合コンから三ヶ月が経過した。ぐるぐる山では残暑が厳しい。
 襟元を直しなが早足に俺は、明星宮へ向かった。まずい、遅刻しそうだ。
 しかたがない……夢見が悪かったのだ。嫌な汗をかいて、一度真夜中に起きてしまい、寝付けなかったのだ。綿雪が降る夢だった気がする。

 俺は、「おはようございます!」と勢いで誤魔化して、慈覚様の執務室の扉を開けた。実は辞令が下りて、俺は慈覚様の秘書官になったのである。だから朝から晩まで、四六時中慈覚様の部屋にいることになったのだ。
 これまでは補佐官だったから、他の高仙もいたし気が楽だったのだが、秘書官はなんと俺しかいない……。長らく空席だったらしいのだ。だから今までは補佐官が代わりにメモを取っていたわけである。

 入った先で、俺は思わず目を伏せた。
 慈覚様が、いない。
 窓から夏の風が入ってきて、白いカーテンを揺らしているだけだ。

 時計を見れば、勤務開始時間一分前。
 当然慈覚様から見れば、遅かったのだろう。溜息をついて、肩を落とした。
 置いて行かれてしまった。

 書き置きを探して、彼の執務机に歩み寄る。
 だが……どこにもない。何もない。いつもだったらあるんだけどな。しかたがないので、隣接している補佐官室へと向かった。そこでは高仙達が右往左往している。

「あ、あの……慈覚様はどちらですか?」

 適当に顔見知りの仙人を見つけて声をかけた。すると首を傾げられた。

「ついさっきねぇ、太鼎教主様のつかいで酒鶴童子が来ていてね。それから『急用』だって話で、行き先も告げずに出て行ったよ。珍しいねぇ、行き先を言わないなんて、随分と急いでいらしたのかなぁ。心なしか表情も硬かったし、今にも走り出しそうだったよ。逆に、何かあったか聞いていない? 気になっちゃってさぁ」

 その言葉に、首を傾げて腕を組んだ。
 礼を告げて、とりあえず執務室に戻る。

 ――酒鶴が来たと言うことは、教主様からの呼び出しだろうか。

 少し考える。探した方が良いのは間違いない。慈覚様のそばにいないと、秘書官の仕事はできないのだ。そばにいることが、仕事といえる。しかし教主様の教主室に人探しで入るのは、ちょっと恐れ多い。

「南極に聞いてみようかな……」

 気づくと俺は、独り言を口にしていた。
 最近では、ちょっと分かるようになってきた。俺は、何となく教主様を『すごい人』だと認識している。多くの仙人達は、同じだろう。ただ俺とは違い、南極のこともそう思っているらしい。

 しかし俺にとって南極はやはり、話しやすい相手の一人にかわりはない。
 だからやっぱりピンと来ないのだが。
 とりあえず、だめもとで聞きに行くことにした。

 南極の居室は、明星宮の教主室がある廊下の突き当たりにある。六階まで登って、俺は顔を出した。ノックをして返事を待つ。すると中から「入って良いよ」と言われた。

「あれ、環じゃん。久しぶり」

 俺が中に入ると、南極が高い背もたれの回転椅子に背を預けて、くるりとこちらに振り返った。俺の姿とフレンドリーな様子の南極を見て、室内にいた事務官達が複雑そうな表情になる。明星宮で南極と話すと、大抵こういう反応をされる。中には、後で「恐れ多い」と怒る人もいたのだが、最近はそれはない。

「ああ、もしかして慈覚を探してるの? ご明察、教主の所だよ」

 来訪目的を告げる前に、人差し指を立てた南極が、それをふりながら笑った。やっぱりそうなのか。ならば、教主室に入っても問題は無いだろうか。

「俺も一緒に行こうかな。面白い話をしてるみたいだからねぇ」
「面白い話?」
「行けば分かるよ。さ、行こう」

 立ち上がった南極は、すぐに俺の横から扉を出た。室内の人々に異を唱える暇も与えず、歩いていく。俺は慌てて追いかけた。

「扉は俺が開けるから。環は声を出さないようにねぇ。ほら、さぁ、二人にとって大切な話の最中だったら、邪魔しちゃ悪いじゃん? 俺は面白いと思うんだけどなぁ」

 曖昧に俺は頷いた。それから少し歩いて、教主室の前で南極が立ち止まる。
 すると彼はノックをするでもなく、音も気配も全くさせずに扉を開けた。

 中からは、話し声が聞こえてくる。慈覚様と教主様の声だ。二人がこちらに気づいた様子はない。黙っていろって……盗みぎきするつもりなのか……。後で怒られそうで嫌だったが、気にならないと言えば嘘になる。だから静かに中の様子を窺った。

「――よって、来年の卯月には、教主の交代を行うと、正式に全仙道に通達しようと考えているわけじゃ」

 響いてきた声に、俺は目を見開いた。

 ――教主の交代?

