次第に俺は、学校にも慣れてきた。座学と瞑想ばっかりしている。

 坂を上り下りし、洞府に戻ってからは、師匠のお手伝いだ。その時に、師匠は思い出すように様々なことを教えてくれる。最近だと『星の読み方』を習った。

 学校で習った事の中で面白かったのは、『暦』だ。ここに来る前と暦は一緒だった。
 和仙界には十二の月があって、それぞれ象徴する洞府があるそうだ。
 俺以外のみんなはそこの門下生だ。

 本日もノートを取りながら覚えようと頑張っていると、時生先生が授業終わりに教卓を軽く叩いた。

「今日から一週間は、午後の授業は休みにする。風邪が流行っているからな」

 言われてみれば、深愁が咳をしている。俺は思い出せる限り、生まれてから一度も風邪をひいた記憶がない。だけど母さんがよく罹っていたから、とても辛いのだという事は知っている。

「その代わりに宿題を出す。『自分の洞府』についてまとめること。長さは自由。みんなの前で発表してもらうからな。紙は各自用意するように。大きさも形式も自由だ。絵を描いても良いぞ。見やすいように作るんだ」

 先生の言葉に、短く息を飲んだ。宿題が出たのは、はじめてだ。
 この日は、師匠が作ってくれたお弁当は食べず、まっすぐ洞府に帰った。

「あれ、早かったね」

 洞府の前で空を眺めていた師匠に、風邪の話をした。お休みになることや、お弁当がいらないことも伝える。師匠は小さく首を傾げた。

「今は、仙人風邪が流行る時期でもないんだけどね」
「仙人風邪?」
「仙人や道士だけが罹る風邪のことだよ。人間は罹らないんだ。普通の風邪と違って仙気を奪うんだよ。仙人も道士も、普通の風邪はひかないからね」

 師匠は色々なことを知っている。
 中に入ると、今日のおやつは草団子だった。

「そうだ! 師匠、紙無い?」
「紙? どんな紙?」
「うーん、大きいのが良いな」

 答えてから、失敗したなと思った。大きければ、その分沢山書かなければならない。

「何に使うの?」
「宿題だ。自分の洞府について、まとめるんだって」

 伝えてから草団子を頬張ると、師匠が考えるような表情をした。俺は続ける。

「俺、絵とか描けるかな」
「図表もいれるの?」
「おう。形式は自由なんだ」

 大きく頷く。すると俺を見ながら師匠が、小さなカードの束を取り出した。覚えている。有象無象図という宝貝だ。師匠は、ぱらぱらと弄った後、一枚のカードをはじいた。パシンとそれを手に取り、口を開く。

「出現せよ」

 あたりに煙のようなものが出てから、師匠の手に黒くて四角い箱が現れた。中央に丸い硝子がはまっている。

「これを貸してあげるよ」
「なんだこれ?」
「ポラロイドカメラと言うんだ。上のボタンを押してごらん」

 受け取って言われた通りにすると、辺りが眩しくなった。光ったのだ。

「今の光はフラッシュ。ボタンを押すことを、シャッターを切ると言うんだ」

 驚いてみていると、箱から一枚の紙が出てきた。表面がスベスベしている。最初は黒かったが、次第にそれには色がついていった。

「あ!」

 よく紙を見ると、草団子が写っていた。絵よりも本物に近い。風景を切り取ったように見える。

「それでぐるぐる山の色々な所の写真を撮るといいよ」
「すごいなこれ! これも宝貝か?」
「……まぁ、そんなようなものかな」

 それから師匠は、お皿を持って台所に向かった。俺は初めて触るカメラに夢中になった。

 その日は、それから外に出て、色々な写真を撮った。
 俺も今では、ぐるぐる山の様々な場所に一人で行ける。道を覚えたのだ。
 夕食の時間まで、そうやって過ごした。

 翌日学校に行くと、深愁はお休みだった。やっぱり風邪をひいていたらしい。

 泰岳に声をかけられたのは、帰り際だった。

「おい、宿題やったか?」
「やってる途中だ」

 時間はまだある。焦る必要はない。

「何を書くんだ?」
「考えてるところ。泰岳は?」
「俺は洞府の歴史についてまとめてる」

 そこへ隣から声がした。視線を向けると、朱李が柔和な表情を浮かべていた。

「僕も。いつ洞府が成立したのか、歴代の代表仙人は誰だったのかとか」

 泰岳は自慢げだったし、朱李は楽しそうに笑っているが――二人とも難しいことを言う。
 れ、歴史……? 全然思いつかなかった。
 俺も帰ったら、師匠に聞いてみようと決意した。

 洞府の前につくと、師匠が池を眺めていた。小さな鯉が泳いでいる。赤い。

 今日のおやつは、ガトーショコラ。
 お皿の用意を手伝っていると、いつもより大きいケーキが見えた。普段は小さいものを、俺専用に作ってくれるのだ。師匠の分は無いことも多い。
 二人でキッチンからリビングに戻った時、早速俺は、師匠に聞いてみることにした。
 師匠は横長のソファに寝そべって、本を開いている。

「なぁ、師匠。ぐるぐる山はいつからあるんだ?」

 俺の言葉に、こちらを一瞥してから、師匠はすぐに本へと視線を戻した。

「すごく昔からあるよ」
「じゃあ、おさかな洞はいつからあるんだ?」
「ぐるぐる山と同じくらい昔からだね」
「誰が作ったんだ?」
「俺だよ」

 これじゃあ、ちっとも分からない。昔からって……。

「師匠も昔からいるのか?」
「そうだね」
「……おじいちゃんなのか? 見えないぞ。若いし」

 師匠は、どう考えても二十歳を過ぎたくらいに見える。

「仙人の年齢は見た目とは比例しないからね。仙気が強ければ、成長速度は遅くなるし、寿命も延びるんだよ。二次性徴が終わるまでは、体が覚えないから、普通に成長する場合が多いけどね。勿論子供姿の時に成長が緩慢になる者もいる」
「師匠は強いって事?」
「そういうわけじゃないけど。見た目よりは長生きだよ」
「もしかして、師匠は昔のこと過ぎて、おさかな洞がいつできたか忘れちゃったのか?」

