その日は、俺の要約作業が終わると、二人ですぐに夕食をとった。師匠が、タイミング良く用意してくれたのだ。最近は、食事やお風呂の時間も、仕事次第で変わっている。自然とそうなった。

 お風呂から出て、髪の毛を乾かしてから、俺は少し早めに私室に引き上げた。
 師匠は、まだ起きているようだったが、俺は寝た。明日もあるからな!

 翌朝起きると、めずらしく師匠の姿が無かった。

 一年に一度くらい、師匠は寝坊することがある。
 すぐに起きてくるだろう。
 俺は仕事の時間が迫っていたので、キッチンにあった食パンを焼いて、ジャムをのせて勝手に食べた。

 それから洞府を出た。よく晴れた日だった。

 明星宮に顔を出すなり、俺は慈覚様の元へと向かった。
 慈覚様はペンを走らせている。
 俺が報告書を渡すと、こちらを見ないまま、もう一方の手で受け取った。こういう時は、彼は両手が利き手なんじゃないかと疑う。
 他の仕事をしようかと考えて俺がスケジュール帳を開いた時、一段落した様子で慈覚様が顔を上げた。

「そうか、森羅は迷宮図書館にお前をいれたのか」

 ――いれた?
 別にあっさり通してもらえたぞ?
 いれてもらえない可能性があったのだろうか。それなのに俺に仕事を命じたのだろうか。俺が困惑しながら首を傾げた時、慈覚様が嘆息した。

「もっとも、昨夜、無非定型の底怪は消滅したから無駄足だったな」

 無駄足という言葉にちょっとイラッとした。消滅したのは喜ばしいけどな。
 でも……不思議だ。討伐は、普通は日中に行うからだ。夜じゃない。夜の討伐は、よほどの緊急時以外は無いと聴いている。あれ?

「え? 討伐したのか?」
「いいや。自然と気配が消えた。結界宝貝に反応が無くなったから分かった。稀にこういうことがある。ご苦労だったな」

 その後は、俺は普段通りに事務作業や、会議の資料作りを行った。慣れてくると、結構これが面白いのだ。

 そしていつも通り、定時を少し過ぎた頃に明星宮を出た。定時に上がることもあるし、もっと早く帰ることもあるが、何も予定が無ければ、俺は少しだけ次の日の仕事に手をつける。その方が、後々楽だからな。

 帰った俺は、洞府の前で足を止めた。師匠の姿が無い。
 来客中か?
 思案しながら中へと入った。だが、リビングにも人気はない。出かけているのだろうか。珍しいな。

 部屋にいるかもしれないと思い、俺は師匠の寝室も見に行った。
 静かに扉を開けると、寝台に横になっている師匠がいた。
 何だ、寝ているのか。思わず安堵の息をついた。

 朝も寝坊したようだし、疲れているのかも知れない。仕事をしている俺の方が疲れていると思うけどな。そのまま俺は、部屋を後にした。眠らせておくことにしたのだ。

 しかし翌日も、師匠は起きてこなかった。
 俺は、トーストを噛みながら虚空を見た。

 夜中にでも起きたのだろうか?
 まさか、ずっと寝ていたと言うことはないだろう。
 若干不安になったが、俺はそれから歯磨きをして、仕事に向かった。

 だが、嫌な予感は的中した。
 その日も、帰った時、出迎えは無かった。
 おそるおそる師匠の部屋に向かうと、朝と、いや昨日から全く変わらぬ様子で、師匠が寝ていた。これは、いくらなんでもおかしい。

 俺が仕事を始めてからは、玉藍様と燈焔様はあまり洞府に顔を出さなくなっている。何故こういう時にいないのだ。特に、お医者さんの玉藍様……! 呼んだ方が良いよな?

 ぐるぐると俺は悩んだが、師匠からは健やかな寝息が聞こえる。
 歩み寄って、額に触れてみた。別に熱もない。顔色をじっと眺めてみたが、具合が悪そうでもない。ただ眠っているだけに見える。一応、声をかけてみることにした。

「師匠? 起きろよ」

 しかし返事は無かった。
 結局俺は、そのまま朝を迎えた。ずっと師匠を見ていたのだが、ぴくりとも動かなかった。すごく眠い。だが、仕事には行かなければならない。

 憂鬱な気分で明星宮にいき、書類の整理をした。頭が上手く働かない。溜息をついてから、書類を慈覚様に渡しにいった。
 すると顔を上げた慈覚様が、眉を顰めた。

 ――不備でもあったんだろうか?
 眠いし、あり得る。怒られるだろうか。
 普段ならそれは怖いのだが、今はそれどころではない。

 しばらく俺を見据えてから、慈覚様が静かに口を開いた。抑揚のない声音がした。

「顔色が悪いな。寝ていないのか?」

 こんな気配りをされたのは、初めてだ。そんな優しさ、今はいらない。曖昧に俺は首を振ってから、退出した。

 そして定時になってすぐに帰宅した。

 そこでは……やはり師匠が眠っていた。
 俺は、何も考えられなくなった。
 呆然としながら、ただただ師匠を見る。

 そして再び朝が来た時、俺は眠気と混乱で、今日は仕事にならないような気がした。何より師匠が心配で、離れたくない。玉藍様と慈覚様宛に、伝信傍を送った。それから両手の指を組んで、そこに唇を当てた。目を伏せる。祈っていた。師匠が、目を覚ましますように。

 先に返事が来たのは、玉藍様の洞府からだった。酒鶴童子が返事の伝信傍を運んできてくれたのだ。玉藍様は、昨日から出かけていて帰っていないと、彼の弟子の朱李からの返信が記されていた。帰って来たらすぐに伝えると書いてあった。同期からの報せに、目の前が真っ暗になった。

 それからどれくらいしてからかは分からないが、再び酒鶴童子が訪れた。

「なにかあったのかね? 森羅様はどうしたんだ?」
「……ちょっとな」

 俺は巻物を開きながら、慈覚様からの返信を見た。『何かあったのか?』と書いてあった。休む理由を聞かれるとは思わなかった。慈覚様は、そういうことには、あまり興味がなさそうだからだ。

 気づけば俺は素直に、『師匠の体調が悪い』と返信を記していた。いつもだったら、弱味を見せるみたいで、こういうことは書かなかったと思う。だから書いてしまったのは、半ば無意識のことだった。

 伝信傍を渡して、酒鶴童子を見送る。
 今度は、慈覚様からは何も返ってこなかった。

 うとうとしつつ、俺はベッドサイドで、師匠が起きるの待っている。
 玉藍様はまだ帰ってこないのだろうか。どこに行っているんだろう。こんな時に限って。

 俺は飲み物を取りに、一度リビングへと降りることにした。
 そして何度目になるか分からない溜息をついた。その時だった。玄関の扉が開いた。階段を下りた正面だ。顔を上げた俺は、目を見開いた。

 そこには慈覚様が立っていたのだ。どうしてここにいるんだろう?