堂々と師匠が、俺達のそばまで戻ってきた。思わず俺は、安堵した。体の力が抜けてしまった。師匠は、本当にいつもと同じである。そんな師匠を見て、燈焔様が声をかけた。

「血術か? 時空間術だよな?」
「うん。そうだよ」
「あの鏡って、宝貝?」

 玉藍様が問うと、小さく師匠が頷いた。伏し目がちだ。

「まぁね。『夢霞鏡』と言うんだ。本当は、その都度わるんだけど。これも血術で収納してあるから、いくつでも出せる」

 わるという言葉を淡々と紡いだ師匠を見て、俺は背筋が寒くなった。
 わったら、中にいた人はどうなるんだろうか……。
 ただではすまないはずだ。

 そもそも――師匠は、戦えないんじゃなかったのか。
 戦わないだけ、か……。
 しかも、容赦がないみたいだ。やる時は、徹底的にやるのかも知れない。

 それから小さな声で師匠が、俺を見て言った。

「一応、南極がうるさいから『普通に』倒したよ」

 俺は曖昧に頷いた。
 ――普通じゃない倒し方ってなんだ?
 それからすぐに俺はその『普通じゃない』方法を知った。

 師匠は、二回戦目から、ずっと同じ手法で戦っていったのだ。
 相手に幻術をかけたのである。
 その光景は、とても普通とは言い難かった。

 みんな、師匠を前にすると、「参った」と口にするのだ。
 傍目には、何も起きていないのに。師匠なんて、一言も声を出していない。

 俺は、何度目になるのか分からない、師匠の対戦者の「参った」と言う声を聞いた。
 その度に会場中が息を飲んでいる。

 師匠が、言葉を放ったのは、燈焔様と当たった時だった。
 それまでは、いっさい喋らなかったのだ。

「ここなら思う存分やれる。手加減は無しで頼むぞ」

 燈焔様が笑っていた。すると少しの沈黙を挟んでから、師匠が頷いた。

「……分かったよ」

 開始の合図と共に、巨大な龍が出現した。
 橙色の炎で出来ている。
 火は届かないはずなのに、観客席まで熱くなった気がした。

 雪のように火の粉が舞い落ちてくる。これは、また別の術だ。

 ――逃げ場がない。

 俺が固唾を飲んでで見守っていた時、不意に燈焔様が動きを止めた。
 呆然としたように目を見開いている。
 そのまま炎も火の粉も消えた。

 なんだろう?

 燈焔様が険しい顔になった。唇を噛んで、眉間に皺を寄せている。
 具合でも悪いのだろうか。
 明らかに燈焔様が優勢なのに、どうしたんだろう。その時、声が響いた。

「参った」

 俺も含めて観客席中が首を傾げる。
 どういう事だ?
 直後、燈焔様が苦笑した。

「僕にまで幻術だと……? てめぇ、どれだけ……」

 諦観したような声だった。それを聞いて、俺は口を半開きにした。
 嘘だろ……信じられない。これまでの相手にやっていたのと同じ手法で、師匠は燈焔様を倒してしまったというのか。幻術は通常、自分より強い相手には効かないのに……。

 そこへ師匠が淡々と言う。首を傾げていた。

「本気で良かったんでしょ?」
「まぁな……」

 それから燈焔様が吹き出した。こうして、二人の戦いは終わった。

 さて、俺はと言えば、その後も順調に進んだ。
 ただやっぱり、このトーナメントの組み合わせは変だ。俺の側は、圧倒的に弱い仙人や道士ばかりが集まっている。
 だが、準決勝まで来た時、俺は顔が引きつりそうになった。相手が、黒耀様だったのだ。

「やっとまともな相手に当たった」

 会場に降りると、不満そうに黒耀様が言った。俺もそう思うが、正直緊張している。

 試合はすぐに始まった。

 黒耀様は、俺の出方を窺うように見ている。
 動かない。
 さすがに、手強い。

 ここは、先手を取るしかないだろう。

 俺は、ポケットに忍ばせていた宝貝を取り出して、指輪を填めた。
 師匠に貰った宝貝、『元始万象縛』だ。

 すると黒耀様が、眉間に皺を寄せて跳んだ。
 しかしその時には、俺は既に重力を制御していた。
 その瞬間、会場の地面が陥没した。

 公的な場で、俺が宝貝を使うのは、初めてのことだ。

 黒耀様が息を飲んで、頭を地面に向けた。相当な負荷がかかっていることが分かる。そのまま俺は、宝貝に仙気をこめた。
 黒耀様が、地面の上に手をついたのは、五分後のことだった。それまでの間、俺はずっとヒヤヒヤしていた。腕だけで黒耀様は、体を支えている。彼は、強い仙気を体中に纏っている。
 完全に突っ伏したのは、それからさらに十分後だった。

