一枚のプリントが配られたのは、ぐるぐる山に冬が訪れた頃だった。
 山の入り口を出てしまえば暖かいから、俺はいつも道中で外套を着たり脱いだりする。
 雪が一面に積もっているのだ。

 靴は普通のスニーカーだから、最初は転びそうになった。でも今は、一行の水で防水しつつ、仙気を込めて歩いているから平気だ。

 道中、歩きながら愉楽先生の言葉を思い出した。

「二人とも、ちゃんと師匠に渡して下さいね」
「うわぁ、面倒」

 青鼠が目を細めると、溜息をついた。初めて経験する俺は、まじまじとプリントを見る。それから帰り際に尋ねた。

「何をするんだ?」
「別にいつもと大差ありませんよ。ただし、二年に一度の大切な日です。くれぐれも休まないで下さいね。欠席したら、留年も覚悟して下さい」
「嘘だろ。全然いつもとは違う。あー、だるい」

 意識を現実へと戻しながら、嫌そうだった青鼠の顔を思い出した。

 洞府に戻ると、師匠が雪かきをしていた。師匠が出迎えてくれるのは、どんな季節でも変わらない。今日の師匠は、少し眠そうな顔をしていた。珍しい。昨日もいつもと同じ時間に一緒に眠ったんだけどな。

「おかえり。寒いね。今日はお汁粉だよ」

 つぶあんを思い出して、俺は頬をゆるませた。

 中に入ると、エアコンから暖かい空気が出ている。だから必要なさそうだけど、室内には、他にストーブとこたつがある。一応この二つも稼働している。
 師匠は設置理由について、「雰囲気だよ」と言っていた。ストーブの上には、ヤカンがのっている。こたつに入ると、いつも俺は眠くなってしまう。

 お汁粉を食べながら、俺は思い出して、師匠にプリントを渡した。

「師匠、これ。学校から」
「学校から? 珍しいね」

 ソファに寝そべったまま手を伸ばした師匠に、紙を渡す。

「授業参観があるんだって」
「授業参観?」

 受け取った師匠が、じっと目で活字を追っていた。

 その日は、各洞府からみんなの師匠が集まって、俺達の授業を見るらしい。全クラス合同だと聞いている。果たして、師匠も来てくれるのだろうか? ぐるぐる山の外にいる師匠がイメージできない。

「もうそんな時期か。時間が経つのは、早いね。次の春で、三年目か」
「俺も八歳になったしな」

 背も少し伸びた。その時、師匠がこちらを見た。

「誕生日、いつなの?」
「えっと、師走の五日」
「昨日じゃないか。言ってくれれば良かったのに。お祝いしないとね」
「お祝い? なんで?」
「誕生日は、お祝いするものだよ」

 ピンと来なくて首を傾げた。生まれてから今まで、俺は一度も誕生日を祝ったことがない。多分、無い。
 今では人間界にいた頃の記憶も、両親の顔も、おぼろげにしか思い出せないから、確かなことは言えないんだけどな。
 ただ、祝うと言うことを知らなかったから、祝ったことが無いと思うのだ。おめでたいことは、経験があると、なんとなく覚えているのだ。これまでの生活からして、それは間違いない。

「おめでとう、環。何か欲しいものはある?」
「欲しいもの……えっと、ショートケーキ。いちごがのってるやつ!」
「ケーキは別に用意するよ。食べ物以外で何かある?」

 師匠の問いに、考え込んだ。特に思いつかない。なんだろう。悩んだ末、俺はふと写真のことを思い出した。あれは、楽しかった。

「カメラが欲しい」
「了解。ちなみに食べたいものは何なの?」
「うーん、グラタンだろ? ハンバーグとエビフライも。後、ゆで卵」

 俺は、ひっそりとゆで卵が好きだ。入っていると、サラダもきちんと食べられる。

「夕食はそれにしようね」

 師匠が頷いた。ぐるぐる山では、人工的な食材以外は、なんでも手に入る。これは、四季を問わない。だから急に食べたいものを告げても、作ってもらえるんだと思う。
 その日の夜は、師匠が、俺が述べた料理を作ってくれた。
 それから、水色の包装紙と青いリボンで彩られた箱をくれた。俺が生まれて初めてもらう、誕生日プレゼントだ。わくわくしながら開くと、カメラが入っていた。ただ、以前のカメラとは違い、紙が出てくる場所がない。かわりに茶色い小型の巻物が入っていた。師匠は、それをカメラの中にセットした。

