その時、俺の肩を南極が叩いた。見ると手招きしている。
 そして歩き出した彼を、俺は迷った末追いかけることにした。
 中をもう少し見ていたい気もしたのだが、慈覚様が出てきた時に困ってしまうし。

 しばらく歩いて、南極の居室のそばについた時、彼が俺を見て、得意げに笑った。

「ね? 面白いことになってるでしょう?」
「どこがだよ。話が重すぎて、俺には辛かった」
「いやぁ教主も随分と俺の功績を認めてくれていて、嬉しかったね!」
「なぁ、南極。民意を聞くって何するんだよ?」
「さぁねぇ。妥当に考えれば、選挙じゃないかなぁ。絶対唯乙とか教主の座に立候補するね! 俺は全力で慈覚を応援するけどね」
「選挙……?」
「後は燈焔も立候補するかもねぇ。慈覚の一番の強敵になる気がする」
「え? 燈焔様……? イメージがわかないぞ……」
「玉藍だってわかんないよ。この二人は、かなり仙人や道士の人気もあるしね。唯乙の人気はないけどね!」

 南極は、ものすごく楽しそうだ。俺は半眼で彼を見る。

「南極が教主様をやるって事はないのか?」
「俺? 俺がそう言うのできると思うの? 俺はね、我ながら有能な補佐タイプだと思うからさぁ。太鼎教主が引退したら、俺も素直にひっこむよ」
「は? じゃあ誰が教主様を支えるんだ?」
「勿論手伝いはするよ。特に軌道にのるまではねぇ。でもその後は、悠々自適な隠居生活をするんだ。まぁ支える右腕は、選挙に負けた仙人の中で人気あった人とか……慈覚の場合だったら、環とかじゃない」
「お、俺? 無理!」
「どうして? 順当に考えて、秘書官が一番の右腕でしょう? 実際太鼎教主もそれをみこして、森羅の弟子でもあるし、環のことを慈覚のところに移動させたんじゃないの? 環の人事は、慈覚が引き抜いたって言うより、教主が選定したんだよねぇ。勿論、慈覚側にも全然不満はなかったみたいで、助かるって言ってたけどさぁ」
「師匠の弟子だからって、何でだよ?」

 俺が訝りながら首を傾げると、天井を見上げつつ南極が言った。

「さっきの話、よく思い出してごらんよ。あ、兆越が森羅の弟子だったって聞いてる?」
「聞いてるけど……あ。兆越も慈覚様も、師匠の弟子だ。え、なんでだ?」
「教主の本音としてはさぁ、森羅にやってほしいんでしょ。少なくともその関係者」
「だから、なんでだよ? 師匠は、弟子でも何でもないのに?」
「俺や森羅が教主の弟子になんかになるわけ無いじゃないか。ありえないね! だってさぁ、そもそも俺も森羅も、太鼎教主より、長生きしてるもん。仙人は確かに年齢じゃないけど、そうは言ってもねぇ。ある意味俺達は、客仙だし。だから俺達が教主の選択に、口出しするのは違うけど、教主側だって、俺や森羅に強く打診したりはできないわけ」
「え……嘘だろ? 教主様より年上なのか?」
「見えないでしょう? 俺達若作りだからね!」
「若作り……」

 俺達がそうして会話していると、扉の音がした。
 振り返ると、慈覚様が出てきたところだった。

「あ、慈覚! 環が探しに来てるよ!」

 事実だが――まるで俺が今来たところのように、南極が言った。
 声をかけた南極は、そうしながら手を挙げて笑った。

「そうか。ああ……行き先を書いてこなくて悪かったな」
「いや、別にいいけど」

 言葉を探したが見つからず、俺はそれだけを告げた。
 すると歩み寄ってきた慈覚様が、俺達をじっと見た。

「――太鼎教主様が、引退する。南極、この事実を全仙道に通達してくれ。そして、教主に立候補する者を募ってくれ。暮れの師走に、集まった者の中から、投票で次期教主を選ぶ。その際も、開票作業を頼む」

 南極が言った通り、選挙が行われるらしい。選挙という仕組みは、座学で俺も習った。こうして考えると、座学って結構ためになるんだな。ぼんやり考えている俺の前で、慈覚様が歩き始めた。

「行くぞ環。これから忙しくなる」

 慌てて追いかけようとすると、南極が横で手を挙げた。南極は、いつも仕草が大きい。

「相談したいから、俺も行く! ちょっと、二階のカフェに行こうよ!」

 結果として南極も着いてきた。頷いた慈覚様は、鋭い眼差しだ。
 エレベーターにのって、階下に向かう。エレベーターも多分宝貝だ。扉がある箱が上下するのだ。俺の印象だと、カメラと似た雰囲気なんだけど、似ても似つかないから理由は分からない。

