校庭にいた仙人達が、次第に後退っている。既に結界の中に入ってきている仙人も大勢いた。

 ――師匠は?

 俺は必死で周囲を見渡した。いない。
 慌てて再び、校庭の中央を見る。先程までと同じように、師匠はそこに立っていた。現在、底怪の真正面にいるのは、燈焔様と師匠だけだ。
 二人の一歩後ろに黒耀様がいて、さらにその後方に玉藍様の姿が見える。

 残ったのは、師匠の他はみんな最上仙だけだ。彼らはすごいはずだ。師匠は違う。
 早く逃げてきて欲しい。
 思わず俺は叫びたい衝動に駆られた。

 だが黒耀様の声が聞こえてきたので、声を上げる前に耳を澄ませてしまった。

「燈焔様、これは……」
「終南山から『照妖鏡』を借りてきた方が良いのは確かだな。少なくとも属性の一つは水だろうが――『無定型』だ。『無』が絡んでるのは間違いねぇだろ」
「『無』かぁ……燈焔、これってさ、『第一級災害指定レベル』じゃないの?」
「だろうな。間違いなく、明星宮の討伐隊が出る相手だ。雑魚じゃねぇぞ」
「南極様なら気づいてると思うけど、討伐隊待つ?」
「その余裕と時間があれば、な!」

 言うと燈焔様が跳んだ。見ると、黒耀様と玉藍様も左右後方に跳んでいる。
 え、師匠は? 俺が焦った時、師匠が右手の指で唇を撫でた。師匠は何も言わずに正面を、見据えている。目を細めて、顎を少し持ち上げていた。

「逃げろ、馬鹿!」

 動かない師匠の姿に気づいて、燈焔様が声を荒らげた。
 俺は嫌な汗をかいた。逃げない師匠の所に、燈焔様が戻ったのを見る。
 師匠を助けてくれ! 声は出さなかったけど、俺は心の中でお願いした。

 ジュワっと音がしたのはその時だった。
 師匠が溶ける。溶けちゃう!
 思わずきつく目を閉じた。静まりかえっている周囲が怖い。

 燈焔様の呆然とした声が響いてきたのはその時だった。

「四行結界だと?」

 驚いて目を開けると、いつも通りの表情に戻った師匠が、燈焔様に向かって頷いていた。師匠は、やっぱり逃げるでもなく、底怪を見据えている。

 ――四行結界ってなんだ?

 困惑して知っていそうな先生達を見ると、愉楽先生と目があった。
 先生が早口で呟く。

「すごいですね。そんな場合ではないのは分かりますが、よく見ておいた方が良いですよ。四行結界は、めったに見られるものではありませんから」

 その声に、青鼠が振り返る。彼もまた、先生に視線を向けた。

「何なんだ? それ」
「普通の結界は、ここにはってある通り、四行の内の一属性を使う、一行結界です。一行、あるいは二行結界が主流なんです。三行結界は、高仙でも大半の者は、はることが困難です。四行結界など、それこそ最上仙の幾人かが展開できるレベルの代物なんですよ」

 愉楽先生が、興奮気味に続ける。

「四行結界は、三行結界までとは格が違います。四行結界は、全属性の攻撃を止めることが出来ます」

 先生は、独り言のように語っていた。目が輝いている。

「無……各属性が混じり合って判別が困難な『無』の定型であっても、『無』の非定型ですらも、四行結界ならば効果があります。それも……あのように大規模な四行結界を……信じられません……」

 そんなにすごいものを、師匠は使えるのだろうか?
 俺は、校庭へと視線を戻した。燈焔様の声が響いてくる。驚いているようだった。

「てめぇ、何者だ?」

 師匠は答えない。
 燈焔様はじっと考え込むように師匠を見た後、すぐに意識を切り替えたようで、底怪に向き直った。師匠の隣にしっかりと立っているのは変わらない。

「まぁ良い。話は後だ」
「どうするの、燈焔……私は何も出来ることがないからね」

 そこへ遠慮がちに、玉藍様が声をかけた。

「僕にもあるか不明だけどな。間違いなく、水が入っている以上、俺の火じゃ相性が悪すぎる。無に属する水が相手じゃ、属性ごとの優劣上下は、間違いなく『水上火下』だ。俺が負ける。少なくとも、他の五行を俺達が使ったとしても、変わらないだろうな。生半可な四行では、優劣が無意味になるから、どのみち倒せない」

 この前復習クラスの座学で習った、『水上火下』の組み合わせを、漠然と思い出した。

「燈焔様、俺の体術なら――」
「止めとけ。あれは、酸をまき散らしてるだろ」
「通常の酸なら、仙気で――」
「『通常』の酸なら、な。迂闊に『無』に手出しすべきじゃねぇのは、分かってんだろ?」
「ですが、このままでは……」

 黒耀様が、俺達を一瞥してから、悔しそうな表情をした。
 その間も、師匠がはった四行結界に底怪は体当たりをしている。触れた箇所が溶けている。結界はびくともしないから、底怪自体に酸がはねかえって、底怪の体の方が溶けているのだ。蟲達は、結界にふれると消滅していった。白い粉になって、パラパラと地面に落ちていく。

「何か策はあるか?」

 燈焔様が師匠を見た。師匠は静かに目を伏せている。

「無いこともないけど、必要ないんじゃないかな」
「どういう意味だ?」

 首を傾げた燈焔様に向かい、目を開いた師匠が、溜息をついた。その時だった。

「四凶尖」

 はっきりとしているのに、水のように静かで、静寂を誘う声が響き渡った。
 直後、地面から無数の木の根――それこそ槍のようなものが空高く突き出てきた。
 いっきにそれが、底怪の体を貫く。黒いドロドロが周囲に飛び散った。