「これは、フィルム。ここに写真が焼きつくんだよ。撮り終わったら俺に渡して。現像するからね。そうすると、見られるようになるんだ」

 楽しみになって、俺は頷いた。
 その日は、鍛錬がお休みになった。
 だからいつもより早い時間に、俺は師匠の布団に潜り込んだ。

 温かいなと感じながら、まどろむ。
 幸せだなぁ。ずっと夜のままで、誕生日のお祝いが終わらなければいいのに。
 勿論、ちゃんと朝は来たのだが。ただ目が覚めた後も、幸せな気持ちは続いていた。

 その内に、授業参観の日が訪れた。

 朝からそわそわしてしまった。本当に師匠は来てくれるのだろうか?

 本日は合同授業だから、集められた室内には三十人前後の道士がいる。
 愉楽先生が黒板側の扉、久しぶりに見る時生先生が教室の後ろ側の扉の前に立っていた。俺はこの二人の他に先生を見たことがない。

 黒板とは反対の、後ろの壁側には、ずらりと仙人が並んでいる。みんな誰かの師匠だ。
 おじいちゃんや大人が多い。こうして考えると、やっぱり師匠はすごく若い。
 ――いや、他にも若い人がいた。

「こんにちはー!」

 明るい声を上げて入ってきた玉藍様を見て、俺は思う。師匠よりは年上の二十代半ばくらいに見えるが、玉藍様はこの室内では圧倒的に若い。その姿に朱李が、前の席から振り返った。嬉しそうな顔をしている。朱李と会うのも、俺は久しぶりだった。
 俺の右隣はいつもと同じで青鼠、そして左隣は泰岳だった。彼の前、朱李の隣が深愁だ。
 この教室では、俺達五人だけが子供だ。青鼠は勿論年上だけどな。

「久しぶりだねぇ、愉楽!」

 勢いよく玉藍様が、黒板側に進んでいった。知り合いらしい。
 二人は、同じくらいの年齢に見える。

 玉藍様は、藍色の服を着ていた。首もとに入った合わせ目を、紐でスニーカーみたいにとめている。その紐は金色だ。上着が左右にスリットの入った道服で、下衣はクリーム色。帯は黒だ。帯が背中の後ろで揺れている。
 正面に視線を戻すと、首元の紐の下には、濃い緑色で小さな龍の刺繍が施されていることに気づいた。背中には、北斗七星が大きく描かれている。こちらは銀色の糸だ。
 前に見た時とは全然違う。
 形は一緒だが、前は焦げ茶色の道服で無地だった。下衣は同じに見えるけど。背中にあるのは確か、『北斗に七』という、洞府紋だったと思う。正装なんじゃないだろうか。

「お久しぶりです。相変わらず派手ですね」
「今日はこれでも、道服の色を抑えたんだよ? 朱色と迷ったんだけどさ! いやねぇ、今日のために新調しちゃったよ!」
「かわりませんね、貴方は。同期として、懐かしいですが」

 愉楽先生がそんな事を言った。二人は、同期なのか。同期との仲は、仙人になってからも続くんだな。俺の同期は……四人? 青鼠を入れて良いのか悩んだ。

「騒がしいな。相変わらず、うるさい」

 気づくと、後ろ側の扉が開いていた。視線を向けると、上下共に真っ黒い道服姿の、小柄な青年が立っていた。玉藍様を見た後だと地味だ。ただ、布地よりもっと黒いツルツルの縁取りが綺麗だ。本物の宝石に見えた。黒曜石だっけ?

