時刻はもう夜の十一時を回っている。多分、今まで仕事をしていたのだろう。こんなに遅くまで働いているのか。疲れているはずだ。なのにどうしてここに来たんだろう。来てくれたんだろう。慈覚様は俺をじっと見た後、静かに口を開いた。

「何があった?」

 俺は沈黙した。言葉が見つからない。

「森羅は? 具合はどうなんだ?」

 口を閉じたまま、俺は俯いた。すると、床に水滴が落ちた。気づくと俺の両目からは、ポロポロと涙が零れていた。ハッとして、慌てて腕でぬぐう。きっと、眠っていないから情緒が不安定なんだろう。いや、師匠が起きないせいだ。俺は、顔を上げた。頬が濡れる。

「起きないんだ……」

 そう口にしてから、ボロボロと俺は泣いた。
 最初、慈覚様は驚いたような顔をしていた。それから息を飲んだのが分かった。

「入らせてもらうぞ」

 俺が返事をする前に、慈覚様が中へと足を踏み入れた。場所を熟知している様子で、まっすぐ階段をのぼっていく。俺は声を殺して泣きながら、ついていった。

 慈覚様は師匠の部屋の前で立ち止まった。よく場所が分かるな、だなんて場違いなことを考えていた。そのまま険しい顔で、ノックしてから慈覚様が師匠の部屋に入った。俺も続く。

 ベッドサイドに立った慈覚様が、そっと手を伸ばした。左手の指先で、師匠の頬に触れている。慈覚様は左利きだ。ぴたりと指を当てたまま慈覚様が静かに呟いた。

「生きてる」

 その声に俺はひやりとした。

 ――死にそうだったのか?

 俺の体を震えが走った。
 すっかり忘れていた母親の最後の声が甦る。
 両親の腐敗した遺体が脳裏を過ぎった。

 また俺は、ただ見ていただけなのだ。なにもできない。なにも、できないんだ。これじゃあ両親が亡くなった時と何も変わっていない。仙人になっても、俺は大人になりきれていない。ただ泣きわめく子供のままだ。

「仙気が少し乱れている」
「え?」

 我に返って俺が声を上げると、手を離して、慈覚様がこちらを一瞥した。

「だがすぐもとに戻るだろう。心配はいらない」

 そしてきっぱりと断言した。しかし信じられなくて、俺は首を振った。
 まだ涙が止まらない。

「なんで分かるんだよ。このまま起きなかったら……」

 何度手でぬぐっても、涙が零れてくる。俺は子供みたいに泣いてしまった。
 すると慌てたように慈覚様が歩み寄ってきた。
 それから俺の正面に立つと溜息をついた。

「この乱れ方は障気に触れた者におきる。前にもこういうことがあった」
「え? どうしてそんなの? 師匠は地界に行ったのか?」

 俺は口早に質問した。そうせずにはいられなかったのだ。必死に地界と底怪の知識を掘り起こす。体が震えたので、両腕で抱いた。

「精神を病んじゃうのか?」
「いっぺんに聞くな」

 そんな俺に対して、慈覚様が目を細めた。呆れたような顔をしている。

「森羅なら寝れば治る程度の害だ。それに今俺が、仙気の調整をした。もう心配はない」

 本当だろうか。俺はまじまじと慈覚様を見た。困惑したような彼の顔を、俺は涙で歪む目で見た。すると慈覚様が頷いた。

「恐らく先日話した底怪を消滅させたのは森羅だ」
「え、どうして? 一人で?」
「お前に資料を取りに行かせたから悟ったんだろう。その底怪退治の討伐隊にお前を選んでいたことを。俺もすぐに『影送り帝』だと判断したから、知識を学ばせようと思って、お前を迷宮図書館に向かわせたんだ。失敗だったのかも知れない」

