<3>浴衣


 嗚呼――……外に出なければ。

 真っ暗な部屋の中で、僕は考えていた。僕はただ死にたいと思っただけだったはずなのに、結局残ったのは、人々に迷惑をかけたという事実だけだ。

 ”雨”にも悪い事をしてしまった。

 一度”霙”が来てくれたけど、きっとそれは、落ち込んでいたのだろう(多分)”雨”を慰めるために、様子を見に来たのだろう。”霙”は、その時確実に、”雨”を苦しめた僕の事を、忌まわしい物を見るように、半眼で見ていた。腐った果実を眺めるような瞳だったから、僕にも見覚えのある顔だった。

 生きていても迷惑をかけ、死のうとしても迷惑をかけ、きっと死んでも迷惑をかけ(これは気のせいかも知れない。あるとしたら葬儀とかかな……あるのかな)、今僕は、何をすればいいのか分からないでいた。

 僕は選択を間違えたのかも知れない。

 ”ネコ缶”に頼むか、”ネコ缶”を殺して”黒キリン”を本気にさせれば良かったのか。
 あるいは、率直に”リスナー”に頼んでも良かったのかも知れない。
 ただとりあえず分かるのは、外に出なければならない事だ。

 僕には元々そんなに食欲がないが、点滴だけの栄養だけじゃダメだと言って、”リスナー”がわざわざ持ってきてくれる。だから僕は、無理に食べている。いつも吐き気を堪えながら。実際、体力が落ちているのも、自覚していた。兎に角外へと出て、”リスナー”に迷惑をかけるのを止めよう。

 だけど。

 外に出た後、僕は何処に行けばいい?

 これまでは、誰かの家を点々としていた。だけど、”リスナー”なら、すぐに僕が何処にいるか分かってしまうだろう。

 ――”リスナー”に関知されなくて、僕が行ける場所。”ゑル駄”しかない。

 ”霙”と”雨”に会う心配もない。
 きっと今でも楽しくデートスポットとやらに、出かけているのだろうから。

 そう考えた僕は、薬だけを鞄に詰めて、窓を開けた。
 今日は、風が吹いている。
 屋根を伝って地上まで降りて、僕は久しぶりに電車に乗った。そしてすぐに”夜”の世界がやってきたから、”ゑル駄”の中へと入った。

 此処はいつも賑やかで、明るくて、夜は来ない。何故夜が来ないのかを、僕は知らない。

 暫く歩き、食べたい物を探してみる。だけど、相変わらず味覚があまり感じられないのか、何を食べても味がする気がしないからなのか、食べたい物がない。

 けど、正体を隠して此処にいる以上、早々にどこかの店に入らなければ。

 そう考えていた時だった。誰かに、強い力で手首を掴まれた。

 驚いて顔を上げると、そこには、険しい顔をした”霙”がいた。
 怒っている時の顔だ、それくらいは僕にも分かる。

「何してんだよ」

 激怒し、その後呆れたように、気怠い顔で”霙”が言う。だけど僕にはもう、悲しいとか苦しいとか、そう言うのは無くなってしまったみたいだった。ただ浮かんでくるのは、おかしな想像ばかりだった。”雨”と”霙”が一緒に行ったという場所に、僕も一度で良いから行ってみたいな、何て、おこがましい事が不意に浮かんでくるんだ。

「別に」
「別にって、お前な、ここに来られる体力ねぇだろ」
「……見逃して」

 僕は、初めて、『見逃して』なんて言葉を使った。聞く事は良くあったけれど。
 そして僕は見逃した事は、多分無い。だけど……僕と違って”霙”は、こういう時に優しいから、何となく見逃してくれる気がした。ただその目を見るのが怖くて、俯いてしまう。

