天才という言葉に、思わず目を細める。
 史上最年少で仙人になってから、俺はそう言われることが多いのだ。
 だけど自分ではそうは思わない。

「そんなことを言われても……師匠が修行してくれたからだし」
「同じ修行を一体何人がこなせることか――もっとも、天帝ならば可能でしょうが」

 それから少年は、口元に笑みを湛えたままで、目を伏せた。

「天才と言えば、嘗て、ただ一人だけ、貴方よりも優秀な人間がいたようですよ。私の兄弟子です」

 その声に息を飲む。誰だろう?

「貴方と彼、兆越はよく似ていますね」

 響いた声に、俺は目を見開いた。兆越? 兆越が、彼の兄弟子? だとすると、俺には目の前の少年に対して心当たりが一つだけあった。師匠には、兆越や慈覚様と俺の間に、もう一人弟子がいたらしいではないか。

「もしかしてお前……奇染なのか?」
「おや、バレてしまいましたか」

 楽しそうな少年の声に、俺は困惑した。何せ彼は、本人ならば、俺よりもずっと年上のはずなのだ。けれど、どう見ても外見は子供だ。確かに仙人は、力によっては、二次性徴前でも老化が止まるらしいけどな。だけど奇染は、離山したはずだ。何故ここにいて、俺の前に現れたのだろう?

「そうですね、あるいは、今の時点で再会することがあったならば、兆越は、貴方を殺そうとするかもしれませんよ」

 その言葉に、ゾクリとしたものが背筋を走った。
 俺には、恨まれる覚えなんか無いのに。

「なんで? どうして?」
「答えを出すのは、貴方自身です」

 奇染は答えてくれない。意味深なことばかり、口にしている。

「ところで、貴方は混沌氏の事を知っていますか?」
「それこそ神話しか知らない」
「では、私が知ることを教えて差し上げましょう」

 そう言って奇染は片側の口角を持ち上げた。別に混沌氏に関しては、あまり興味が無いのだが、暇だったので耳を傾けることにした。なにせ一応奇染は、俺の正式な兄弟子に当たるのだ。親睦を深めてみよう。その第一歩は、きっと、会話だ。

「混沌氏は全知全能の存在です。『永久の冬』が来る前に、全てを望んだのです。元々は、この和仙界の地下奥深く――全域に広がっている迷宮図書館も、混沌氏のものです。今は無名山からしか入ることできませんが」
「あの図書館って、地下全部にあるのか?」
「ええ、その通りです。あの場は、地に降りた天帝でさえ、本来ならば不可侵の場所だとされます。基本的には、何人も入れません」

 そこにあっさり入れてもらった自分のことを思い出した。師匠も入れたし。そもそも、なんでおさかな洞に入り口があるんだろう。そう考えた後、ふと別の疑問がわいた。

「天帝は、地に降りたのか?」
「ええ」

 てっきり神界にいるんだと思っていた。『地』とは、地界だろうか。それとも人間界の大地のことか? 尋ねようとした時、奇染が続けた。

「天帝は人間の背負う業を知るために、地に降りたとされます。天帝は、人間の飢餓をはじめとした苦悩を知ろうとした。天帝はあらゆる時空を超越した存在です。彼は、どこにでも在って、どこにもいない」

 彼と言うことは、天帝は男なのか。神様にも性別ってあるんだな。そして人間界にいるようだ。だけど……腑に落ちない。

「どうしてお前はそんなことを知っているんだ?」
「混沌氏に直接うかがった話と、古文書から理解しました」

 自信たっぷりに彼は笑っている。何となく真実を話しているように見えた。嘘じゃない気がする。

「混沌氏と天帝は賭けをしているのです。天帝の意図は、混沌氏に『人間の感情』を教えることです。極端な話ですが、『混沌氏が人間を愛したら、天帝の勝利』となります。全てを有し、己のことすら見えなくなっている混沌氏に、愛と同時に――辛さ、哀しみ、苦しみ、それらの負の感情を知らしめることが、賭けの目的のようです」

 神様も賭け事なんてするのか。ちなみに俺は、賭け事をした経験はない。

「他者を理解せず、他人の悲痛を理解しない混沌氏に対して、天帝が賭けを持ちかけたのです。混沌氏は何ものにも執着しないようでした。しかし、そんな混沌氏が唯一執着を見せた相手、それもまた天帝です。天帝は混沌氏に愛の喪失を教える存在なのでしょうね」
「愛の喪失……?」
「そうです。もっともこれは、混沌氏が愛という感情を、いつか抱くと願った上での賭けであり、天帝は混沌氏の心を信じているのでしょう。混沌氏が愛を理解できると存在だと、天帝は確信しているはずです」

