俺は緊張しながら、ひとりぼっちで瞠若山明星宮の一階の大広間にいた。

 扉は開け放たれている。回廊を行き交う多くの人々が見えた。
 だけど俺は一人だった。誰も、この部屋に入ってこない。
 拳を握りしめて、きつく目を伏せる。体が震えた。

 先程、ニヤリと笑って馬鹿にするような顔つきで出て行った『どうはい』の顔を思い出す。俺と同じくらいの子供だった。彼の声が、俺の耳の奥で残響している。

「いいか? ここで『せんしゅつ』されなかったら、『にんげん界』に戻されるんだからな!」

 そう言って彼は笑っていた。口元のほくろを覚えている。
 回想すると、胸がギュッと痛んだ。苦しくなる。俺は、難しい言葉は分からない。だけど、『にんげん界』が、この『わせん界』に来る前にいた場所だと言うことは覚えている。息苦しい。嫌な匂いが、俺の鼻を麻痺させた気がした。

 ――貴方は、生きるのよ。

 それが母の最後の言葉だった。皮ばかりになった骨張った手で、母は俺の頬に触れた。俺は、母さんの黄胆で変色した顔が怖かった。あるいは、死臭に怯えていたのかも知れない。
 母の隣には、茣蓙の上に父が横たわっていた。白い蛆虫がたかっていた。木製の小さな小屋には、蠅が無数に飛んでいた。そのまま母もこと切れた。俺の両親は、疫病で亡くなったのだ。
 それから……どのくらいの時間、日数、その場で膝を抱えて過ごしたのかは覚えていない。ぐりゅぐりゅとお腹がなった。意識が遠のきそうになる。虫はどんどん増えていく。
 このままでは近いうちに、俺もまた死ぬと言うことを悟っていた。薄い布を着ていた俺は、汗でべったりと服も黒い髪も皮膚にはりついている事を理解していた。季節は夏だった。暑い。なのに――全身をふるえが襲った。寒かった。
 屋外へと出たのは、生存本能からだったのかもしれない。お腹が減っていた。もう二週間は何も食べていない。
 そこで俺は、日差しを浴びた。近くの崖まで歩き、膝をついたのだったと思う。
 不思議と悲しくはなかった。涙など出なかった。ここは、『じごく』だ。

「本当にそうかな? 生きていれば、良いこともきっとあるよ」

 声をかけられたのは、その時のことだった。我に返って目を見開く。ハッとしながら息を飲んだ。振り返ると、そこには長身の青年が立っていた。見たことのない服を来ている。

「この世界には、天数というものが存在する。それがね、君はまだ生きるべきだと言っているんだ」

 首を傾げた俺に、青年が柔和な微笑を向けた。そして、手を差し出した。

「俺の手を取るか否かは、君の自由だけれどね。生きたければ、さぁ、手を出して」

 俺は迷わなかった。母の言葉を思い出していた。だが、それだけが理由じゃない。俺が、俺自身が、生きたいと思っていたのだ。脳裏で、なぜなのかパズルのピースがはまったような音がする。この選択が正しい気がしたのだ。時計の針が進んだような感覚がした。

 それから気がつくと、俺は見知らぬ場所に立っていた。青年に手を引かれるがままに歩く。通されたのは、湯気が立ち上る池のような場所だった。

「まずは、温泉に入ろうか。身を清めないとね」
「おんせん……?」

 その日、俺は始めて、温かい水に浸かった。
 それが『湯』であり、『温泉』だということは後日知った。

 俺が連れられてきた場所は、『わせん界』の『どうじゃく山』の『みょうじょう宮』だった。瞠若山や明星宮と書くと、今は知っている。わせんは、和仙だっただろうか。それらは、『とうげんせんどう宮』で習った。『学校』だ。
 師匠が選定されるまでの一年間、俺はそこで、『わせん界』の初歩的な知識と『文字』を学んだのである。そこにいたのは、俺だけではない。俺は四つの時に来たのだが、同じ年頃の子供が両手の数よりも多くいた。足の指を足しても足りなかった。

