ポカンとして、俺は尋ねてしまった。

「え? 慈覚様が? 嘘だろ?」
「いいや、本当だ。当時は森羅が怖くて仕方なかったしな」
「それこそ嘘だろ……」
「あのスパルタによく堪えられたな。尊敬する」

 慈覚様はしごく真面目な顔で続けた。耳を疑ってしまう。

「俺は嫌で何度も逃げ出したからな」
「信じられない。その話、盛ってるだろ!」

 すでにあれらの修行は、俺にとっては苦でも何でもないし、呼吸をするように自然なことだ。慈覚様にそれが出来ないとは思えない。その時、慈覚様が珍しく笑った。驚いて見ていると、慈覚様が首を振った。

「いいや。真実だ。堪えられた人間を、俺は、お前を含めて二人しか知らない」

 それから慈覚様が懐かしそうな顔をする。誰なんだろう、もう一人は。

「俺には同期の兄弟弟子がいた」
「醒宝様か?」

 心当たりは、それだけだ。すると目を伏せながら、慈覚様が眉を顰めた。

「いいや、違う。醒宝様は俺よりもずっと年上だ。同期ではない。見れば分かるだろう?」
「ま、まぁ……でも、師匠はもっと若いし」
「……それもそうだな」

 俺の言葉に双眸をあけて、慈覚様が視線を逸らした。彼はカップを静かに一瞥した。それから再び微笑した。

「すごく優秀でな。学校も一緒だった。そちらでも同期だったんだ。俺は、名目上は教主様の弟子だったから、森羅のきちんとした弟子だったそいつが羨ましくて仕方がなかった。実力も確かで、よく和仙界の未来についても語り合った。俺と対等で、実力もほぼ互角だった」

 未来……?
 俺は、学校にいた頃は、そんなことは考えもしなかったな。今も考えていない。考えたことなど無い。首を傾げた俺には構わず、慈覚様が続ける。

「俺もそいつも幻術を得意としていた。幻術を専門的に扱える仙人は少ないから、森羅のもとに預けられたのかも知れない。今考えればな」

 確かに師匠も、幻術は難しいといつか言っていた。俺は寧ろ一番簡単だと思ったけどな。

「あいつは瞳血を持っていた。瞳血は、幻術を効果的に扱える血術でもあるからな」

 続いた慈覚様の声に、目を瞠った。
 じゃあ俺もそうなのか?
 俺も、血術の才は瞳血だと言われたし。

 それよりも、慈覚様と互角の相手というのが気になった。そもそも、森羅様の弟子であることを、慈覚様が羨ましいと思うなんて驚きだ。

 ――じゃあ俺のことも羨ましいのだろうか?

 それは無いような気がする。
 やはりその人物が、慈覚様が認めるほどの凄腕なのだろう。会ってみたかった。

「その人は今どこで何をしてるんだ?」
「分からない」
「名前は?」

 酒鶴童子に調べてもらおうかな。彼ならば、知らないことは存在しないに等しいらしいしな。南極に聞いても良い。どちらかは知っているだろう。俺にとって、その人は、醒宝様と慈覚様を除くと、ある意味初めてのちゃんとした兄弟子だ。

 その時、これまでとは違い、慈覚様の表情が氷のように冷たくなった。

「――兆越だ」

 俺はその名に、目を見開いた。

「兆越は、森羅の弟子だった。あるいは、今もな。離山している奇染がその弟弟子だ」
「でも師匠は裏切ったりしない!」

 反射的に叫んだ。
 俺は繋がった気がした。
 兆越が森羅様の弟子だったから、授業参観の時に、師匠を疑ったのだ。

 だから慈覚様は、あの授業参観の後、洞府を訪れたのだろう。
 そして師匠の襟元を掴んだのだ。
 幻術を教えるなとも言っていた。

 おそらく、兆越という人の幻術の力は、慈覚様と同じくらい確かだったのだろう。
 同じ師匠に習う以上、頑張れば俺もそれに近づける可能性がある。

 慈覚様はそれを恐れたのではないのか?
 俺が、第二の兆越になることを、警戒していたのではないのか?

 あるいは奇染という仙人同様、俺が離山することも考えたはずだ。
 本来は、離山は良くないことなのだ。
 師である仙人は、離山した者を、普通は破門するらしい。

 しかし奇染は、破門されていないと聞いたことがある。それは奇染の師匠が、和仙界を出て行くことを許したからだと考えられる。許したということは、森羅様も和仙界の決まりに逆らっているということだ。

 ――一度逆らったら、二度目もあるかもしれない。

 俺だったら、そう考える。でも……きっと師匠には、なにか事情があったはずだ。
 師匠が悪いことをするとは、やっぱり俺には思えない。だから繰り返した。

「師匠は、絶対に裏切らない」

 断言してじっと慈覚様を見ると、彼は顔を背けて深く息を吐いた。

「裏切る、か……確かにそうかもしれないな。今、一番近くで見ているお前が言うのなら。森羅は手引きしていないんだろう」
「慈覚様が見ていた時はどうだったんだ? 慈覚様だって、昔は近くで師匠を見ていたんだろ?」

 俺の言葉に少し考え込む顔をした後、慈覚様が静かに言う。

「――森羅は、優しかった。今もそれは、変わらないように見える。だけどな、優しさは時に人の正常な判断を奪う」

 慈覚様の声が低くなった。わずかに怒りを宿したような眼差しになる。だが、視線は遠くを見ていた。少なくとも、俺を見てはいない。

「森羅は、兆越に対しても優しいんだ」

 俺は混乱した。優しいことは良いことだと信じていたからだ。だが、兆越は太鼎教主様の命を狙った仙人だ。その人にも優しい?

 ――それは、手引きしたり、クーデターを見過ごしたりするという意味で?

 俺は、違うと思った。上手く言えないけど、そんなのは優しさではない。

「師匠は、師匠は……本当に優しいんだ」
「勘違いするな。森羅はお前にだけ優しい訳じゃない」

 目を見開いて、俺は言葉を無くした。