「聞いていたのか……俺は、万象院の弟子だ」

 そう口にして、慈覚様が静かに振り返った。すると背中が見えた。そこには白と黒のオタマジャクシ――太極のマークが描かれていた。俺の手の甲のものとよく似ている。違いは、慈覚様の洞府紋には、マークの外側に、二重に黒い線で丸が描いてあることくらいだ。無意識に俺は、自分の手の甲の布を見る。すると慈覚様が、姿勢を正して俺の手を見た。

「太極印か。随分と目立つ場所にもらったものだな」

 そう言って彼が、右腕のそでをまくった。そこには、俺のものと同じような布がまかれていた。骨張った手で、慈覚様がそれをほどく。すると、今度こそ俺の手の甲と同じマークが現れた。俺は目を見開いた。どうして、同じマークを慈覚様が持っているんだ?

「万象院は――森羅万象院の略称だ。俺は、彼をただ一人の師だと思っている」
「え?」

 響いた声に、俺は顔を上げた。

「俺は名目上、太鼎教主様の弟子だが、森羅万象院に四行五術を教わった。この太極印はその時に与えられたものだ。洞府紋もそうだ」

 慈覚様はそこで言葉を句切ると、俺を透き通るような瞳で、まっすぐ見た。そしてはっきりとした声で続けた。

「無名山虚空洞の洞主――太極府の万象院、即ちそれが、森羅だ」
「万象院様が、師匠……?」
「森羅万象院でさえ正式な名前とは言えないだろうがな」
「で、でも、ぐるぐる山だし……洞府名は無いって」

 狼狽えて俺は、思わず口走った。信じられなかったのだ。どうして師匠は、俺に教えてくれなかったんだろう。するとその時、溜息混じりに、慈覚様が呆れたような顔をした。

「優劣上下に伴い、この和仙界には、瞠若山を中心に四神山が配置されている」

 優劣上下とは、水は火に強いというような、水上火下の事だ。それを思い出していると、慈覚様が続けた。

「地上風下――それは、地風山だ。通称『たつまき山』だ。この名は知っているな?」

 俺が頷くと、慈覚様が続けた。

「風水山が、『ながるる山』で、水火山はそのまま、『すいか山』と呼ばれている。火地山は『ろうそく山』だ。そこに十二の月の名を冠した洞府がそれぞれ三つずつ存在している。それが四神山だ。無論、無名山――ぐるぐる山だったな、あの山のようにこれらの理に属さない山も存在している」

 知らなかった俺は、何度も瞬きをしながら、慈覚様の言葉を考えた。

「名前が、無いか。確かに、無いんだ。だから、無名。そして、虚空なんだ」

 そう言って慈覚様は深々と再度溜息をつくと、険しい瞳で俺を見た。

「これ以上は、詮索するな」

 慈覚様はそれだけ言うと、図書館から出て行った。

 その後俺は、気づくとぐるぐる山の坂道を歩いていた。
 どうやってここまで帰ってきたのかは思い出せない。
 未だ驚きを殺せないまま、俺はとぼとぼと歩いて帰った。

 洞府につくと今日は、師匠が出迎えてくれた。
 この方がいつものことなのに、俺は師匠の顔が見られない。

「どうかした?」
「べ、別に」

 師匠に聞かれた時、俺ははぐらかした。
 中に入ると、相変わらず洞府には、燈焔様と玉藍様が遊びに来ていた。もう夕食の時間だというのに、二人はティラミスを食べている。

「あ、おかえり」

 玉藍様が、まるで自分の洞府であるかのように言う。

「遅かったな」

 それは燈焔様も同様だ。
 俯いたまま頷いた俺の前で、二人が顔を見合わせる気配がした。

「どうかしたの? 暗い顔して。私に話してごらん?」
「元気が無いな。僕も聞いてやるぞ? いじめられたのか?」

 二人の声に、俺は思案した。慈覚様の言葉を思い出す。悩んでいた俺の前に、師匠がティラミスと紅茶を差し出した。両手の指でカップに触れると温かかった。
 俺は師匠の顔を反射的に見た。いつもと変わらない。
 それを見ていたら、言葉が口をついて出た。

「師匠……ぐるぐる山は無名山なのか?」

 すると師匠が俺を見た。首を傾げている。

「おさかな洞は、虚空洞なのか?」
「どうしたの、いきなり」

 師匠がソファに座りながら、淡々と言う。俺は泣きそうだった。慈覚様には教えているのに、どうして俺には教えてくれないんだろう。

「師匠、教えてくれ」

 すがるように告げると、師匠が再度首を傾げた。

「まぁ、そう呼ぶ人もいるけれどね。正確には、名前は無いんだよ」
「――え?」
「前にも言ったと思うけど。特に名前は無いって。だから無名の山、無名山と呼ぶ人もいる。無は虚空に通じるんだけど、一応洞府が存在しているから、無ではないし、虚空って呼び始めた人がいてね。それで虚空洞。他には、太極府って呼ぶ人もいるかな。けど、正式には、前にも言った通り、名前はないよ。しいて言うなら、ぐるぐる山だし、今はおさかな洞っていう名前があるという事になるけどね」

 師匠はさも当然だという顔で口にした。別に隠すでもなんでもなく、純粋にそれがどうかしたのかという顔をしている。
 今度は俺が首を傾げた。

 ――名前が、無い。

 では、師匠は嘘をついていた訳じゃないのか。
 秘密にしていたわけでもないのか……?