 噂は聞いたことがあった。教主様が引退するというものだ。
 次の教主の座は唯乙様と慈覚様が争っているという話だった気がする。本当だったのか。びっくりしてしまった。すると南極がこちらを見て、楽しそうに、口の両端を持ち上げた。俺には衝撃的すぎて、まったく面白くないのだが、南極は目を輝かせている……。

「お待ち下さい、太鼎教主様。いくらなんでも、急です。最低でも百年以上は公表までに猶予を。そもそも何故退任など……」
「私としては、すでに百年はおろか、三百年を大きくこえる期間、待ったつもりじゃ。いくら仙人とて寿命にばかりは逆らえぬ」
「お体が悪いとは、とても思えません。教主様ほどの方が、一瞬で過ぎ去る数百年程度の間、寿命を延ばすことが出来ないとも考えがたい」

 慈覚様は焦燥感に駆られているような、同時に憤慨しているような、そんな横顔をしている。その眼差しも声も険しい。まだ十数年しか生きていない俺には、気の遠くなる時間に思えるが、確かに二人にしてみたら、一瞬なのかもしれない。

「――慈覚よ。元々私は、決して才能がある人間ではなかった。もう少し遅ければ、人間界で人間としての生涯を終えていただろう。私のこの姿を見れば分かるじゃろう。この和仙界、瞠若山に天玄教を開いた事とて、晩年になり、南極仙翁に声をかけられ、『天数』に従ったに過ぎない。以後はあやつを右腕としてきたが、まことにこの明星宮の『弓形月に丸二つ』の洞府紋を浸透させ、和仙界を運営してきたのは、南極仙翁だと断言しても差し支えはない。南極にとっての私の存在意義は、天帝様に開教の許しをもらった事につきる」

 座学でも、教主様は、大器晩成型だったとは聞いたことがある。だが、南極が右腕だというのは兎も角、運営してきた……? そんなことはないと思う。和仙界が安定しているのは、紛れもなく教主様がいるからだ。なのに、どうしてこんな事を言うのだろう

「ただ私自身は、それで良いと思っておる。自分の使命は、才能ある人材の発掘だと考えているからじゃ。弟子達の育成こそが、私に与えられた仕事だ。だから十二人もの弟子をとった。無論これは、『道教』の『元始天尊』様に倣って、今後の和仙界運営のための人材を育てる計画の中、天数に従い導出した人数と人選でもある。慈覚もまた、私にとっては大切な弟子じゃ。おぬしがどう思っているかは知らぬが」

 慈覚様は何も言わない。常々、慈覚様は、森羅様をたった一人の師匠だと思っていると口にしてきた。俺も今では兄弟子のように思っていたから、複雑な気分になる。

 その場に僅かの間、沈黙が横たわった。次に口を開いたのも、教主様だった。

「良いか、慈覚よ。時間が無いのじゃ。私に天帝様より与えられた時間は、もうすぐ終わるのじゃ。その時、この和仙界を背負ってたつ者、私はそれは、おぬしだと考えておる」
「お待ち下さい。せめて、泰岳が一人前の仙人になるまでは。私が教主様より預かった、優秀な弟子です。貴方と同じ『手血』を扱う、貴方の血を引く一族の出だ。なにも焦らずとも。彼の力は、この天玄教にとっても大切なものです」

 不意に出た泰岳の名前に、俺は驚いた。慈覚様の弟子の泰岳は、教主様の縁者だったのか。全然知らなかった。

「慈覚、私は、一族のものを次期教主にと考えたことは一度もない。泰岳、そして唯乙に対してもそれはかわらない。兆越がいない今、その器にあるのは、慈覚――おぬしただ一人だ」

 続いた声に、俺は眉を顰めた。唯乙様も縁者なのか。人間界から教主様が直々に連れてきたと聞いていたけどな。それに兆越……? 教主様を殺そうとしたのに、どうして名前が挙がったんだろう。

「教主様、貴方までそのような態度だから兆越は――」

 響いた慈覚様の声が、今度こそ感情的になった。
 森羅様の前以外で、こんな顔をした姿を見るのは、初めてだった。

「……次の教主には、兆越をと考えていたのは紛れもない事実だ」

 こたえる教主様の嗄れた声は、淡々としていて静かだ。それから教主様は溜息をついた。

「混沌氏が引き受けてくれれば、一番なのだが」
「そういう事でしたら、俺が教主の座を引き継がせて頂きます」

 その時教主様の声を打ち消すように、きっぱりと慈覚様が言った。俺は意外に思って、目を見開いた。気づかれないように息を飲む。

「ただし、それは民意を得た場合です。俺は、第二の和仙事変など見たくはありません。たとえ教主様直々にご指名いただいたとしても、俺に対する不満は間違いなくあがるでしょう。そのためには、仙人や道士の声を聞く機会を頂きたい」
「良かろう。好きにして良い。南極にも声をかけておこう。あやつの手を借りて、場を設けるが良い」

 すると慈覚様が一礼した。