 俺の隣で、青鼠が呟く。

「何が起きたんだ?」
「慈覚様の宝貝、『四凶尖』だ。あ……」

 逆隣で泰岳が声を上げた。視線を追うと、校門から中央へと向かい、悠然と歩いてくる青年が見えた。二十代後半に見える。

「『四凶尖』って、噂の? 万象院様が作ったとかって言う話の……?」

 青鼠が泰岳を見る。すると泰岳が頷いた。慈覚様は、泰岳の師匠だ。
 泰岳が続ける。

「あの槍は、『幻術』だ。ただ、仙術で四行の全属性が付加されている。槍自体は幻術だから、絶対に折れないんだ。敵から触れることも出来ない。ただ、仙術の力で、槍側からは、物理的に攻撃できる。それで八つ裂きにしたんだ」

 泰岳の声に、俺は息を飲んだ。なんだかすごそうだ。
 すると一歩後ろで、深愁が口を開いた。

「四属性を帯びているから、無にも効くんだよね? 『神火柱』と並ぶ、慈覚様の二大宝貝だ……すごい。慈覚様自体、めったにお会いできない聖四大仙のお一人だし……」

 感動している深愁の隣では、一言も発せず朱李が震えている。素直な反応だ。俺も正直、震えそうだし。みんな、怖くないのだろうか……。

 それから気を取り直して、俺は視線を戻した。
 そして師匠達に慈覚様が歩み寄るのを見た。慈覚様は白い道服で、クリーム色の下衣だった。戦闘の後だというのに、汚れ一つ無い。
 師匠の服に少し似ていた。地味なのに、上質そうだからかもしれない。
 慈覚様は、険しい表情で、じっと師匠達を見ている。周囲には静寂が広がっていた。

「……何故ここにいる」

 慈覚様の声が冷たさを増した。凍てつくようだった。その言葉に、燈焔様と玉藍様が顔を見合わせたのが分かる。

「何故かと聞いているんだ、森羅」

 師匠の名前が出たことに、俺は驚いた。

 他の人々が視界に入っていないかのように、慈覚様は鋭い眼差しを、まっすぐに師匠へと向けている。彼の眉間には、深い皺が刻まれている。迫力がある。怖い。しかし恐れた様子もなく、師匠は何も言わずに、静かに瞬きをしている。

 その後しばらくしてから、溜息をつき、ようやく師匠が慈覚様に向き直った。

「弟子の授業参観だよ」

 師匠は敬語を使わなかった。燈焔様や玉藍様に対しては、最初に会った時には使っていたのに。二人よりも慈覚様の方が偉いはずだ。なのにどうして、敬語じゃないんだろう。もしかして、知り合いなのだろうか? 聖四大仙の一人と?

「弟子?」

 沈黙を挟んでから、慈覚様が怪訝そうな声を上げた。
 そして退避しているこちらの大勢の方を見た。
 ――いいや、俺を見た。

 慈覚様は、多分一目で、俺が森羅様の弟子だと分かったのだと思う。
 俺の直感がそう言った。だから咄嗟に頷きかけた。しかし目で射すくめられていて、俺は動けなかった。慈覚様の眼差しが怖い。背筋をひやりとしたものが這い上がる。それは底怪に感じた恐怖とは違うのだが、やはり震えを呼び起こすものに感じられた。

「――桃源仙道宮に底怪が現れるのは奇妙だ。それも、この規模のものが」

 慈覚様が、視線を師匠に戻した。

「何者かが手引きした可能性が高い」

 目を細めて、慈覚様が師匠を睨め付けた。

「まさか、お前じゃないだろうな?」

 師匠に向けられた意外な言葉に、俺は目を瞠った。師匠が? どうして? 慈覚様は、何故こんな事を言うんだろう。周囲のみんなが、困惑している気配がした。しかし俺同様、言葉を発して口を挟めないし、視線も離せないみたいだ。空気が凍りついているから、体が動かないのだ。

 師匠は何も言わない。静かに目を伏せている。

 どうして反論しないんだ?
 俺は、絶対に師匠はそんなことをしないと、確信していた。

「まぁまぁ、その辺にしておきなよ」

 そこに朗らかな笑み混じりの声が響いた。ゆったりとした声音に、周囲の空気が一気に和らぐ。見れば、南極の姿があった。南極の血術は、瞬間移動術だと聞いている。おそらく底怪の気配を感じて、ここへとやってきたのだろう。そんな南極の姿に、我に返った後で、今度は多くの仙人が、深々と頭を下げた。

「森羅には、さ。そんな時間は無かったんじゃない? 何せ授業参観に来ていたんだし。事前に手引きしていたとしたら、気づかないわけ無いでしょ。少なくとも、この俺が。最中に手引きするのも、最上仙が三人もいたんだから、無理と考えるのが筋でしょ」

 慈覚様は何も答えない。師匠はと言えば、底怪の遺骸に視線を向けていた。

「それにしても慈覚、ここに着くのが俺より早いなんて、どうしたの?」
「南極……俺を疑っているのか?」
「嫌だなぁ、そんなんじゃない。他意は無いって。寧ろ、褒めてる」

 南極が笑顔で言うと、顔を背けて慈覚様が細く吐息した。

「俺も授業参観だ。仕事で遅くなったが、弟子の参観日に来るのは当然だろう」

 慈覚様のその声が響くと、俺の隣で泰岳が嬉しそうに頬を染めた。

「お師匠様……来てくれたのか……」

 このようにして、授業参観は終わりを告げた。

 ――それにしても、師匠って、何者なんだろう?

 考えさせられた一日だった。

 だけど師匠がすごい人だって言うことは、前から知っていたし。俺は変わらず師匠のことが大好きだ。森羅様の弟子で、俺はとても嬉しい。