それは燈焔様と玉藍様も同様だった。

「何百年後だ?」

 呆然としたように燈焔様が呟いた。この言葉は、自然なものだった。

「来年の卯月には職務の移行をほぼ完了させるとのご意向だった。師走から睦月までの間に次期教主が引き継ぐ。師走の暮れに選出される」
「選出? 慈覚……様、打診があったんじゃ?」

 様と付け足して、玉藍様が引きつった笑顔で言った。
 いつもは慈覚様に対して敬意など見せないが、やっぱりこういう時の反応を見ていると、慈覚様ってすごい人なのだと実感する。南極はそれ以上なんだろうけどな。

「選挙をするんだよ。ね、慈覚? まぁそう言うことだから、燈焔と玉藍も立候補するか考えておいてね」
「恐れ多いです」
「私にはとても教主様の座を引き継ぐ力量などありませんが、南極仙翁様直々にそう仰っていただいた事は、我が洞府の栄誉です」

 燈焔様が簡潔に返した後、つらつらと玉藍様が続けた。
 俺は思う。
 この二人は、こんな時間からお茶をしているのだから、慈覚様よりは暇そうだ。慈覚様が現在のお仕事から離れたら、明星宮は忙しさが増して、あやうくなると思うし、暇な人が教主様をやるのは悪くないはずだ。

 だけど、この二人のどちらかが教主様になったら、南極が手伝った時に、心臓麻痺でもおこしそうだ。彼らでは駄目だな。そう結論付けながら、俺は珈琲を飲む。やっぱり師匠が淹れてくれるもののほうが格段に美味しい。

「南極様は出馬されるのですか?」

 燈焔様が慎重な声で尋ねた。やっぱり俺と同じ事を思ったのだろう。

「いや、俺は出ないよ。教主の意向に添い、後進の育成をしたいからね」

 さっきと南極は言っていることが違う。だって隠居するって言っていたのだ。
 それを聞いていた慈覚様が顔を上げた。

「後進の育成? 南極、お前は事前に教主様から聞いていたのか?」
「いやぁ俺達、以心伝心だからさ!」
「万象院様にも打診なさるおつもりですか?」

 今度は玉藍様が聞いた。すると目に見えて、慈覚様が眉を顰めた。しかし南極は、特に気にした様子もなく続けた。

「以前に一度断られているしねぇ。三大老は、万象院が断ったのに自分達がやるわけには、って昔いってたからなぁ。聖四大仙と五格が主要の選挙になると思うよ」

 南極がそう言った時、ずかずかと店内に入ってくる足音が聞こえた。視線を向けると、唯乙様が歩いてきた。彼はその後すぐに、俺達のテーブルの横に立った。

「私に内密に、そのような重大なことを話さないで頂きたい。無論、次期教主は私なのですから」
「呼んでないんだけど」

 すると怖い笑顔で、南極が返した。燈焔様と玉藍様は、嫌そうに顔を見合わせている。
 店内に絶対零度の嵐が吹き荒れた気がした。
 俺でさえ、この空気には心臓が凍りそうになる。

「教主様が目をかけているからと言って、いい気にならないで下さい、南極様」

 すごいな、唯乙様……。南極を恐れている様子が一切無い。それは慈覚様も同様だけど。唯乙様なら教主になっても、南極がそばにいた時心臓が持ちそうだ。
 でも唯乙様は、先程の話を聞いていないから、南極が教主様の開教の手伝いをしたって知らないみたいだな。慈覚様は直接教主様と話していたのだから、それを知っている。目をかけたのって寧ろ南極っぽい会話だった。

 もうこの時点で、慈覚様の方が有利に思える。信用されている気がする。

「それに慈覚様、貴方も事前に聞いたからと言っていい気にならないように。貴方が先に教主様からうかがうことができたのは、貴方の事務能力の高さゆえに違いありません。次の教主の補佐をしろと暗におっしゃったのでしょう」