 話を聞いていると、混沌氏というのは、すごく冷たい人に思えてくる。
 愛が理解できないらしい。俺も恋愛は分からないけど。それでもなんとなく、愛という感情自体は、分かる気がするのだ。家族愛とか、師弟愛とか、友人への親愛とか、上司への敬愛とか、色々知っている気がする。

「さて、環さん。貴方は、幻術や瞳血の由来を知っていますか?」
「え、全然知らない。由来なんかあるのか?」
「勿論。幻術は、天帝が天数を知らしめるために、持っていた力がもとになっています。天帝は現実を創りかえることが出来るのです。ただ……混沌氏には効果が無かったようですが、今は――あるいは、効くのかも知れませんね。そして瞳血は、その、『現実を創りかえる幻術』を効果的に使う血術の要です」

 幻術を使う時に、血術である瞳血が関係するというのは、以前に慈覚様に聞いたことがある。しかし天帝の力がもとになっているだとか、現実を創りかえるだとか言われてもピンと来ない。だがそんな俺には構わず、奇染は続けた。

「混沌氏に唯一、害をなすことが出来るのは底怪だけでしょう。天帝ですら、混沌氏を物理的に、長時間傷つけることは難しいと思います」

 その言葉に首を傾げた。

「底怪って何なんだ?」
「混沌氏が捨て去った、負の感情が顕在化した存在です。あるいは混沌氏が絶望した時、この世界は溢れた底怪によって終焉を迎えるのかも知れません」
「終焉……」
「それは同時に、混沌氏が無になる瞬間です。戻る時と言っても良いのでしょうが、少なくとも賭けをした時点では、混沌氏は既に無では無かった。その時は既に、混沌氏は天帝に見出され、神農に名をもらっていたのですから」

 俺は必死に、座学で習った世界の始まりについて、思い出そうとした。

「逆に、失った『無』を混沌氏は、知りたがっていたようです。それは、愛という感情と同じくらいに、彼が気にかけていた事柄のようですよ」

 無――そう聞いても、あんまり上手くイメージできない。愛より難しい。

「しかし『無』が訪れれば、それは底怪の形を借りて――あるいは借りることすらなしに、この世界を消えてしまうことでしょう。無が戻れば、この世界もまた無になってしまいます。それは世界の滅亡と同じ意味です。全ての終焉が訪れます」
「つまり、混沌氏っていうのが、世界を滅亡させるって事か? なんで?」
「いいえ。その滅亡という結果を生み出すために動くのは、天帝です。天帝は別の世界を創りたいのでしょう。そのためには、今の現実を変えるよりも、さらに簡単な方法があります。全てを一度、白紙に戻すことです」
「白紙に戻す?」
「ええ。現在の世界を消し去り、新しく創る方が、楽であるようです。勿論天帝は、生み出すことが出来るのですから、創造は容易なのでしょう。しかし『消す』ということは、簡単ではないようです」
「天帝にも難しいことがあるのか」
「そのようです。ですが混沌氏は、世界を消せるそうですよ。すべてを無にできるからです」

 奇染はそう口にすると、青空を見上げた。

「混沌氏が大切な者を手に入れた時、それを奪う。天帝が勝利し、混沌氏が愛を知った時、そして愛を喪失して『無』を思い出した際、この世界は消えてしまうのです。よって、この賭けは、非常に人間にとって危うい側面を持っていることになります」
「世界が消えたら、どうなるんだ?」
「混沌氏がすべてを消し去ったその後は、天帝がまた、新たな世界を作るのでしょうね。『今の世界』を新たに築いた時のように」

 話を聞いていると、天帝が人でなしに思えた。まぁ神様なんだろうけどな。わざわざ与えて奪うなんて、なんだか酷い。

「天帝って何なんだよ?」
「ですから、全てを超越した存在です」
「よく分からない」
「私は、人間だと考えています」
「神様じゃないのか?」
「ええ、その通りです。なので、正確には人間とは言えません。全ての人間に宿り、そして誰でもなく天帝として存在しているのです。動植物すべてに存在するとすら言えるかもしれません」

 奇染が言っていることは難しいと思う。だけど――地に降りて人間として生きているのだとしたら。漠然と考えた。人間……天帝みたいな力を持つ人間? 先程聞いた、天才という言葉が過ぎる。