 ここ――わせん界には、仙人と道士が住んでいるのだという。
 仙人は、洞府を開いたり任されたりして、道士の師匠をしているそうだった。
『あいうえお』『かきくけこ』と必死で文字を覚えるのと同時に、俺は頑張ってそれらのわせん界の知識を覚えた。沢山の御伽噺も教えてもらった。
 一年後、俺達は、師匠に選んでもらい、弟子となると教えられていた。それを経て正式に、わせん界の住人となる。選ばれなければ……住むことは許されない。
 中には、わせん界出身の子供もいたけど、大半は、にんげん界から来ていた。許されなかった子供は、にんげん界に戻されるそうだ。それを聞く度に、嫌な臭いを思い出した。人が腐る臭いだ。蠅の羽音が響いてくる。ここには蠅なんかいないのに。俺は、わせん界から離れたくなかった。生まれて初めて、お腹いっぱい食べられて、何も気にせず眠ることが出来て、なにより死の脅威に晒されない毎日を過ごしたからだ。

 『せんしゅつ』される日、即ち今日、朝から俺は落ち着かなかった。

 集められた俺達の所に、一人、あるいは連れ立って仙人が入ってきた。
 成績の良かった『えりーと』の子供は、早々に手を引かれて出て行った。
 彼は、既に名前も与えられていたし、最初から師匠も決まっていた。
 俺には、名前もない。学校では、師匠が名前を付けてくれると習っていた。

 だから俺は、俺だけの師匠を待っているのだ。決めてくれる瞬間が、待ち遠しい。

 一人、また一人と、室内から子供はいなくなる。一人だけ連れられていくこともあれば、四・五人まとめて呼ばれて出て行くこともあった。だけど、俺の名前は呼ばれない。

 こうして、俺はひとりぼっちになったのだ。

 嫌だ。俺は、戻りたくない。
 涙がこみ上げてくる。
 手の甲で、必死にそれをぬぐった。

「やぁ。久しぶりだね」

 その時、明るい声がした。顔を上げると、俺をここに連れてきてくれた青年――南極仙翁が立っていた。南極は、朗らかに笑っている。

「南極、ねぇ、南極! 俺を弟子にして……!」

 俺は必死だった。涙混じりの声で頼んだ。

「無理かな」

 だが笑顔のままで、きっぱりと南極が言った。胸が苦しい。

「だったら……だったら!」
「だったら?」
「太鼎教主様に会わせて」

 俺はお願いした。太鼎教主様とは、このわせん界に、『仙人宗』の一つに分類される『天玄教』を開いた、この場所で一番偉い人のことだ。一度も会ったことはないが、教主様の決定は絶対だと聞いた。だから、教主様に許してもらえれば、俺はここにいて良いはずだった。

「それも無理だね。君は、頑張って師匠を探すんだ。応援しているよ」

 南極はそう言うと、相変わらず笑顔のままで、出て行った。残された俺は、ついに涙をこぼした。そう、仙人であれば、仙人でさえあれば、誰だって良いのだという。たった一人が、俺を弟子にすると宣言してくれれば、ここにいていいのだ。
 でも、回廊を行き交う多くの人々は、こちらを見ようともしない。
 俺は南極を追いかけたかったけど、この部屋から出ることは許されていない。出たら最後、失格と見なされると聞いていたからだ。失格すれば、問答無用で『にんげん界』行きだ。それは絶対嫌だった。

「!」

 その時、開けっ放しの扉から、ころころと巻物が転がってきた。反射的に、俺は手を伸ばした。すると、ほぼ同時に手が伸びた。俺よりもずっと大きな手だ。驚いて顔を上げると、部屋へ一歩踏み込んできた、屈んでいる青年と視線があった。どうやら落とした巻物を拾おうと中に入ってきたらしい。