 俺が尋ねると、師匠が小さく吹き出した。

「そうかもね」

 結局分かったことは、よく分からないと言うことだった。なんてまとめよう。思案していると、師匠が立ち上がった。本をソファの上に置いている。

「ちょっと外に行ってくるね。お客様だ」

 そう言うと師匠は出て行った。師匠は、ぐるぐる山に他の人が一歩でも入ると、すぐに来たことが分かるらしい。だから俺が帰ってくるのも分かるみたいだ。毎日タイミング良く外で出迎えてくれるのはそのためだろう。

 だけど、誰だろう?

 おさかな洞には、あまり人が来ない。正確には、全然人が来ない。俺が住むようになってから、来客者は、二人だけだ。それぞれ一回ずつである。

「こんにちは」

 師匠と共に入ってきたのは、南極だった。久しぶりに見る彼の笑顔に、嬉しくなる。南極がここに来たのは、二回目だ。

「環、元気だった?」
「おう。南極は?」
「忙しくて疲労困憊かな。大人はね、生きてるだけで疲れるんだよ」

 南極がわざとらしく溜息をついた。ソファに座った彼に、師匠がガトーショコラを差し出す。南極が来ると分かっていたから、多めに作っておいたのだろう。その後師匠が、珈琲を二つ淹れた。俺には、リンゴジュースのおかわりをくれた。

「とりあえず、これ見てよ。全く嫌になっちゃうよね」

 南極から書簡を受け取った師匠は、紐を解いてクルクルと紙を動かす。巻物だ。
 伝信傍というらしい。本当は、遠くからでも送ることが出来るそうだ。南極のような偉い仙人になると、その場で移動させられると聞いたことがある。

 ただ俺のようにその方法が分からない者は、酒鶴童子に運んでもらうことになっている。

 酒鶴童子は、和仙界にいるたった一人の郵便屋さんだ。
 頼む時は、各地に設置されているポストに伝信傍をいれる。

「天帝の気まぐれは今に始まった事じゃない。どこかで時計でも見てるんじゃないかな」
「だけどさぁ、所在を確認したいでしょ、念のため。なのに、このクソ忙しい時に、明星宮では仙人風邪が大流行だよ? 踏んだり蹴ったりだ。みんなバタバタ倒れてさぁ。あ、話してたのはこっち」

 南極は疲れたように愚痴をこぼしてから、新たな巻物を師匠に渡した。スルスルと開いた師匠は、その後すぐに目を細めた。

「……へぇ。なるほどね」
「どう思う? すごくない?」
「確かにすごいね。この理論は、完璧じゃないかな」

 無表情で呟いた師匠は、懐からペンを取り出すと、何かを書き加えた。
 南極がそれを覗き込む。

「うわぁ、容赦ないね」
「そう? 事実でしょう?」

 師匠はそれから、伝信傍と巻物を元に戻して、南極に手渡した。丁度ガトーショコラを食べ終わった南極は、それらを受け取る。そうしながらふと気づいたように、テーブルの上で視線を止めた。

「あれ? 珍しいね。カメラじゃん」
「学校の宿題用に、師匠が貸してくれたんだ」
「ベタベタに甘やかしてるんだね。そもそも、森羅が弟子を取るとは思ってなかったけど」

 そう言って南極が笑うと、師匠が嫌そうな顔をした。照れているのかも知れない。
 師匠はそれからお皿を持ってキッチンに消えた。
 眺めていた俺は、ふと思いついた。

 南極なら、ぐるぐる山とおさかな洞のことを、何か知っているかも知れない。
 何せ偉い仙人だと習った。

「なぁ南極。聞きたいことがあるんだ」
「なになに?」
「ぐるぐる山とおさかな洞っていつからあるんだ?」
「あー……森羅はなんて?」
「すごく昔だって言ってた」
「じゃあ、そうなんじゃない?」

 聞くだけ無駄だった……。南極の言動は適当だ。
 それから、南極は帰っていった。

 翌日の朝、俺は両方の耳の下が痛いことに気がついた。
 咳が出て、喉も痛い。

「師匠……俺、仙人風邪かな?」

 初めての経験に、おそるおそる尋ねる。
 師匠は、じっと俺を見た。体温計を差し出されたので、脇の間に挟む。師匠はそれから、俺の上半身の服を脱がせると、二の腕の裏側を確認した。何だろう?

「学校、休むのか?」
「そうだね。伝信傍を先生に送っておいたよ。心配しなくて良い」

 その言葉にホッとした。その時、師匠が呟くように続けた。

「これは仙人風邪じゃないね。耳の下、痛い?」
「痛い。なんていう病気だ?」

 答えてから、俺は体温計を差し出した。三十九度だった。熱がある。

「これはね、『毒霞病』だね。月霞草の毒花粉が原因だ。腕の下に、湿疹が出来ているし、間違いないよ」
「……治るか?」
「勿論。放っておいても、仙人風邪をこじらせた場合と同じ程度の違いしかない。仙人風邪と区別が難しいんだ。同じ治療法でも治るからね。ただ、きちんとした薬を飲めば、一日で治る。明日には、熱も下がるし痛みもひくよ」

 その言葉に安堵した。治らなかったらどうしようかと不安だったからだ。