空から、金色の粉が降ってくるのを見た。鱗粉のようだった。気づけば、俺達の周囲には濃いピンク色の空気が満ちていた。それが甘い匂いのもとだった。

 気づくと、カチリという音がした。

 視線を反射的にそちらに向けると、俺に突きつけている手とは逆の、もう一方の手で、奇染が腰に差していた長刀を鞘にしまったところだった。

「……? 居合いって感じでもないな。ただ抜いてさしだだけだな」

 そこに困惑したような、燈焔様の声が響いた。
 視線を向けると、彼は眉を顰めて首を傾げていた。師匠が頷く。

「この鱗粉は……幻術じゃないね」

 師匠が周囲に視線を走らせている。それから空を見上げた師匠に対して、燈焔様が視線を向けた。そして、怪訝そうに続ける。

「鱗粉……? そんなの見えねぇぞ?」

 燈焔様は、何を言っているんだろう?
 周囲は、金の粉とピンク色の空気に覆われているというのに。

 ――その時、俺の視界が二重にぶれた。

 ドクンと心臓がなった気がする。
 息を飲むと、目の前では師匠が唇を噛んでいた。
 師匠の視界もぶれたのだと思う。

 俺の意識は、グラグラしてきた。
 ただただ燈焔様だけが、困惑したような顔をしている。
 その後俺は――師匠が驚愕したように目を見開いたのを見た。

「これは……まさか、そんなはずは――奇染、君はまさか」

 師匠の声が、これまでに聞いたことの無いほどの動揺を宿していた。
 呆気にとられたような表情をしている。

「天帝に会ったの?」
「ええ」

 頷いた奇染の前で、師匠が唇を掌で覆った。それが粉を吸い込まないためなのか、言葉を飲み込んだからなのかは、俺には判断がつかなかった。

「森羅、どうしたんだよ?」

 燈焔様が焦ったように言う。
 すると俺の少し後ろから、楽しそうな奇染の声が響いてきた。

「ご安心下さい。これは、燈焔には効きませんので」

 直後、師匠が鋭い眼差しで、一瞬だけ燈焔様を見た。

「これは、天帝が持つ神器の一つ『誘蛾刀』だ。基本的に、太極魚に縁がない仙人には害がない。だから早く、環を助けて。俺は……」

 師匠は、そう口にしてから、苦しそうに咳き込んだ。こんな師匠は、初めて見た。師匠は呼吸を落ち着け、姿勢を正してから、再度奇染を睨め付けた。師匠の瞳は、驚きと畏怖と怒りでいっぱいに見える。感情的な師匠の顔を、俺は初めて見た。狼狽えてしまう。

「奇染、君は……『新日本記紀』を見たのか?」
「――大変面白い古文書でしたよ」

 ニヤリと奇染が笑う気配がした。
 その時、師匠が糸の切れた人形のように倒れた。気を失ったみたいだ。

「おい!」

 燈焔様の声がした。がくりと動かなくなった師匠を抱き留めている。
 それを目にした瞬間、俺もまた意識を失った。
 視界が闇に落ちたから、多分そうなのだと思う。