俺がおそるおそる師匠を見ると、相変わらず師匠は無表情だった。やる気が見えない。しかし何を言うわけでもない。

「前へ出ろ」

 無言で師匠が前へと出た。
 校庭の中央には、石灰で白く巨大な円が描かれていた。その周囲を観衆が取り囲む。俺は、玉藍様と燈焔様の間から、師匠を見た。不安だ。なにせ相手は強そうだ。

 俺が心配していると、燈焔様が腕を組んだ。思わず俺は、彼を見る。

「大人げない奴だな」
「言っちゃ可哀想だよ。黄禄だってさぁ、やっぱり勝ちたいんでしょ」
「そりゃそうだろうが。黄禄は、本物の『鍛錬披露会』でも体術の上位だ」
「まぁねぇ」

 外見は黄禄様よりも、二人の方が若いのだが、話しぶりからするとそうとは思えなかった。それよりも俺はすごくすごく悲しくなった。相手はやっぱり強いのだ。
 師匠は、大丈夫だろうか。怪我などしないと良いのだが。師匠の無事を祈っていると、時生先生が、「はじめ」と開始を告げた。

「かかってこい」

 揶揄するように、黄禄様が言った。笑っている。
 すると師匠が、淡々と言った。

「目を閉じてもらえるんだよね?」

 師匠の声に、一瞬虚をつかれたような顔をした後、黄禄様が吹き出した。
 そして目を伏せて、口元に弧をはりつける。

 その瞬間だった。

 師匠の姿が消えた。見れば、黄禄様の背後に回った師匠が、背中に掌をついていた。
 俺がぼけっと見ている前で、黄禄様が目を見開き膝を地面についた。両手もついている。彼は呆気にとられたように、首を動かした。師匠を凝視している。

「勝者――……森羅様!」

 時生先生の声が響く。ぐるぐる山と洞府名は言わなかった。覚えていないのかも知れない。有名じゃないから、忘れているのかもしれない。教室内で発表していた時は、みんなの洞府名を口にしていたんだけどな。

 周囲は、静まりかえっている。

 俺は体術を教えてもらった時に見ていたから、全然不思議ではなかった。
 それから拍手がもれる。
 燈焔様が手を叩いたのだ。燈焔様は、明るかったそれまでとは異なり、少し真剣な目をしていた。口元は笑っていたんだけどな。その後、静かな声で呟いた。

「速ぇな」
「時空間移動術とか瞬間移動術? でもそう言う気配は無かったし、少なくとも宝貝でも無いみたいだったけど」

 玉藍様が腕を組んでいる。二人のやりとりに、俺は顔を上げた。
 彼らは、どちらも考え込んでいる様子だ。

「いいや、体術だろ。間違いねぇな」
「黄禄が手加減したようにも見えなかったけどね」

 二人の小声は、周囲には届いていないようだ。俺だけが聞いていた気がする。
 なぜなら周囲の視線は、黄禄様に集中していたからだ。
 戻ってきた黄禄様に、他の仙人達が、「手加減してあげるとは!」なんて声をかけている。黄禄様は答えず、引きつった表情で笑っていた。師匠も戻ってきたが、相変わらずいつも通りの顔で、余裕そうだった。汗一つかいていない。

「ええ、次は――」

 場の空気を切り替えるように時生先生が言った。
 すると俺の後ろから、スッと黒耀様が前に出た。

「俺がやる。相手は……森羅といったな、よろしく頼む。前へ出ろ」

 俺は息を飲んだ。また師匠だ……! だが胸が苦しくなった。だって、黒耀様といえば、この和仙界一の体術の使い手だ。大丈夫だろうか。師匠の様子を窺うと、小さく頷いていた。全然表情は変わらない。

 それから二人が、円の中に入った。それを確認してから、「はじめ」と、再び時生先生が言った。瞬間、後ろに跳んで、黒耀様が距離を取った。真剣な表情で、眼光が鋭い。

「あーあー、黒耀本気じゃん」

 見守っていると、呆れたように玉藍様が口を開いた。
 燈焔様は、じっと正面を見たままだ。俺も視線を戻す。

 すると黒耀様の姿が消えた。驚いてから、俺は上に高く跳んでいる黒耀様を見つけた。速すぎて全然見えない。直後、地面に亀裂が入った。抉れていて、土が舞う。校庭の地面はすごく固いのに。

「……よく避けたな」

 黒耀様の声で我に返った俺は、師匠が亀裂から少し離れている所にいるのを見た。師匠は襟元に手を当てて、布を引き上げている。砂埃が舞っているからかもしれない。
 続いて黒耀様が、手刀を繰り出した。