 軽食店に入ると、こちらに顔を向けた玉藍様が声を上げた。

「あれ、慈覚、こんな時間に珍し……」

 そして南極の姿を見た途端、勢いよく席を立って、床に片膝をついた。玉藍様の正面に座っていた燈焔様なんて、さらに一歩早く膝をついて頭を垂れていた。

「ご無沙汰致しております、南極仙翁様」

 床を見たまま、燈焔様が言う。俺はちょっと呆気にとられていた。なぜならば、俺は南極がここに来たのを初めて見たのだが、南極の姿に気づいた瞬間、店内にいた人々が、全員同じ姿勢になったからだ。このお辞儀は、俺も知っている。自分よりも偉い仙人に会った時にする礼だ。だがそういう伝統があると言うだけで、普段は誰もそんなことはしない。

 立っているのは、俺達三人だけだった。

「みんな頭を上げて、いつもの通りに」

 すると笑顔で南極が告げた。
 南極って、そんなにすごいのか……。ポカンとしてしまった。

「せっかくだし、どうせ燈焔と玉藍にも話すんだから、ご一緒させてもらおうよ」

 南極が続ける。周囲は静まりかえったままである。多くの人々は席に戻ったのだが、誰も会話は再開しない。

 慈覚様が頷きながら、二人の元に歩み寄った。
 すると立ち上がった燈焔様と玉藍様は、笑顔で首を縦に振った。
 こころなしか、表情が引きつっている気がする。

「光栄です、どうぞこちらこそご一緒させて下さい。慈覚様はこちらに」

 燈焔様が椅子をひく。俺は、低姿勢な燈焔様なんて初めて見た。慈覚様のことも、普段は呼び捨てなのに、敬称を付けている。そしてそれとなく、慈覚様を自分の隣に誘導したのを見た。
 その時、玉藍様が燈焔様を睨んだのを俺は見逃さなかった。玉藍様が椅子をひくと、そこには南極が座る。玉藍様は、南極の隣に座りたくなかったんだろうな。そう考えていると、南極が俺を見た。

「環は、隣から椅子借りてきなよ」
「あ、おう」

 俺が隣を見ると、見知らぬ高仙が緊張した面持ちで、椅子を差し出してくれた。なんだこれ。すごく居心地が悪いな。俺は礼を言って受け取り、それを窓側の、燈焔様と南極の間においた。俺が座ると、何故なのか燈焔様と玉藍様が呆れたような顔をした。笑ってはいるのだが、やっぱりひきつった表情だ。気づけば、二人は立ったままだった。

「二人も座って。公的な場ではないし、気楽にしてね」

 南極の言葉に勢いよく頷いて、二人が座った。勝手に座っちゃ駄目だったのか。知らなかった。ただ、慈覚様は先に座っていて、とっくにメニューを眺めている。
 そこへ、何も頼んでいないというのに、カップが五つ運ばれてきた。
 おぼんを持っている店員さんは、あからさまに震えている。

「ああ、ありがとうねぇ」

 南極の声は、いつも通りだ。だけど店員さんは、今にも倒れそうな様子で、何度も何度も頷いている。彼にとっては、いつもの来店客とは違うんだろうな。
 その後俺は、置かれたカップを見て、驚いた。おさかな洞以外ではじめて珈琲をみたからだ。こんなものメニューには勿論無い。香りと色合いからしてインスタントだが、それでもすごい。
 南極がカップを傾けたのを見て、俺も手に取った。今度は、南極の後に行動を起こしたのだ。慈覚様は、やっぱり気にした様子もなく、自分のペースで静かに飲んでいる。しかし、燈焔様と玉藍様は、カップに触れる気配もない。この二人も珈琲好きだと思うんだけどな。慈覚様は、やっぱり格が違うのだろうか。

「それで、お話とは?」

 燈焔様がそう言って、南極と慈覚様を交互に見た。明るい声だったが、なんとなくいつもと比べると違和感がある。

「そうそう。慈覚、言っちゃいなよ」

 南極が朗らかに言うと、今度は慈覚様が燈焔様と玉藍様を交互に見た。

「――太鼎教主様から、直々に引退する旨をうかがった」

 見守っていた店中の人々が、息を飲んだり目を見開いたりしていた。