 慈覚様は何も言わずに目を伏せて、カップを傾けている。ただ同じ聖四大仙なのに、彼は慈覚様にも敬称を付けていた。目上だと言うことは分かるのか……。

「ところで慈覚。選挙運動も許可するの?」

 南極が唯乙様の言葉を無視した。慈覚様は目を伏せたままで頷いている。
 燈焔様と玉藍様は何も言わない。二人共相変わらず、ひきつった顔で笑っている。

「南極は、誰が良いと思ってるんだ?」

 思わず俺は聞いた。
 慈覚様だと宣言させたら、場の空気が少しは変わるかと思ったのだ。
 俺でさえ、今の雰囲気は気まずいと分かる。

「俺? そうだなぁ、さっき話したのを除くと――」

 南極は慈覚様の名前を言わなかった。除かなくて良いのに。南極って空気が読めないのかも知れない。いやむしろ、南極は空気を作り出すタイプだな。

「森羅が教主になっちゃえば良いって思ってるよ!」

 瞬間、その場が凍り付いた。
 燈焔様と玉藍様は硬直している。ポカンとしたように、唯乙様でさえ何も言わない。
 先程までよりも、おかしな空気になってしまった……。

 その時、ガチャンと大きな音がした。
 見れば、不機嫌そうに、慈覚様がカップを置いた。

「俺がやる。他の誰でもなくこの俺が。教主の座は渡さない」

 冷たい気迫のある声だった。俺でさえ何も言えないような緊迫感が溢れかえる。店内の全てが凍り付いたようになった。

「そ? じゃあ頑張ってね、慈覚。選挙は公平に行うから、努力努力!」

 南極の明るい声で、一気に周囲の人間が気を抜いたのが分かった。
 唯乙様を一瞥すると、冷や汗を滝のように流していた。その気持ちは分かる。俺も慈覚様の声を聞いた瞬間、呼吸するのを忘れそうになった。

 ――多分、仙気が溢れかえったのだ。

 一息ついた後、俺は我に返った。そして、今聞いたことを、脳裏で反芻した。
 慈覚様は、教主様になるつもりなのか。他の人に渡す気はないらしいし……権力欲があったのか。これまでそうは見えなかったから、意外だ。

 その時、南極が立ち上がった。

「さて、俺はそろそろお暇するよ。じゃあね、みんな」

 そう言ってスタスタと出て行く。慈覚様も立ち上がった。

「環、ついてこい。やることが腐るほどあるんだ」

 俺はおずおずと頷いて立ち上がった。慈覚様は、唯乙様のことは、見もしなかった。

 それから慈覚様は、執務室に戻った後、俺を伴い補佐官室に入って事の次第を話した。

 場に緊迫した空気が流れた後、「頑張って下さい」と誰かが言った。「ああ」と慈覚様が答えると、室内に熱気が溢れかえった。

 そこから、俺は死ぬほど忙しくなった。

 この日、洞府に帰ることが出来たのは、夜の十時半過ぎだった。
 こんなに残業をしたことはほとんど無い。

 仕事をしている内に、俺も慈覚様を応援したい気分になってきた。慈覚様なら、良い教主様になる気がする。そう考えて洞府の前に立つと、師匠が外灯を眺めていた。あまりにもいつも通りの姿に、俺は気が抜けてしまった。師匠を見ただけで落ち着いてきた。振り返れば、本当に激動の一日だったのだから。

「おかえり、遅かったね」
「それがさ、太鼎教主様が引退するんだって」
「へぇ」

 興味が無さそうに頷き、師匠は洞府に入る。
 中へと追いかけて、リビングまで向かう。そしてソファに体を預けた。
 疲れが溶け出していく気がする。師匠が冷たい緑茶を持ってきてくれた。コップを受け取りながら、嘆息する。それから俺は何とはなしに、南極の言葉を思い出した。

「なぁ、師匠はさぁ」
「うん、なに?」
「教主になりたいとか、思ったことあるか?」
「全くないね。全然興味ないよ」

 師匠は淡々とそう言うと、俺を見た。そして首を捻る。

「環は教主になりたいの?」
「ありえないだろ」

 俺の返答に、師匠が吹き出した。
 それから師匠は、夕食を準備してくれた。
 それを食べながら、明日も頑張ろうと俺は思った。

 ――まぁ、師匠は、選挙とか好きそうじゃなさそうだし、教主様というがらでもないよな。

「そうそう、明後日からしばらくは、燈焔に呼ばれてるから、明星宮の図書館に行くよ」

 師匠がそう言ったのは、俺がお風呂から上がった時のことだった。

「燈焔様? なにかあったのか?」
「昔さぁ、『忘れずの鏡』っていう宝貝を明星宮に置いてきた事があってね。何でもそれを使いたいらしくて。調整を頼まれたんだよ」

 どんな効果なんだろう。
 気になりつつも、俺は眠気が勝ったため、その日は聞かずに眠ることにした。

 翌日は、昨日遅刻しかかったため、早めに洞府を出た。
 今日は夢見も悪くなかった気がする。なんだかラブソングを作って、気分が良くなっている夢だったな。ちなみに俺には音楽に触れ合う機会なんて無いんだけどな。夢なんてよく分からないものが多い。

 そんなことを考えていた時、真正面に人が立っていたため、俺は立ち止まった。誰だろうと思い顔を上げると、金色の目をした少年が立っていた。十三歳くらいに思える。二次性徴前だが、それなりに身長があって、しなやかな体つきだ。真っ白な肌をしている。淡い紫色の髪が美しかったが、こんな髪の色は見たことがない。