 こんなに人間が、重力にたえられるとは思わなかった。黒耀様の隙をつくことができていなければ、負けていたのは確実に俺だ。

 審判が三十秒数えてから、黒耀様の敗北を告げた。

 俺が重力制御を解除すると、立ち上がった黒耀様が悔しそうな顔をした。

「おさかな洞の師弟にそろってこの俺が負けるとはな……まだまだ修行が足りない」

 そう言って、彼は静かに歩き去った。呆然とその姿を見送っていた俺は、我に返ってから観客席へと戻った。道中では大歓声と拍手を浴びて、気分が良くなった。

 次は――師匠の準決勝の番だった。

 まさか、師匠が残るとは思っていなかった。
 だが、対戦相手の名前を見て、俺は背筋が寒くなった。思わず呟く。

「なぁ……師匠。逃げることは、恥じゃないんだよな?」
「そうだね。少なくとも俺はそう思うよ」
「……ちゃんと、危なくなったらリタイアするんだよな?」
「勿論そのつもりだけど」

 師匠はそう言うと、すたすたと歩いていった。全く動揺は見えない。
 対戦相手は、慈覚様だというのに……。
 これまでの相手とは格が違うことは、俺にも既に分かっている。

「ま、ここまでだろうな」

 近隣の席の誰かが囁くように言った。俺は長々と瞬きしながら、胸中で同意していた。

 下の会場で、師匠と慈覚様が対峙している。
 俺は冷や汗が止まらない。
 その時、慈覚様の声が響いた。

「俺に幻術は効かない」

 静寂を誘う声だった。俺はじっと見守る。
 師匠は少し目を細めた後、わずかに顎を持ち上げた。
 その瞳には、何の感情も見えない。

「君ご時には幻術を使うまでもない。一行で十分だ」

 響いた師匠の声に、俺は息を飲んだ。
 こんな風に挑発的なことを、師匠が言うとは思っていなかったのだ。
 しかし師匠は、まるでそれが真理だというような表情をしている。

「なんだと?」

 あからさまに、慈覚様の声が険しいものに変わった。苛立っているのが分かる。

「昔の俺だと思うな。四行結界でも防げると考えないことだな」

 開始の合図が響く。

 ほぼそれと同時に、轟音がした。
 俺の宝貝で陥没したままだった地面から、いつか授業参観の時に見た、巨大でまっすぐな木の根――幻術の槍が突き出ている。

 『四凶尖』による攻撃だ。

 師匠の周囲に、雷の柱が現れたのは直後だった。「神火柱」という慈覚様の声が聞こえた気がする。煙が上がる。雷で出来ているのに、岩で蓋がしてあった。それから雷は、柱の内部にも現れ、煙に覆われた師匠に向かって何本も落ち、最後には岩が落下した。

 呆然としながら見ていると、会場中に黒い花弁が落ちてきた。
 慈覚様は「常闇地獄」と呟いていた。桜の花びらだと形で分かる。黒い桜など初めて見た。今度は幻術だ。

 その後、影のような桜が会場中に溢れかえった。それが一気に神火柱のもとへと集まる。いつしか渦巻き始めた花びらが、宙で消えていった。すると砂埃の他は何も見えなくなった。

 ――師匠は?

 死んだ場合は、どうなるんだ?
 俺は現実逃避をするように、死んだ場合について考えていた。
 死者が出たなんて話は、一回も聞いたことがないのに。

 次第に砂埃が晴れていく。
 そこにあった姿に、俺は息を飲んだ。師匠が立っていた。平然としている。真っ白な道服姿で、ほつれも何もない。四行結界すら、使った気配がない。

 それから師匠の呟くような声が聞こえた。

「四行・風」

 これは勿論、風の一行を放つための言葉だ。
 別に声に出さなくても良いのだが、言葉にするとその分威力が増すのだ。
 だから先程、慈覚様も宝貝名や術名を声に出していたのだ。

 見守っていると、そのまま慈覚様が倒れた。
 会場には何も起きていないように見えたが、慈覚様は完全に意識を失っているようだ。
 審判が、「意識喪失により続行不可能」と宣言しなければ、すぐには理解できなかったと思う。何が起きたのか、全然分からない。

 場が静まりかえっているというのに、それを聞いてすぐに師匠は歩き始めた。
 まっすぐに階段へと向かっている。
 俺も含めて、みんな拍手さえ忘れていた。