「お、入っ――」

 それを見ていた燈焔様が言いかけた時だった。

 今度は師匠の姿が消えた。

 目をこらすと、師匠はやっぱり黒耀様の後ろにいた。そして、手で背中を押した。黒耀様は倒れなかったが、目を見開いている。息を詰めて、地面に視線を向けている。汗がこめかみを伝っていくのが見えた気がした。

「参った」

 黒耀様が呟くように言った。俺はポカンとした。周囲では、誰も何も言わない。静まり返っている。皆、唖然としている様子だ。

「……勝者! 森羅様」

 最初に気を取り直したのは、時生先生だった。先生はさすがだ。いつも冷静に対処するのだ。俺の心も、時生先生の声で、冷静さを取り戻した。
 師匠が勝った。勝ったのだ!
 嬉しくなって、俺は思わず笑顔を浮かべて、師匠に手を振る。

 先に戻ってきた黒耀様は、何度も師匠を見ていた。

「黒耀も手加減って言葉、知ってたんだね」
「いや……」

 玉藍様が、笑み混じりに溜息をついた。だが彼に向かって、黒耀様が小さく首を傾げて否定した。

「……」

 そして難しい顔で黙り込んだ。だが俺は気にせずに、無事に帰ってきた師匠の腕に手を絡めた。胸が躍っている。本当に嬉しい。

「やったな! 師匠、おめでとう!」

 すると口元の布を緩めながら、師匠が目を伏せた。

「いいかげん、疲れたよ。もう今日は何もしたくない」
「まぁそう言うなって。次は僕と、な! 良いだろ、時生先生。次僕な! 相手は森羅で!」

 そこへ明るい声が響き渡った。そこでは燈焔様が、腕をまっすぐに伸ばして手を挙げている。それから俺は、師匠に視線を戻した。師匠は、わずかに目を細めている。

「ま、よろしくな!」

 楽しそうな燈焔様の声がした。小さく頷きながら、師匠が再び前に出る。
 二人はそろって円の中に入った。
 周囲はこれまでとは異なり、緊迫した静けさで、じっと師匠達を見ている。

 時生先生が開始の合図をした。

 瞬間、円の周囲を炎が渦巻いた。壁のように立ち上る炎を俺は見上げた。すごく熱い。火の粉が風で舞っている。二行……だろうか。こんなに大きな火を、俺は初めて見た。
 ――どうするんだろう、師匠。
 そう思っていた時、火が、炎の形のまま凍りついた。俺は首を傾げる。氷は火で溶けると思うのだ。火が凍るなんて、初めて聞いた。氷の隙間から、師匠達が見える。

「へぇ。さすが」

 楽しそうな顔で、燈焔様は笑っていた。すると、氷の壁に黒い亀裂が入った。なんだ? じっとみると、氷が消えて、かわりに、黒い壁が揺らめいた。黒い炎だった。黒い火なんてあるのか。闇夜よりも暗い漆黒の炎をまじまじと見る。師匠も周囲の火を一瞥していた。これも燈焔様の術らしい。

「で、どうする?」
「俺の負けだよ」

 師匠が静かに言った。なんだか負けてもいい気がした。だって、見るからに禍々しい。むしろ怪我が無くて良かった。

「――僕は別に、手加減してくれとは頼んでねぇぞ?」

 すると黒い火が消えて、フッと吐息に笑みをのせた燈焔様が見えた。

「別にそういうつもりじゃないよ。俺の方こそ手加減してもらったみたいだけど」
「僕とお前が本気でやったら、まぁ、この学校はもたねぇだろうからな」

 その声に、二人のやりとりも見守っていた玉藍様が、腕を組んだ。

「ふぅん。燈焔にあそこまで言わせるってすごいね」
「貴方も直接、あの森羅という仙人とやりあってみたらどうだ?」

 静かな声でポツリと黒耀様が言った。すると穏やかに玉藍様が笑う。

「いやぁ私はインドアだからね。基本的に、戦わないよ」

 基本的に? 俺は首を傾げた。
 玉藍様と黒耀様がそんなやりとりをしている所に、師匠達が並んで戻ってきた。

「いやぁ、すごかったな! 僕は楽しかったぞ」

 そう言うと、燈焔様がバシバシと師匠の肩を叩いた。師匠がちょっとだけ嫌そうな顔になる。しかし燈焔様は非常に楽しそうにしている。