 俺は目を見開いた。悟るも何も、底怪の事は、俺自身が話したのだ。決して、慈覚様が失敗した訳じゃない。だから俺は首を振った。だが言葉は出てこない。

 俺のせいで、師匠は眠り込んでいるのだろうか。再び涙がこみ上げてくる。
 息苦しい。体が熱い。

「森羅は――お前の実力では無理だと判断したんだろう。あの底怪は、過去に何人もの高仙の命を奪っている。何人も死んだんだ。殺された」

 呆然として俺は言葉に詰まった。確かに俺は、底怪討伐などしたことはない。

「どうして俺が選ばれたんだ?」

 普通、討伐隊は、高仙で組織される。許仙が行ったなんて話は、過去の資料をまとめていた時も見たことがない。しかも、そんな危険な底怪の討伐に。

「俺なんか死ねばいいと思ったのか?」

 気づくと俺は口走っていた。恐らく、自分のせいだと思っていた俺は、八つ当たりしたのだ。怒りを覚えていた。本当は、慈覚様ではなくて、自分に対して憤っているのだと、どこかで理解していた。だけどそれを何かで忘れたくて、八つ当たりをしたんだと思う。

 俺の前で、冷静に慈覚様は首を振った。

「違う」

 きっぱりと告げて、慈覚様は俺をじっと見た。

「俺はお前の実力をかっているだけだ。お前ならばやれると思った。俺もついていくつもりだったしな」

 今までに、そんなことを言われたことはない。
 評価されているなんて考えてもいなかった。
 慰めだろうか。そうかもしれないな。

「それに……森羅は過保護なところがあるからな。気にするな、お前のせいじゃない」

 そう言うと深々と慈覚様は溜息をついた。そして腕を組むと、改めて俺を見た。

「少し眠れ。寝ていないんだろう」

 おずおずと俺は頷いた。師匠のそばに歩み寄って、俺は大好きな顔をのぞき込んだ。そのまま座って、苦しい気分のまま、両手の指を組んできつく握った。

「お前が抜けると穴埋めが大変なんだ。それだけお前は優秀だ。お前が倒れたら意味がない。森羅が討伐に出たことすら無意味になる。違うか?」

 そう言われた直後、無意識に師匠のベッドに両肘を預けて、俺は目を伏せた。
 そうした瞬間、一気に眠気が襲ってきて、俺は微睡んだ。
 気がつくと、寝ていた。

 それからどれくらい眠ったのだろう。目を擦りながら、俺は起きた。

 目が覚めると、毛布がかけてあった。最初は、師匠がかけてくれたのかと思った。だが師匠は相変わらず眠っていた。師匠はまだ起きてないんだから、慈覚様がかけてくれたのだろう。

 時計を見ればまだ早朝だった。
 窓から朝方の空を見た後、俺は師匠の部屋を出た。ひどく喉が渇いている。

 そしてリビングに行くと、慈覚様が仕事をしていた。視線を書類に落としたままの慈覚様を静かに窺う。すると声がかかった。

「入れ」

 俺に気づいていたらしい。俺はそれから、中に入り、そのまま通り過ぎてキッチンに行った。水を飲んだのだ。その後再びリビングに戻り、尋ねた。

「手伝うか?」

 慈覚様は、俺の言葉にようやく顔を上げた。

「そうだな……久しぶりに珈琲が飲みたい」

 それは仕事ではない。そう思ったが、俺は素直にキッチンへと引き返した。

 この洞府では珈琲の存在は普通だが、他の洞府にはないらしい。俺も淹れ方は覚えている。師匠が教えてくれたからだ。持って行くと慈覚様が一段落した様子で、ペンを置いた。カップを受け取り、慈覚様が傾ける。それから彼は細く吐息した。

「美味いな」

 その言葉に苦笑してしまった。まだまだ師匠には負けるが、それなりに俺も上手に淹れられるようになったと思う。

「それにしてもお前もまだ、十三の子供だと改めて分かった。泣くとは思わなかったぞ」

 慈覚様の言葉に、頬が熱くなった。恥ずかしい。
 寝て起きて冷静になった分、昨日の自分が悔やまれる。
 確かに俺の背は低いが、もう十三なんだ。自分では子供じゃないと思っている。

「まぁ、俺はもっと泣き虫だったけどな」

 すると意外な声がしたから、虚をつかれた。