「あ、あの、仙人?」

 俺は呟くように尋ねた。激しい動悸に襲われる。ゆっくりと姿勢を直した青年が、俺をまじまじと見た。

「そうだけど」

 青年は首を捻っていた。仙人……! 俺は大きく息を吐いてから、青年に詰め寄った。

「俺を、俺を弟子にしてくれ!」

 そう言って青年の服を引っ張った。背伸びして、ぎゅうぎゅう衣を握ったのだ。

「……弟子? ああ――今日は、『選定の日』か。だけど君しかいないんだから、選ぶ余地がないね」
「俺を選んでくれ!」

 最初青年は、虚をつかれたような顔をした。それから、スッと目を細めた。無機質な表情に代わる。

「どうして?」

 問われて俺は言葉に詰まった。どうして?

「どうして、仙人になりたいの?」

 続けて聞かれた。俺は……率直に言って、別に仙人になりたいわけじゃなかった。ただ、ただただ、戻されるのが嫌だったのだ。

「ここにいたいんだ」

 本音が漏れた。涙も零れた。鼻水を啜る。大きく瞬きをすると、ボロボロと温水が頬を濡らした。本当、みっともない。

「……そう。離してもらえる?」
「嫌だ! 俺は、弟子になりたい! 仙人なら誰でも良いんだ。俺を選んでくれれば、誰でも良いんだ! お願いだから!」

 今になって思えば失礼だな。けれどそれが、紛れもない本心だった。青年はそんな俺をじっと見据えてから、溜息をついた。

「別に――構わないよ」
「……え?」
「ついておいで」

 青年の声に、彼の服を握りしめたまま、俺は何度も瞼の開閉をした。現実認識が上手くできない。信じられない。しかし理解した瞬間には、思わず破顔していた。くしゃくしゃの笑顔を浮かべた気がする。胸に今度は、温かいものが満ちていく。
 ゆっくりと両足を床につき、俺はいっぱい頷いた。今度は歓喜から涙が溢れる。

「だからね、服を離してもらえる?」
「あ……」
「おいで」

 俺が手を離すと、青年が掌を差し出した。

「こっちはいくら握っても良いよ」

 俺はおずおずと指先をのせた。するとギュッと青年が俺の手を掴んだ。そして歩き出した。早足で、俺は懸命に着いていく。それから少し歩いたところで、青年が俺を見た。

「君、名前は?」
「な、名前は師匠が付けてくれるものだって聞いてる」
「へぇ。それは知らなかったよ」

 俺は俯いた。名前をもらうことを、本当に楽しみにしていたからだ。昔は俺にも名前があった気がするけど、わせん界に来てからは思い出せなくなってしまったのだ。

「それじゃあ、行こうか。環」
「?」
「環。それが今日から君の名前だ。気に入らなかった?」

 たまき、と舌の上にのせて、俺は目を見開いた。何度も首を振る。俺の、名前。俺に名前が出来た。嬉しくて仕方がない。

「俺は、環だ」
「うん、そうだね」

 頬がゆるむ。うきうきしながら歩いて、俺は瞬きをした。
 そして目を開いた瞬間硬直した。
 俺は、それまで明星宮の回廊にいたはずだったのに、体が外の風に触れていたからだ。
 床は、砂利が踏み固められた細い道に変わっていた。
 道の左右には木々が並んでいる。

「ここ、どこ?」
「俺の洞府の入り口だよ」
「どうやってここに来たんだ?」
「簡単に言えば、仙術だよ」

 俺は初めて仙術を目の当たりにした。仙人にはこんな事が出来るのか。
 驚きすぎて、言葉が出てこない。
 手を繋いで歩きながら、何度も考えた。全然やり方が分からない。
 その内に俺は、歩き疲れた。ぐるぐると坂をあがっているのだが、終わりが見えない。