<0>”眼球虫”(あるいは”灯”の軌跡 ※)



 世界は暗い――そんなの、あるいは子供であったその時でも、僕には分かった。
 光り輝くのは、試験管の黄緑色の泡を立てた液体だけだ。
 01と左肩に刻印されて、鉄の首輪を填められて。
 それは当然の事実だったから、疑問に想った事なんて一度もなかった。

 ――何故僕は此処にいる?

 そんな事は愚問であり、考えることも無かった。
 僕には、考えるという行為を教えられなかったからだ。
 だけど。

 それでも分かることが一つだけあった――嗚呼、世界は暗い。

「今日はこの”瞳”を試してみよう」

 白衣の誰かがそう言って、僕の脇腹が切り裂かれた。
 深く深く、皮膚を破り、脂肪を切り、肉を切っていく。ポタポタと流れていく僕の血には構わず、触手じみた細い視神経が入り込んでくる。僕はこの後の結果を知っている。僕の腹部に到達した眼球ははじけ飛び潰れて、僕の頬を汚すのだ。白と赤の破片が今日も山川の瞳のように僕を汚す。

「うーん、これでもダメか。君には才能が無いのかもね」

 溜息をつき、蔑んだ瞳をして、白衣の主は帰っていく。
 十字架に磔にされたまま、僕はそれを眺めていた。
 嗚呼――世界は暗い。
 あるいは、『暗い』と思うこと自体が思考だったのかも知れない。

 今ではそう思う。
 ただその頃は、痛みも何も感じなかったんだ。

 だから、『未来』なんて言葉も当然知らなかった。

 尤も知ったところで、僕に『未来』なんてあるのかは知らない。
 ――だって僕は、恐らく今、初めて他者に執着しているけど。

 嫌われているんだ。それは酷く悲しくて切ないことだろうに、僕はその感情すら欠如しているらしい。顔を見たいと思うことはあっても、側にいたいなんて思ったことすらない。

 寧ろただ、早く僕のことを殺してくれないかな、だなんて思っている。きっと彼にはそれが出来るから。恐らく彼は殺した相手の事なんて覚えていないだろうから、僕の存在は直ぐに忘れ去られるのだろう。

 ただ、それで良かった、それが、きっと――……
 『未来』って奴なんだと思うから。
 僕は、死ぬという未来への希望を確かに手に入れたんだ。


 ≪眼球虫≫の施設に襲撃があったのは、ある日のことだった。
 みんな逃げた。
 磔にされていた僕は、首輪と足かせで動けなかったし、そもそも何が起きているのか分からないまま、切り裂かれた脇腹からボロボロと血を零していているだけだった。

 入ってきたのは――今では軍服なのだろうと分かる青年で、僕に向かって大きな銃を構えていた。だけど僕は、銃の存在すら知らなかったから、唯一自由になる首を動かすしかない。

 二人で入ってきた青年は、僕を見ると眉を顰めた。
 先に入ってきた方が、僕に聞いた。

「名前は?」
「ナマエ?」

 ナマエという単語を僕はその時知らなかった。僕は物心ついた時からずっと、此処に張り付けられていたからだ。日常会話こそ、文字を読むことこそ教えられたが、漢字や難しい単語は分からなかった。

 そして僕にとってナマエは難しい単語だったんだろう。何せ必要がなかったから。

「歳は?」
「トシ?」

 反復してみるが、意味が分からない。
 そうしていると、もう一人取りが僕の足かせと、手かせ、首輪を外した。
 地に降りた僕には、やることがあった。
 ――見覚えのない他人が此処へ入ってきたら、殺せ。

 白衣の誰かが言ったのだ。
 それを思い出した瞬間、僕は手に力を込めて、二人の首を刎ねていた。

 血飛沫が飛び、僕の頬を汚したけれど、毎日僕の腹部からタラタラ流れる血とそんなに変わらないと判断した。僕は、”死”という概念を持ち合わせていなかった。勿論此処が”夜月時計の世界”だなんて、知りもしなかったのだ。

 僕は会う度に人を殺し、それから、どうしていいのか分からなくなった。
 だって――みんな死んでしまったのだから。

 その時だった。
 走り寄ってくる物があった。白い細いナニカで地面を這ってくる。
 アレは、人じゃないから、殺す対象ではない。
 暫く見つめていると、それは僕の右肩を絡め取った。

 01と刻印された右肩に、それは入り込んできた。何度か瞬きをして、紫色の瞳の、眼球によく似たナニカが僕に左肩に鎮座したのだ。

「?」

 意味がよく分からなかった。

 その瞬間だった。

「あのさぁ、俺は”人間”だけど、君と一緒で、その眼球がはまってるから”もう”人間じゃないんだ。だから、殺さないで話を聞いてくれない? 俺は”翡翠”」

 その言葉を揚げた。すると、”翡翠”色の目をした青年がそこには立っていた。
 ”翡翠”は、彼が捲った脇腹に鎮座する眼球を見せてくれた。

「災難だったね――01」
「?」
「そう呼ばれてたんでしょ? ≪眼球虫≫の初めての被験者」
「分からない」
「まぁさ、名前なんてどうでもいいじゃん。とりあえず行こう」

 そう言って微笑んだ”翡翠”に、人生で初めて外の空気を吸った僕は首を傾げた。

「何処に?」
「安全なところ」

 ”翡翠”は自信たっぷりに見える笑顔を浮かべた。
 僕の前で笑ったのは、”翡翠”が初めてだった。

 だから。
 だから――僕はついて行ってみることにした。
 それは初めて、人生で初めての、自分自身の決断だった。