すると……いつもと違って、師匠が出迎えてくれなかった。

 どうかしたのだろうか。いつもより遅いからか?
 俺は、変に思いながら中に入った。静かに廊下を進むと、リビングの扉が開いていた。ここはいつも、少し開いているのだ。

 話し声が聞こえたので、開いていた扉の隙間から中をのぞく。お客様がいるらしい。
 だから出迎えてくれなかったのかもしれない。手が離せないんじゃないだろうか。
 今までには、こういうことは一度もなかったけどな。
 
 そういうことなら邪魔をしては悪いだろうからと、俺は話の内容に耳を傾けることにした。雑談だったら、中に入ろう。深刻そうだったら、外に出て少し時間を潰そう。

「――お前はいつだってそうだ」

 しかし響いてきたのは、怒気を含んだ低い声だった。
 見れば、そこにはなんと……慈覚様の姿があった。
 驚いて息を詰める。

 あまり師匠とは仲が良くないと勝手に考えていたのだが、遊びに来たのだろうか……? いいや、違う。慈覚様は、師匠の襟元を掴んでいた。緊迫した空気がこちらにまで伝わってくる。師匠は壁に背をピタリと預けて、顔を背けていた。
 白いYシャツに灰色の下衣、黒いネクタイをしている慈覚様は、この前とは印象が違う。しかし眼差しは、この前よりも、忌々しいものを見るように鋭かった。

「離してもらえる?」

 ポツリと師匠は呟いた。だがその声にかぶせるように、慈覚様が続ける。

「兆越の時だってそうだった」

 師匠が黙り込んだ。相変わらず床を見ている。

「分かっていてクーデターを見逃したんじゃないのか? 今回も、兆越を手引きしたんじゃないのか? この前の件は、間違いなく兆越が関係している。幻術が絡んでいた。底怪を手引きした人間は兆越と繋がっている。お前の他に、今の和仙界にそんな奴がいるか?」

 やっぱり師匠は何も言わない。俺はと言えば、聞こえてきた言葉を理解しようと必死になった。クーデター? それに兆越? 兆越って確か、和仙事変の……。

「奇染が離山した時もそうだ」

 師匠が目を伏せた。そして深々と溜息をつく。奇染とは、誰だろう?

「……離して。忙しいんだ」

 そう言って師匠が目を開けた時、激しい音がした。思わず俺は、体を硬直させた。ドンと慈覚様が壁に手をついたのだ。空いていた方の腕を伸ばしている。そして睨むように師匠を見下ろしている。師匠は、耳のすぐわきにある慈覚様の腕を一瞥してから目を細めた。

「話を逸らすな」

 強い慈覚様の声に、見ていた俺は息を飲む。

「まさか幻術を教えるつもりじゃないだろうな?」

 師匠はと言えば、僅かに不機嫌そうな顔になった。慈覚様が続ける。

「いいかげんにしろ」
「君にとやかく言われる筋合いはない」
「ふざけるな!」

 再び慈覚様が壁を叩いた。激しい音がした。今度は、壁にひびが入った。俺は、あまりの気迫に出て行けない。俺の角度から見える慈覚様の横顔は、真剣だった。

「師匠!」

 慈覚様の放った言葉に、俺は目を見開いた。森羅様が間をおかずに言う。

「俺は君の師匠じゃない」

 すると、慈覚様が一瞬、悲痛そうな顔をした。それから何か言いたそうな眼差しを師匠に向けた。どこか悲しそうでもあり、だが怒っているようでもある顔だ。そのまま今度は慈覚様が沈黙した。
 一方の俺はと言えば、響いてきた言葉を脳裏で繰り返していた。

 ――師匠ってどういう事だ?

 その時、師匠が慈覚様の胸を押すのが見えた。

「だから、いいかげん離してほしいんだけど。弟子が帰ってきたみたいだから」

 その声に、息を飲んで慈覚様が振り返った。目が合った俺は、会釈も忘れて呆然としていた。慈覚様は少しの間、俺をじっと見ていた。それから顔を背けた。

「……兎に角、幻術を教えることは認められない」

 歩き始めた慈覚様は、すれ違いざまに俺に言った。

「邪魔をしたな」

 そう口にして、玄関へと消えた。扉の音が響いてくる。困惑したまま、俺は師匠を見た。
師匠はそんな俺を一瞥すると、細く吐息する。

「遅かったね。夕食にしよう」

 そして、いつも通りの表情になった。俺は……師匠に何も、聞けなかった。

 考えがまとまらないまま、ぼんやりと食事をした後、その日俺は、一人で眠ることにした。いつもは師匠と寝ているから、久しぶりだった。寝て、全て忘れてしまおうと、どこかで考えていた。