「黒耀……あのさ、なんなの? 私にいちいちつっかからないで欲しいんだけど。他に話す相手がいないの? ああ、なるほど。そう言う事ね」

 玉藍様が、黒耀様に歩み寄った。黒曜石と黒耀様は名前がそっくりだ。黒耀様の暗い髪が揺れて、切れ長の目が細くなった。身長が高い玉藍様は、苛立つようにひきつった笑みを浮かべて少し屈んでいる。腰に手を添え、黒耀様を覗き込んでいるのだ。
 黒耀様は、背は低いが、大人っぽい顔立ちだ。深愁のお師匠様である。
 玉藍様の方が若く見えた。見た目は、である。実年齢は不明だ。

「まぁまぁ、お二人とも」

 時生先生が静止すると、二人がそろって視線を向けた。口をつぐむ。時生先生は、いつも教室のみんなをなだめているから、こういう場面に慣れているのかもしれない。

 それからも、ぞくぞくと人が集まってきた。だけど俺の師匠はまだ来ない……。
 何度もチラチラと後ろを見ていると、隣で泰岳が溜息をついた。
 少し寂しそうな横顔をしている。

「来るだけ良いだろう。うちの慈覚様は、ご多忙だからきっと来ない」
「あ、そうなのか? あれ、青鼠の師匠は?」
「うちの馬鹿師匠は、多分、遅刻」

 呆れたように青鼠が言った。仙人でも遅刻することがあるのか。師匠も、まさか……?
 いいや、朝は起きていて、普通に朝食を作ってくれた。そう考えていた時、扉が開いた。
 振り返ると、そこには俺の師匠の森羅様の姿があった。良かった!

 師匠はいつも通りの服を着ている。
 上は白いゆったりとした道服で、下は黒くて細身。俺の練習用の服と同じ作りだ。違いはと言えば、正面が前開きで、それを大きな四角いボタンでとめていることだろう。ボタンも白い。点々とそれが、上から下まで続いている。

 こうして外で客観的に見ると、師匠の服は、とても地味だ。

 他の人々が、派手だからかもしれない。
 みんな刺繍が施された服を着ているのだ。ただなんとなく師匠の服が一番、洗練されて見える。師匠は格好良い。そして、やっぱり若い。二十代前半に見える。

「あ、森羅! こっちこっち!」

 先程までの不機嫌そうな様子が嘘のように、満面の笑みを浮かべて、玉藍様が手を振った。そちらを見て歩き出そうとした師匠に、資料を手渡しながら、時生先生が声をかけた。他の仙人達にかけた言葉とは違う。

「お久しぶりです、森羅先生」
「元気そうだね」

 ポツリと答えると、師匠は玉藍様の隣まで歩いた。後ろ側のほぼ中央に向かう。玉藍様の所だ。玉藍様がいるせいか、そこだけぽっかりと空間があいていた。皆、遠慮しているみたいだ。黒耀様だけが、堂々とその隣にいる。俺は師匠もそこへ行くのを眺めてから、首を傾げた。
 時生先生が、師匠に『先生』と確かに言ったからだ。
 どういう事だろうか? 
 考えていると、玉藍様も同じ事を思ったようで、師匠に向かって首を捻っていた。

「森羅ってもしかして、この学校で働いてたの?」
「前にちょっとだけね」
「うわー、意外。だけど納得した。それなら明星宮の一級指定文献も読めるよね。教員は無条件に閲覧できるし。それで万象院様のカプセル理論を知ってたわけだ」

 俺も意外だった。先生をしている師匠が、あまり想像できない。
 それにしても――玉藍様はよく喋る。隣では、黒耀様が玉藍様を睨んでいる。うるさいと思っている顔だ。二人は仲が悪いのだろうか?

 その時、時生先生も教室の前方へと移動した。
 それを見て、愉楽先生が口を開く。

「それでは、まだいらっしゃっていない保護者の方もおりますが、授業参観を始めたいと思います。お手元の資料をお開き下さい」

 俺達生徒にも同じ資料が配られている。
 冊子を開くと、中からふわりと白紙が浮かび上がった。

「本日は、普段の鍛錬の成果を見て頂きます。折角ですので、保護者の皆様にも参加して頂きます。高仙の方々――最上仙の皆様もいらっしゃいますし、生徒にとっても貴重な経験となることでしょう」

 愉楽先生が笑顔でそう言うと、室内が少しざわついた。