なんとなく悲しいような、辛いような、大きな衝撃を受けて、体がこわばった。
 慈覚様の言葉が事実だということは理解できるのに、心が痛くなった。理解できても、理性が納得していても、感情的には受け止めきれない。思わず俺は俯いた。

 すると慈覚様が深く息を吸ってから、それを吐き出した。
 そして、ばつがわるそうに言う。

「意地の悪いことを言ったかもしれないな、忘れてくれ」

 その声に俺は顔を上げて、首を振った。やっと冷静になれた。

「ううん、分かってるつもりだ。そうだな、俺が特別なんじゃないよな」

 今度は、慈覚様が沈黙した。だが俺は言葉を続ける。

「でも、俺にとっては、師匠は特別なんだ」

 俺がそう言うと、虚をつかれたような顔をした後、慈覚様が吐息に笑みをのせた。微苦笑している。その表情が、どことなく森羅様に似ていた。とても優しい笑顔に見えた。じっと見上げていると、小さく慈覚様が頷いた。

「そうか。そうだな」

 それから俺と慈覚様は、ずっと雑談をしていた。
 慈覚様とこんなに話す日が来るとは思わなかった。
 慈覚様の知る、森羅様のことを沢山教えてもらった。

 俺が知らないことばかりだった。すごく新鮮で、楽しい。なんだかんだで、慈覚様は師匠のことを大切に思っているし、好きなのだとわかった。きっと、敵対的なんじゃなくて、心配していたのだ。今までも。

 話していると、すぐに朝が来た。
 白いカーテンを開けると、窓から陽光が差し込んでくる。
 師匠は、白が好きみたいだ。

 階段が軋む音がしたのは、その時のことだった。
 俺は硬直した。目を瞠る。
 だが、怖くて振り向けない。

 リビングの扉が自然と開いたのは、いつも師匠が起き出す時刻だった。

「あれ、何してるの? 今日は早起きだね」

 ごくごく普段通りの師匠の声に、俺はようやく振り返ることが出来た。
 師匠は首を傾げている。
 それからまじまじと慈覚様に視線を向けた。

「なんで慈覚がここに? そんな気配全然無かったのに」

 それには構わず俺は師匠に抱きついた。

「起きたのか。起きた……起きたんだな!」

 俺が声を上げると、師匠が首を捻った。それからハッとしたように息を飲んだ。
 そしてカレンダーを見ると、師匠が気まずそうな顔をした。

「……悪かったね。心配をかけた?」
「心配するに決まってるだろ! 俺も慈覚様も!」
「え、慈覚が心配……?」

 師匠が目を細める。すると慈覚様が大きく頷いた。

「非常に心配した」

 とてもわざとらしい、馬鹿にするような声だった。少し冷たい声音だ。
 昨夜話していた時が嘘のようだ。
 その言葉を聞いた師匠は、半眼になって溜息をついた。

「それは嫌味?」
「本心だ。さて、俺は仕事に行く。今日は環も出てこいよ」

 俺は慈覚様を見て、何度も何度も頷いた。そして告げた。

「有難う」

 慈覚様は、それに対しては何も言わず、吐息に笑みをのせると出て行った。

 彼が帰った後、俺は師匠から離れた。
 それから師匠の横顔を見た。
 色々聞きたいことがある。

 例えば、どうして底怪討伐に一人で行くことを教えてくれなかったのか、とか。
 以前寝坊した時も、もしかして行っていたのか、だとか。

 ――兆越のことだとか。

 だが、最初に思いついたのは、慈覚様の言葉に関してだった。

「なぁ、師匠。慈覚様って、昔は泣き虫だったのか?」

 すると師匠が、不思議そうな顔をして首を傾げた。

「どうだったかな。まぁ今よりは感情的だったね。今もよく怒ってるけど。昔はね、確か、怒りながら泣いていたんだよ。うん、泣き虫って言うより、怒りが前面に出てたかな」

 なるほど、キレながら泣くタイプだったのか。今からは、考えられないが。
 なんだかそれを想像したら、面白かった。

 ちなみにその少し後、玉藍様がやってきた。
 なんでも山にこもって薬草採取をしていたらしい。
 酒鶴童子ですら迷うような、深い深い山だとの事だった。終南山という場所らしい。

 俺はこの件以来、慈覚様のことを、前とは違い嫌いじゃなくなった。
 今では尊敬する上司だし――俺は勝手に、やっぱり兄弟子は慈覚様だと思うことにしている。職場では相変わらず冷たいし、プライベートで話す機会などめったにないけどな。

 だから、あの日のことが夢だったような気がすることもある。けれど、決して夢ではないはずだ。

 その後のある日、俺はふと思いついて、師匠に聞いてみることにした。
 玄関でチューリップに水をあげていた師匠に問う。

「師匠は、慈覚様のこと、どう思ってる?」
「どうって……慈覚は慈覚じゃないかな。環が環であるように」
「そうじゃなくて、好きとか嫌いとか」
「どちらかといえば好きだよ。俺は、ね」

 その言葉に、俺は思わず吹き出した。

「じゃあ、俺のことは?」
「勿論大好きに決まってるだろう」

 師匠が照れるでもなく言い切った。俺の方が恥ずかしくなってしまう。気恥ずかしいが、とはいえ俺は、こんなやりとりをする日々が幸せだ。ただたまに、師匠が寝坊したり、出迎えてくれないとヒヤヒヤするようになってしまったのだけれどな!