「――ちょっと来い」

 そのまま、僕の言葉には回答無しに、手首を掴んだまま”霙”が歩き出した。
 土地勘のない僕は、従うしかない。
 ”霙”が入ったのは、普通のマンションの三階だった。

「ここは?」
「俺の家だよ。ここならバレねぇからな。契約する時は苦労したが」

 綺麗な部屋だった。僕が”リスナー”から借りている部屋とは違い、茶色で統一されているのは一緒なのに、良い匂いのする部屋だった。きっと”雨”と過ごしているんだろう。

「で? なんだよ、浴衣でも買いに来たのか?」
「浴衣?」

 首を傾げると、顔を背けて”霙”が溜息をついた。

「もうすぐ納涼祭があんだろ。前に雨で中止になった奴」
「またお祭りがあるんだ」
「ああ。お前が回復したら、絶対に行こうって”雨”がうるせぇんだよ」
「二人で行きたいけど、口実で言ってるんじゃない。そもそも浴衣って何?」

 僕の語彙には、浴衣なんて存在しない。名前くらいは聞いた事があるけど。

「はぁ? なんだよ、それ。イヤミにしても意味がわからねぇよ」
「そうじゃなくて、浴衣って何?」
「何って、祭りできるために買いに来たんじゃねぇの?」
「お祭りで着る服なんだ」

 納得して頷いた僕に、眉を顰めて”霙”が息を飲んだ。
 なんだかイヤミだと思われているらしいが、分からなかったんだから仕方がない。

 ――いつもこうだった。そうだ、いつも。

 僕が何かを言えば、”霙”は、イヤミだなって言っていた気がする。
 どの辺がイヤミなのか、僕には理解できなかったけど。

 知らない事だらけ――僕は、そんな世界で生きてきたし、きっとこれからもそうなんだろう。誰かが殺してくれるまでは。そうだ……また、猫を殺してみようかな。”ネコ缶”は、今度こそ怒ってくれるだろうか。

「――お前さ、”雨”の気が惹きたくてあんな事したのか?」

 その時、冷たい声で”霙”が言った。
 僕は目を伏せ、じっくりと考えてみる。『そうだ』と、答えたら、きっと”霙”は怒る。

 ”雨”が何故僕にとどめを刺さなかったのだとか、何故お祭りに行こう何て言ってくれているらしいのかは、分からないけれど。今、”霙”が怒っているのは分かる。

「うん。そうだよ。それ以外の理由が、あるわけ無いでしょ」

 僕がそう告げると、”霙”が、傍らにあったベッドに僕を突き飛ばした。

「最低だな」

 そして、両手で首を絞められた。この世界では死ねないのに。だから僕は、淡々と見上げていた。久しぶりの戦闘行為だったせいか、意識がグラグラする。苦しくなって呻いたけど、このまま今度こそ死ねるかと思ったら、凄く嬉しくなって、それも”霙”の手でなんて考えると、幸せで笑ってしまいそうになる。

「何でそんな嘘、つくんだよ」

 その時、舌打ちが聞こえてきて、”霙”の手が離れた。
 ぼんやりしながら、僕はそれを見ていた。
 まただ、また、冷たい目をしている。
 僕の返答は、どこかで間違ってしまったようだった。
 そうしていたら、顎をもたれて、次はどんな風に殺そうとされるのか考えた。