「もしかして、天帝って、兆越なのか?」
「彼はそうなり得た人物といえます」

 じゃあ、違うって事か。我ながら、冴えていると思ったんだけどな。

 それから俺は、奇染が背負う洞府紋について思い出した。やっぱり師匠の弟子だから持っているんだろうな。するとその時、奇染が、俺の心を読んだようだった。

「太極図は混沌氏の象徴ですよ」

 素直に驚いた。じゃあそれを起源として、師匠は使っているのか。万象院は混沌氏とも関係があるというし、だから迷宮図書館の管理を、おさかな洞はまかされているのかもしれない。師匠の顔が脳裏を過ぎった。奇染は、それも術で読んだようだった。だが不思議と、彼に心を読まれても、不快感はない。

「貴方は師匠のことが好きですか?」
「おう」

 俺は、大きく頷いた。
 最近は、恥ずかしいから直接は言わないけどな。でも奇染相手には、今はちゃんと口にした方が良い気がしたのだ。奇染は、今度は俺の回答に満足したようだった。優しい眼差しに変わった。

「そうですか。では、その言葉を覚えておいて下さい。そして何があっても、その気持ちを忘れないことですね」
「あたりまえだろ。一生忘れない」

 当然だと思う。奇染はそんな俺を見て、頷いた。

「環さんは優しいですね。混沌氏が目指す通りに。混沌氏は負の感情を斬り捨てて、優しさを望んだようですからね」

 優しいって聞くと、師匠を思い出すな。多分、優しさが理解できない混沌氏も、師匠と会話をしたら、気づけるんじゃないだろうか。そう考えてから、俺は改めて奇染を見た。

「ところで、どうして俺に、こんなことを言うんだ?」
「私は、信じることが好きなのです。ただ、それだけです。私は貴方を信じたいのです」
「どういう意味だ?」
「貴方は、私にとって、大切な弟弟子ですからね。意味があるとすれば、これが全てです」
「はじめて会ったのに? 大切に思ってくれるのか?」
「果たして、そうなのでしょうか」
「え? どこかで会ったことがあるのか?」
「貴方はじきに思い出しますよ。嫌でもね」

 はっきりとしなくて、思わず眉を顰めた。目を細めて、俺は呟いた。

「難しくてよく分からない」
「素直ですね。そうですね。世界はそれだけ複雑だと言うことですよ。まるで迷宮のように。あるいは混沌氏の心の有り様のように。天帝の矛盾した善意と同様に」
「複雑……」

 分かったような分からないような俺に対して、奇染が続ける。

「私は、天帝がこの世界を好きだと言うこともまた、信じたいのです。なにしろ天帝は、愛を知る存在ですから。わざわざ混沌氏に愛を教えてあげようなんて考える程度には」

 そう口にしてから、不意に奇染が真剣な表情になった。

「ですが、仮に天帝がこの世界を見捨て、混沌氏に絶望を知らしめる存在だとはっきりしたら――それが、世界にとって有害であると確定したならば」

 少年はそこで言葉を句切ると、片目だけを細めて、睨むように俺を見た。

「天帝を消して下さい。誰でもなく、貴方の手で。これは、神殺しの打診だと受け取ってもらって構いません」
「……でも、天帝も人間なんだろ? 俺は、人殺しなんて出来ない」
「絶対に、そう言えますか?」
「うん。俺は、罪を犯したくない」
「ですが――天帝は、森羅を殺すつもりですよ?」
「え? 何で師匠を?」
「世界を絶望で満たすためでしょうね。これは、同じ師を慕う者としての、ただのお願いです。止めてください。貴方にならば止められる。いいえ、貴方にしか止められない」
「俺が……? 俺は、何をすれば良いんだ?」
「ですから、天帝を、消してください。自分の命よりも森羅が大切ならば、出来るはずです。そこまでは、森羅のことが、好きではありませんか?」

 言われて、俺は考えるまでもないと思った。答えは決まっていたからだ。

「俺が、師匠を守る。これまでずっと守ってきてもらったからな。勿論、命に代えてもだ」

 だけど、師匠を守るためならば、他者を殺して良いとは思えない。それは違う。
 でも、どちらか一方の命を選ばなければならないとしたら……。
 利己的だけど俺は、師匠を死なせたくない。もう一つ選択肢があって、俺が代わりに死ねるのならば、それを選ぶかも知れないけどな。

「その言葉、違えることのないように。あるいはそれが貴方の、『天数』なのかもしれません。さて、またお会いしましょう」

 そう言うと、奇染の姿が消えた。なんだか、夢でも見ていたような気分になる。

 それから俺は、まだ早い時間だったが、明星宮に向かった。
 そして仕事を始めたのだった。