 翌日、しかし俺は、勿論昨日のことを覚えていた。
 だから授業には全然身が入らない。
 気づくと放課後になっていた。すると下駄箱の所で、青鼠に声をかけられた。

「そういや、昨日の話なんだけど。醒宝様に聞いたこと、燈焔様と洞府に来てた玉藍様に話したら、今度は時生先生に聞けって。授業参観の時、何か知ってるっぽかったからって」

 なるほどと思い、俺は頷いた。靴を再度下駄箱にしまう。それから二人で、時生先生を探しながら歩いた。そうしていると、青鼠に聞かれた。

「なんか昨日は、おさかな洞に入れなかったって師匠に聞いたけど、何かあったのか?」

 俺は、何も言えなかった。多分、師匠が入れないようにしていたんだろう。慈覚様が来ていたからかも知れない。

 時生先生は、一年生のクラスで資料整理をしていた。既に生徒の姿はない。
 単刀直入に俺は、「森羅様のことを知ってるか?」と聞いた。すると時生先生が目を丸くした。青鼠が続ける。

「森羅様って学校の先生だったんだろ?」

 時生先生は青鼠の声に、懐かしむように目を伏せた。口元には笑みが浮かんでいる。

「ああ――俺と、この前来ていた慈覚は同期でな。その時、森羅先生に習ったんだ」
「え? 先生の方が、慈覚様よりも老けてるぞ? 森羅様は一番若く見えるし」

 青鼠の声に、時生先生が咳き込んだ。俺はと言えば、『師匠』とは『先生』という意味だったのだろうかと考えていた。その前で、つらつらと回想するように時生先生が続ける。

「後は他の奴ら……兆越もいた。兆越なら森羅先生の事をもっと――」

 そこまで口にしてから、ハッとしたように時生先生が俺達を見た。

「いいや、なんでもない。忘れてくれ」
「先生、それって事変の……」

 青鼠が首を傾げると、強い声で時生先生が言う。

「忘れるんだ」

 兆越――昨日も聞いたな。俺は思わず眉間に皺を寄せた。どういう関係なんだろう?
 俺は師匠のことを信じている。だけど師匠は犯罪者と関係があるらしい。
 それ以上は、時生先生は何も教えてくれなかった。

 だから青鼠と二人で、再度玄関へと向かう。
 校門を出た時、ふと彼が思い出すように口を開いた。

「万象院様なら、何か知ってるかもな」
「万象院様?」
「醒宝様とも関係があるし、洞府紋も関係してるんだろ?」

 その言葉に、確かにそうだと俺は思い立った。
 翌日も俺は、師匠に遅くなると伝えた。そして、初めて明星宮の図書館に行ってみることにした。学校にも図書館があるのだが、万象院様が書いた本は、教科書と絵巻しかなかいと愉楽先生から聞いたのだ。万象院様が書いた文献は基本的に明星宮に保管されているらしい。南極の依頼で執筆したと聞いた。

 明星宮にいくと、『十二玉仙会議・二階』という看板が出ていた。階段のそばに立てかけてある。図書館も二階だから、静かに象牙の階段を上る。
 明星宮の図書館には、万象院様の書いた本が沢山あった。その内の一冊を手に取り、表紙をめくるとプロフィールが書いてあった。『著・万象院』とある。そして、『無名山虚空洞・洞主』と書いてあった。ここが、太極府の事なのだろう。それしか書いていなかった。他には、別の文献名が記されているだけだ。もっと詳しい本はないのだろうか?

 周囲を見渡していると、開け放された扉の向こうに、歩いている慈覚様の姿が見えた。
 会議が終わったのだろう。先日のことを思い出して、俺は思わず溜息をついた。
 すると不意に慈覚様が顔を上げた。息を飲んだ気配がした。俺も焦った。

 直後俺は彼の目に射抜かれたように、動けなくなった。
 ドクンと嫌な胸騒ぎがした。慈覚様の翡翠色の瞳が、じっと俺を見ている。
 彼の黒髪が揺れた時、我に返った。

 慈覚様が、まっすぐこちらへ向かって歩いてくる。逃げ出したい気分になった。

 だが……思い直した。慈覚様ならば、多分師匠について知っている。そう確信していた。直接、聞いてみよう。俺はどうしても師匠のことが知りたかった。

「何をしているんだ?」
「ちょっと調べものを……あ、あの!」

 俺が声を上げると、慈覚様が小さく首を傾げた。俺は勢いをつけたまま言葉を続ける。

「師匠と慈覚様ってどういう関係なんですか?」

 慈覚様は俺の声に、片目だけを細めた。それからたっぷり沈黙を挟むと、目を閉じた。

「別に。お前には関係ない」

 氷のような声音だった。冷たい言葉に、俺は何も言えなくなった。しかしここでひるんではいけないと、拳を握って気合いを入れ直す。

「この前、洞府で、森羅様のことを『師匠』って言ってた」

 俺が言うと慈覚様が短く息を飲んだ。それから、俺を睨むように見た。