「師匠は、その……森羅万象院って言うのか? 教科書を作ったのか?」
「一応ね。ただ長いから。森羅って名乗ってるけど。ただ、『羅』って書くより、万象院の方が楽だから、筆名は万象院だね」

 そんな理由だったのか。俺はポカンとした。
 その時、燈焔様が、ソファにふんぞり返って笑った。

「やっぱりなぁ。そうだと思ってたんだよ」
「だよねぇ。環くんは、さっき図書館で慈覚に聞いたの? いじめられなかった?」

 二人の声に、驚いて俺は眉を顰めた。

「そ、そうだけど。何で慈覚様とのことを知ってるんだ? それに師匠のことを、分かってたのか?」

 すると燈焔様が吹き出した。

「いや、僕達だって会議に出てたからな。当たり前だろ。終わってからここに来たんだよ。帰り際に見かけたから、もしかして確証を得てくるんじゃねぇのかと思ってたわけだ。なにせ、予想できても証拠はなかったからな」
「ね。有象無象図ってどう考えても森羅万象図と機序が同じだし」

 やれやれという顔で玉藍様が言う。

「だよな。出てくるものが、有象無象なだけだ。そもそも、森羅くらい実力がある許仙なんかいねぇよ。レベルがおかしい。少ねぇからな、力のある仙人は。僕と互角に戦えそうで、黒耀を倒せる仙人なんて、それこそ消去法で二人しか考えらんねぇだろ」
「そうそう。私も燈焔も顔を知らない実力者なんて、兆越と万象院様くらいだったからね。奇染は顔知ってるし。兆越が和仙界の、それも学校の中なんか堂々と歩けるわけ無いもん。万象院様以外考えられなかったね」
「じゃあ二人とも最初から気づいてたのか? 師匠が、万象院様だって」
「いや。洞府紋から推測してからだな、僕の場合は」
「私はカプセルについて考えていて、その結論になったよ。兆越が医学知識に秀でているとは聞かなかったし」

 彼らの言葉を、師匠はぼんやりとした顔で聞いていた。何も言わない。

「ただし僕に、確証はなかった」
「私は、本人が言わないなら、無理に知る必要はないかなって思ってね」

 頷いてから、俺はふと疑問に思って口を開いた。

「兆越っていうのは、誰なんだ? それに、奇染」
「まぁ兆越は学校で習っただろ。悪のすごい仙人だな。奇染は、あれだ。離山して今はここにはいないすごい仙人だ。奇染は、俺と玉藍に歳が近い。同期ではなかったけどな。で、兆越に関しては、僕も玉藍も事変の時はまだ子供だったから分からん。今のお前と同じくらいの歳だった。だから詳しいことは知らないんだ。丁度今の僕とか玉藍と同じくらいの歳で経験したのが、慈覚だ。まぁすごく年上って事だな」

 燈焔様の言葉に、玉藍様も頷いた。

「まぁ気にしなくて良いよ」

 そうは言われても、慈覚様と師匠の話を思い出すと気になる。
 だが、図書館で言われた、これ以上詮索するなという声が脳裏を過ぎった。
 その時、燈焔様がニヤリと笑った。

「万象院様の弟子になれるなんて、名誉なことなんだぞ。良かったなぁ、森羅に拾ってもらって」
「本当、羨ましいよ。私でさえ、弟子にして欲しいくらいだね! 私、万象院様の大ファンだって何度も言ったでしょう? あ、今度サインして」
「嫌だよ。面倒くさい」

 師匠はそう返してから、俺を見た。

「まぁ、俺は俺だよ。それ以上でも以下でもない」
「……俺にとっても、師匠は師匠だ」

 必死で俺は口を開いた。すると優しい顔で、師匠が微笑んだ。

「さて、夕食にしようか。二人はそろそろ帰って」
「あー、僕も食べていきてぇな」
「私も私も」

 こうしてその日は四人で食事をした。なんだか、温かかった。

 最初は、伝説の仙人と言われている万象院様だと思うと、もっと礼儀正しくしなきゃならないのか、だとか余計なことを考えたのだが、燈焔様や玉藍様の態度を見ていたら、そんな考えは吹き飛んだ。そもそも、師匠は師匠なんだから、今まで通りで良いのだ。
 まぁ俺は、二人のように、師匠に「お菓子を持ってこい」なんて命令はしないけどな。

 それ以後の日々も、ほぼ入り浸りで、燈焔様と玉藍様は遊びに来た。俺は学校から帰ってきた後、修行をする合間に、よく構ってもらった。
 その内に、ぐるぐる山には、本格的な春が訪れた。

 ――ちなみに、今でも俺は、ぐるぐる山のおさかな洞の門下生だと名乗っている。

 名前が無いより、ずっと良い。俺は、この名前が好きだ。大好きだ。

 春がめぐってきた時、俺は三年間の学生生活を終えた。九歳で、俺は認定道士となったのだ。まだまだ学ぶことばかりだけどな!