「……?」

 降ってきたのは、唇だった。驚いて呼吸し僅かに開いた僕の口の中へと、”霙”の舌が入ってくる。何が起きているのか分からなくて、僕は見守るしかできない。

「っ」

 ただ息苦しさを覚えた時、唇が離れた。そしてそれが、今度は僕の首筋に降ってきた。”雨”が前に言っていた事を思い出す。”霙”は首筋にキスをするのが好きだったっけ。

 ――思い出したくない、聞きたくない。

 気づけば僕は、”霙”の体を押し返していた。

「止めて」
「なんで?」

 なんで――……その問は、僕自身にも分からなかった。ただ、嫌だったのだ。よく分からないけど、”雨”の代わりに、キスされる事が。そして何の意味もなく、犯られる事が。

「”雨”と喧嘩でもしてるの?」
「――は?」

 僕の言葉に、何故なのか”霙”が怪訝そうな顔をした。僕はまた自分の中に、”辛い”という感覚を思い出して、少し誇らしくなる。

 そんな時、僕の体力が失せている体には限界が来たようで、意識を落とすように眠ってしまったのだった。




 目を覚ますと、のぞき込んでいる”霙”の顔があった。

「大丈夫か?」

 そんな事、”霙”から言われたのは、初めてのような気がする。
 小さく頷きながら、まだ”霙”の家にいるのだなと理解した。

「迷惑かけたね。帰るよ」
「ダメだ」
「どうして?」
「今日は絶対に、もう動かすなって言われてる」
「誰に?」
「”リスナー”と、飲んでた天草」

 険しい顔で溜息をついている”霙”を、僕は眺めた。
 やはり、迷惑なのだろう。
 それに連絡を取ったみたいだから、”リスナー”にも居場所がばれてしまったようだ。

 出て行く算段を考えながら、起き上がるのが苦しい体を自覚する。
 だが――何かを取りに出て行った”霙”を確認した直後、僕は無理矢理窓を開けた。

「!」

 その時、後ろで息を飲む気配がした。
 慌てたような両腕が、僕を抱き留めるように拘束し、床へと座る。

「なにやってんだよ、ったく!! 今度はうちで飛び降り自殺か?」
「……そういうわけじゃ――」
「なら、どういうわけだ?」

 腕の温もりが温かい。僕は多分、”霙”のこうした優しいところが好きなんだ。
 僕のために怒ってくれるような。

「もうすぐ”雨”も来るから、今は余計な事は何も考えるな」

 その声に、僕は息苦しくなって、頑張って吐息した。

「やっぱりお前、本当は、死にたくなるくらい”雨”の事が好きだったんだろ?」
「……違うよ」
「本当に?」

 不意に呼び鈴の音がした。ああ、”雨”が来たんだろうと思った。
 実際そうで、この部屋まで入ってくる。

「――抱き合ってるところ悪いね」

 ”雨”の声が険しい。やっぱりそれほどまでに”霙”の事が好きなのだろう。

「救護だ救護」

 慌てたように否定して、”霙”が、ゆっくり僕を座らせた。

「……久しぶり」

 床に座っている僕に、”雨”が言った。
 頷いて返すと、苦笑が漏れてきた。

「そんなに、会いたかったの?」

 ”雨”の言葉が誰を指しているのか分からず、首を捻る。

「誰に?」

 すると”雨”が、何故なのか苦しそうな顔をして、視線を背けた。

「お祭り、一緒に行こうね。浴衣買ってさ。雨、降らないと良いね」

 本当に”雨”は、お祭りに行くつもりだったのだなと思った。それも、三人で。

「二人で行けば」
「っ」

 僕の言葉に”雨”が、息を飲む。
 だけど。
 きっと、僕が居たら邪魔だから。浴衣をちょっと着てみたいし、かき氷は食べたいけれど、二度目があると言う事は、またきっとお祭りはあるんだろう。

「”灯”がいなきゃ意味がないんだよ。それに――”俺”と”霙”が付き合ってるって言うのは、嘘なんだ」

 ”雨”はそう言ったけれど、恐らくは周囲に迷惑をかけた僕に、気を遣ってくれているのだと思う。ここで”霙”の名前が出てきた以上、僕の気持ちも、とうに本人にも周囲にもばれているのかも知れない。

「そんな事無いよ。いつも、楽しくデートに行ってたんでしょ」
「それは――」
「お祭りだってきっとそうなるよ。浴衣を着て、花火を見て」

 ちょっとだけ、羨ましいなと僕は思った。

 なのに”雨”は泣きそうな顔をしているし、先ほどから無言で立っている”霙”も険し顔をしていた。きっと”雨”にそんな表情をさせて、三人で行くのを断ったから、”霙”は怒っているのだろう。だけど、二人で楽しそうにデートしているところに、僕がいたら邪魔だろうし、そんな光景見たくない。見たくないも何も、僕には見る価値なんて無いだろうし、やはり、他者に迷惑をかけない死に方を模索するべきなのだろう。

 ただ一つだけ、別の事も考えた。

「誘ってくれて、有難う」

 僕がポツリというと、息を飲んで”雨”が部屋から出て行ってしまった。
 ”霙”が、その後を追う。
 一人になった室内で、僕は這うようにして、寝台へと戻った。
 そして――二人の幸せを願い、応援してから、眠ったのだった。